第二百三十一話 遠き落日
ヴィエイユとカッセルが、それぞれの道を歩き始めてから5年後、クリミアーナ教国の首都、アフロディーテでは臨時枢機卿会議が行われ、満場一致で次期教皇の決定がなされた。
教皇に指名されたのは、わずか14歳の少年で、左腕を失いながらもクリミアーナ教の綱紀粛正を断行し、さらにクリミアーナ教を国教とする国々の繋がりを強化した実績が認められての教皇指名だった。その名をカッセルと言った。
会議終了後、教皇神殿の一室で、現教皇、ジュヴアンセル・セインをはじめとする各枢機卿たち幹部が一堂に会しての、カッセルの次期教皇内定の宴が行われた。これから全世界に向けて次期教皇決定の発表が行われる。そして一年後には、全世界の国主や関係者を招待して、盛大な就任式が開催されることになっていた。それに合わせて、現教皇は隠居することも正式に決定していたのだった。
教皇の隣に控えるカッセルには、枢機卿から次々と祝いの挨拶がなされている。この5年間で、教徒たちの信仰に対する姿勢は見違えるまでになっていた。教皇の言葉は即ち、主神様の言葉。その命令に忠実に従う者は手厚く保護し、従わぬ者は容赦なく排除してきた。そのおかげで、一万人近い人間が粛清され、2つの国が滅びたのだが、カッセルはその成果に満足していなかった。
彼が、まず葬りたかったのはヴィエイユだった。しかし結局、彼女の反逆の証拠を掴むことはできず、それどころか、彼女は教国に反する国々を、再び信仰厚き国に変貌させるという成果まで残していたのだ。しかし一方で、教国からの命令をのらりくらりと躱し、必ずしも教国に従う姿勢を見せなかった。これが決め手となり、カッセルがその後継者に指名されることになったのだった。
加えて彼は、「不死の男」という異名があった。彼の過激な政策は当然、多くの敵を生み出したが、その敵の襲撃や暗殺の類を、全て切り抜けてきたのだ。彼はそれを主神様のご加護と吹聴し、周囲も幾度も危機を切り抜けるカッセルを見て、それを認めざるを得なくなっていった。むろんこれは、リノスの張った結界が功を奏しているのだが、当然、クリミアーナの人々はその事情を知らない。
今ではカッセルに対抗できる者は教国にはいない。教国とそれに連なる国々との鉄の結束を作り上げることはできた。あとはヴィエイユと、宿敵であるアガルタを葬ることだった。特にアガルタ王、リノスには世話になった。この恩は何倍にもして返さねばならない。
カッセルはアフロディーテに帰還して以来、何度もアガルタへの策を試みた。ある時は侵攻作戦であったり、ある時は経済封鎖を試みたこともあった。しかし、そのどれもが成果を出すことが出来なかった。彼のこの5年間の取り組みの中で、唯一の汚点と言えば、それであった。
これらの試みは全て、計画段階で頓挫した。その都度都度で、教国の領内で天変地異が起こったり、反乱を起こしたりする者が現れたのだ。こうしたことが起こるたびに、教国内は混乱し、その収束に多大なる時間を費やした。これはリノスとヴィエイユを始めとするアガルタ側の国々の連携が成しえたものだった。カッセルは二人の関係を疑いつつも、ついに、その証拠をつかむことはできなかった。
だが、これからは、これまでのような口惜しい思いをすることは、もうなくなる。長い権力闘争の末、教皇の座を掴み取ることができたのだ。これまでのような、根回しをして……といった、まどろっこしいことはもうしない。これからは自分の意志一つでコトを動かすことができるのだ。
カッセルは考える。まずはヴィエイユだ。彼女は生きて捕らえて、必ずこのアフロディーテで十字架に架ける。そしてその後は、ニザ、ラマロン、ヒーデータと順に滅ぼしていき、アガルタを世界の中から完全に孤立させる。あの国に住まう者は全員餓死させるのだ。泣きながら命乞いをしてくる者どもを殺戮して、教国の力を、天道に背く者の末路がどれほどの苦しみを伴うのかを見せつけねばならない。
そんなことを考えていた時、会場から叫び声とも歓声ともつかぬ声が沸き上がった。その声の方向を見ると、人の腕くらいの大きさの小さなドラゴンが宙に浮いていた。そして、そのドラゴンは手に持っていたこぶし大の石をポトリと床に落とし、そのまま消え去った。
会場内が呆気にとられる中、その石が置かれた所から、何と着飾ったヴィエイユの姿が浮かび上がった。その光景に、会場内は騒然とする。
「お久しぶりでございます、教皇様。そして、カッセル。いや、次期教皇様と申し上げた方がよろしいでしょうか?」
満面の笑みを湛えながら、優雅にお辞儀をするヴィエイユ。少女の面影はなくなり、大人の女性としての色気と気品を兼ね備えた美しい佇まいに、枢機卿たちは思わず見とれてしまっている。
