第二百三十話 帰還②
ただただ、幽鬼のように立ち尽くしているカッセルは、以前のような上品さと聡明さ、そして、頭のいい子供にありがちなプライドの高さを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。ただ、目だけを爛々と輝かせて、教皇を睨みつけていた。その様子からは、怒りと憎悪、そして恐怖という感情を読み取ることができる。しかし、感じ取ることができるのはそれだけで、それ以外の感情は、彼からは何も感じられない。
「カッセル……。カッセルなのですか?」
そのあまりの変貌ぶりに、教皇は思わず周囲にいた枢機卿に確認する。その御意を受けた枢機卿が、教皇に小声で説明する。
「教皇聖下ぁ!!!!」
広い教皇の執務室に、カッセルの絶叫にも似た声が響き渡る。
「クリミアーナ教国は、このままでは滅びますよ!」
あまりの発言に、列席者が凍り付く。しかし、教皇だけは、そんな彼の暴言を、柔和な顔のまま受け止めている。
「アガルタは、天道に背く国だ! 絶対に許してはならない国だ! 絶対に、滅ぼさねばならない国です! 確かにアガルタ王は言った、自分は大魔王の僕だと! しかし、しかし、アフロディーテに帰ってくるまでに立ち寄った国々はどうだ! 僕が何度もあの国の危うさを説明し、何度もアガルタに兵を向けろと言っても、誰一人としてあの国に、あの王に、鉄槌を下そうとする者はいなかった! 我がクリミアーナ教国はどうなっているのです! 目の前に教国に、天道に従わぬ国があるのになぜ滅ぼさない! 主神さまのお言葉を蔑ろにしている! こんな国は、人々は、邪神の僕どもは、必ず滅ぼさねばならない! 必ずだ!」
教皇はゆっくりと頷き、優しい声でカッセルに語りかける。
「カッセル、一体どうしたのです? これまで、何があったのです?」
「僕は、誰よりも主神様の教えは正しいと思っている。主神様の教えは人族を真の幸福に導く唯一のものだ。その教えに従わぬ国、者どもは排除せねばならない! 我が教国は、主神様の教えを守る敬虔な信者たちを守り、幸福に導かねばならない。アガルタと、それに連なる国は、主神さまの教えを否定し、あまつさえ、敬虔な信徒たちを死に追いやった! それに抵抗した僕は、これだけの傷、左腕を失う怪我を負った。アガルタは、アガルタ王は、天道に叛く大悪人だ! こんな輩は、必ず滅ぼさねばならないんだ! しかし、クリミアーナ教を国教と定める国々は、ただ一国としてアガルタを誅する動きを見せていない。クリミアーナ教は、教国は、これでいいのか! これを許していては、教国は滅ぶ! 教国が滅ぶということは、主神様が敗北するということだ! 僕にはそれが我慢ならない!」
何かに取りつかれたかのように喋るカッセルに、誰も口をはさむことが出来ない。彼は体力が低下しているためか、肩を上下させながら、激しく呼吸をしている。
無理もない。彼はもう、何度死ぬような経験をしただろうか。あのアガルタの森で、何千回も魔物に体を食われ、抉られた。毒に侵されたことも一度や二度ではない。体がマヒして動かなくなったこともあった。ありとあらゆる苦しみを受けながら、彼は一歩ずつクリミアーナの本国に向けて歩いたのだ。
「地獄」という言葉では到底表現できない、筆舌に尽くしがたい苦しみを受け続けた旅だった。魔物に襲われる恐怖に加えて、飢えと渇きと疲労が常に襲ってくる状況の中、森の中の道しるべのない旅。時には断崖絶壁から飛び降りたことさえあった。そんなことをやりつつ、彼はまさしく死ぬ思いで森を抜けたのだ。気が付くとそこは、アガルタの西隣のビーユア王国だった。そこで、運よくクリミアーナ教会の神官に保護され、ようやくのことでアフロディーテに帰還したのだった。
カッセルは、相変わらず荒い息を続けている。しかし、その射すくめるような視線は依然として、教皇に向けたままだ。
「フッ……フフフ……ウフフフフ……フアハハハハハハハハハハ」
執務室の中に笑い声がこだまする。その声を上げているのは、誰あろう、教皇自身だった。「微笑みの怪物」と呼ばれるこの男が、声をあげて笑うのは、果たして何年ぶりだろうか。その、誰もが予想もしなかった光景に、そこにいた全員の顔が強張っている。
教皇は思い出していた。若い頃、赴任した国で裏切られ、迫害され、わずかの信徒と共に砦に立てこもった時のことを。許せなかった。主神様の素晴らしい教えに賛同せず、その敬虔な使徒である自分たちを迫害したこの国を、民衆を。迫りくる軍勢を見ながら彼は、激しい憎悪でその心を満たしていった。