「ヴ……ヴィエイユ。あなたは、どうやってここへ……」
驚きながらも、何とか教皇は言葉を絞り出す。ヴィエイユは相変わらず満面の笑みを湛えている。
「姉さま、久しぶりですね」
言葉をかけたのはカッセルだった。彼はゆっくりと彼女の下に近づいていく。そして、彼女の正面に立ち、言葉を投げつける。
「おそらく、アガルタ王の差し金ですね? 邪神がやりそうなことだ。そして、その邪神に肌身を許した女が何の用です? ここに入り込むために、どんな仕掛けを使った? おそらくアガルタ王の邪悪な魔法を使ったのでしょうね。 姉さま、その力を得るために、あなたは何度、アガルタ王にその尻を差し出したのです? 何度アガルタ王の男根に貫かれたのです? その乳、性器、肛門……およそ性交に使える部分は全て、アガルタ王に蹂躙されたのでしょう? 残念ながら、アガルタ王の性交用奴隷が存在する場所は、この都にはありませんよ?」
カッセルは、口角を上げ、ひきつった笑みを浮かべながら、考えられうる限りの下劣な言葉でヴィエイユを冒涜する。しかし、彼女は眉一つ動かさず、相変わらず笑みを湛えたままだ。
「……この数年で、ずいぶんとお勉強をしたのね、カッセル。偉いわね。誉めてあげます」
笑顔の奥の目は、完全にカッセルを侮蔑している。その様子を見ながら、枢機卿の一人が口を開く。
「ヴィエイユ様、あなたには、アガルタ王に肌身を許したという噂があります。それは本当ですか?」
ヴィエイユはその笑顔のまま枢機卿に向き直り、ゆっくりと口を開く。
「ご想像に、お任せします」
「捕らえろ! この女を捕らえろ!」
カッセルの叫ぶような大声を聞いた兵士たちが部屋に乱入してくる。そして、我先にとヴィエイユを捕らえようとする。しかし、彼女に一定の距離まで近づくと、兵士たちは次々と音もなく倒れていく。その様子に兵士たちはたじろぎながら、彼女の周りを十重二十重に取り囲む。
「お静まりください」
ヴィエイユのよく通る声が聞こえる。彼女は教皇とカッセルに、交互に視線を向けながら話を続ける。
「今日お伺いしたのは、単にカッセルの次期教皇就任の祝いを述べに来ただけですが、せっかくです。そのお祝いとして、私から、一つだけ、おめでたい話をお知らせしておきましょうか」
「何だと?」
カッセルの憎しみを湛えた視線を無視するかのように、ヴィエイユは話を続ける。
「カッセル、まずはおめでとう。頑張ってくださいね。私からのお祝いとして、これを差し上げます」
ヴィエイユは懐から一通の書簡を取り出して、それをポイと投げる。あまりのことに、その場が凍る。
「そして、お知らせですが、この度、私は、いま、ただいまをもって、新しいクリミアーナ教を立てることといたします。真の主神様の教えを広めることを目的に、真クリミアーナ教を設立いたします。お陰様で、多くの国、多くの人が私の思いに共感していただき、ご協力を約束いただきました。教皇様、カッセルとは仲良くしたいと思っておりますが、我らを害する者は排除しますので、そのおつもりで。……では、私はお暇致します。ごめんくださいませ」
そう言ってヴィエイユは姿を消した。後になってわかることだが、ヴィエイユの巧みなプレゼン力と丁寧な支援によって、真クリミアーナ教の陣営に取り込まれたのは、教国の陣営のおよそ半分にも及ぶ数であった。教国は当然、それを是とせず、後にカッセルはヴィエイユ陣営に攻撃を仕掛け、クリミアーナ教は勢力を二分した戦いに発展し、教国はその勢力を大きく削られることになる。
ちなみに、ヴィエイユが持ってきた書簡には、このような内容が書いてあったのだが、カッセルはそれを見ようともせずに、部屋を後にしていた。
『前略、カッセル様。次期教皇指名おめでとう。ささやかながらお祝いを贈らせてもらいます。あなたには、致命傷を負うと強制的に回復されてしまう呪いがかけられていますね? それを、解除します。これで、いつでも愛する主神様の下にいくことができます。よかったですね。これから先、あなたが病に倒れようと、殺されようと、我々は一切関知しないからそのつもりで。なお、あなたの結界は自動的に消滅します。健闘を祈ります』
後にカッセルは、自ら大軍を率いて真クリミアーナ教国軍に決戦を挑み、雨のように降り注ぐ弓矢に全身を貫かれて、戦場にその屍を晒した。教皇、ジュヴァンセルも、カッセルが戦死したその数か月後に、アフロディーテにおいて十字架に架けられ、必死の命乞いもむなしく、ヴィエイユの槍で心臓を貫かれてその命を終えることになるのだが……。それはまた、別のお話。