食料もなく、飢え死にする寸前まで追い詰められたその時、彼はまだ開発途中であった薬を教徒たちに与えた。すると、兵士たちは死を恐れぬ兵士となって敵軍に襲い掛かった。そのあまりに異常な戦いぶりに敵軍は、なすすべもなく彼らに蹂躙されていった。そして、終わってみればそこには、薬を与えた教徒たち全員と、その数十倍以上の累々たる敵軍の死体が広がっていたのだった。
その光景を教皇は思い出していた。そして、その時の気持ちが、カッセルと同じであったことも、懐かしく思いだしたのだった。
「……私も、年を取ったのでしょうね。まさか、カッセルに教えられるとは思いませんでしたよ。……そうですね。天道に背く者は排除し、天道に従う者を助ける。これこそが我らの使命。それを……忘れていましたか。確かに私は、天道に背く者を野放しにし過ぎていたのかもしれませんね」
教皇は満足そうな笑みを浮かべながら、カッセルに優しい眼差しを向ける。
「では、カッセル。このクリミアーナ教国が滅びぬようにするためには、どうすればよいですか?」
カッセルはしばらく無言で教皇を見る。そして、おもむろに口を開く。
「まずは、この教国内、教徒らの中において、裏切り者を、天道に背く者を排除することです」
「ほう……。この教国と教徒たちの中に、裏切り者がいるというのですか?」
「はい。ございます」
「それは?」
「まずは、レイアランス枢機卿とクライフェリッチ司教、アリスガード司教、そして……ヴィエイユ姉さまです」
執務室がざわめきに包まれる。まさか教皇の孫を、あの狂信的に教義に忠実であったヴィエイユを裏切り者呼ばわりしたのだ。この発言で、カッセルは教皇によって命を奪われるだろう。執務室にいた者全員がそう思った。
「理由を聞いても? レイアランス枢機卿は、あなたの父方の叔父に当たるお方。自分の一族を、自分の手で誅すると言うのですか? ヴィエイユもまた、然りです」
彼らの予想に反して教皇は、相変わらず落ち着いていた。そして、カッセルは再び言葉を続ける。
「レイアランス枢機卿は、ヒーデータ帝国にあったにもかかわらず、アガルタにいた我々を支援しませんでした。クライフェリッチ司教、アリスガード司教も同様です。二人ともニザ公国とラマロン皇国の連絡役でありながら、何一つとしてアガルタの我々に支援を行いませんでした。これを裏切りと言わずして何と言いましょうか? 恐れ多くも教皇聖下の特別のジモークに何もしなかった。これほどの大罪がありましょうか。そして……。ヴィエイユ姉さまは……アガルタ王に……邪神の手先に篭絡されております」
「お……お待ちください、カッセル様! まさかヴィエイユ様にあってそれは……」
思わず司教の一人が口を開く。カッセルはその鋭い眼差しを司教に向ける。
「考えてもみろ! アガルタ王を討伐しようとした信徒たちは、全員が殺されたんだ。そして、僕は、これだけの傷を負った。ところが、ヴィエイユ姉さまはどうだ? 無傷で帰国したんじゃないのか? おかしいとは思わなかったのか! 僕が、教国が滅ぶと思うのは、そこなのだ。邪神に体を開き、蹂躙され、魂を奪われたからこそ、姉さまは無傷で帰還できたのだ! なぜ、それが見抜けなかった! ……しかし、主神様は教国をお見捨てではない。僕がここに生きて帰還できたことが、何よりの証拠だ。何度も魔物に襲われ、命の危険にさらされたが、左腕を失うだけで、命を落とすことはなかった。これは、主神様がクリミアーナを救えとの思し召しに他ならないだろう!」
「……わかりました、カッセル。ヴィエイユについては、調査が必要ですね。彼女は既にクレファライス国に旅立っていますのでね。まずは……レイアランス枢機卿とクライフェリッチ司教、アリスガード司教を調査していただけますか?」
教皇は優しい口調でカッセルに命じる。
「畏まりました。しかし、教皇聖下。姉さまは、いつの日か、必ず叛きます。その時は……。そして、アガルタ王、ヤツだけは絶対に許さない。必ず、必ず僕が排除してみせます」
教皇はニコリと満面の笑みを湛える。
「そうですか。その時は、お願いしますね」
レイアランス枢機卿とクライフェリッチ司教、アリスガード司教の三人が、反逆者としてアフロディーテの広場において十字架に架けられたのは、それからひと月のちのことだった。その三人に止めの槍を入れたのは、カッセル自身だった……。




