10本目【タコ×岩ダコ】
逃げられた。
タコは遠ざかっていく魚を見つめていた。
岩に似た色をした、見たことのない魚だった。
追いつけなかったわけではない。
近づく前に気付かれてしまった。
タコは自分の身体を見た。
周囲の岩と同じような色に変えていたのに、見つかってしまった。
タコはしばらく魚が消えた方を見ていたが、やがて岩場を進み始めた。
途中で、何度か知らない生き物を見つけた。
大きな身体。
硬そうな殻。
岩の隙間から覗く太い足。
タコは少し離れた場所から眺めた。
食べられるだろうか。
ふと、先ほどの大きな口と牙を思い出す。
硬い足を噛み砕かれ、足先を喰い千切られた。
怖い。
タコは身体を低くし、知らない生き物から離れた。
もっと小さいものがいい。
そのまま岩場を進んでいく。
しばらくすると、岩の近くを一匹の魚が泳いでいた。
先ほど逃げたものと同じ、岩に似た色をした魚だ。
周囲へ紛れて少し見つけにくいが、身体はそれほど大きくない。
鋭い牙も、硬そうな殻も見えなかった。
食べたい。
タコは岩陰へ身体を寄せ、周囲と同じ色に変えた。
そのまま動かず、魚が近づいてくるのを待つ。
魚はゆっくりと岩の近くを泳いでいた。
タコが僅かに身体を動かした瞬間、その動きが止まる。
魚がこちらを向いた。
次の瞬間、勢いよく泳ぎ去っていった。
また逃げられた。
タコは追わず、岩へ身体を張り付けたまま遠ざかる魚を見ていた。
しばらくして、別の魚を見つけた。
先ほどと同じ、岩に似た色をした魚だ。
今度は身体を動かさず、岩へぴったりと張り付いた。
魚が少しずつ近づいてくる。
タコはじっと待ち続けた。
しかし、魚は途中で止まった。
しばらくこちらを見た後、ゆっくりと向きを変えて離れていく。
タコは岩へ張り付いたまま動かなかった。
隠れている。
それでも、見つかる。
前はもっと捕まえられたのに。
タコは離れていく魚を見つめた。
腹が減った。
食べたい。
やがて身体を岩から離し、再び獲物を探して進み始めた。
少し先を、また同じような魚が泳いでいた。
タコは身体を低くした。
今度こそ。
けれど、魚はこちらへ近づいてこなかった。
岩の間をゆっくりと泳ぎ、そのまま大きな岩のすぐ近くまで進んでいく。
次の瞬間だった。
岩が動いた。
八本の足が一斉に広がり、近づいてきた魚へ絡み付いた。
魚が驚いて逃げようとしたが、何本もの吸盤に捕らえられ、そのまま岩へ引き寄せられる。
タコは動きを止めた。
岩じゃない。
丸い身体。
八本の足。
自分と同じ。
岩と同じ色に身体を変えていた、別のタコだった。
こちらよりも大きい。
太い足が魚を包み込み、逃げようとする身体を押さえ付けている。
岩ダコだった。
魚が激しく暴れた。
しかし、岩ダコは何本もの足を絡ませたまま離さない。
やがて魚の動きが弱くなり、岩ダコがその身体へ噛み付いた。
タコはじっと見つめていた。
捕まえた。
自分は何度も逃げられた。
けれど、あいつは簡単に捕まえてしまった。
岩ダコの足の隙間から、魚の身体が覗いている。
美味そう。
タコの腹は減っていた。
目の前には、ずっと捕まえられなかった魚がいる。
欲しい。
タコは岩肌と同じ色のまま、ゆっくりと近づいた。
岩ダコは獲物へ噛み付いており、こちらには気付いていない。
タコは速く伸びる足を僅かに持ち上げた。
そして、岩ダコが抱えている魚へ一気に伸ばす。
吸盤が魚の身体へ張り付き、そのまま巻き付いた。
タコは足を縮め、獲物を引っ張る。
魚の身体が僅かにこちらへ動いた。
岩ダコが動きを止めた。
こちらへ顔を向けると、獲物を抱えた足へ力を込める。
魚が向こうへ引かれた。
タコも足へ力を込めた。
獲物の身体が二匹の間で引っ張られる。
離さない。
岩ダコは魚を抱えたまま、別の二本の足をこちらへ伸ばしてきた。
タコも空いている足を伸ばす。
互いの足が絡み合い、岩ダコの吸盤がタコの足へ張り付いた。
強く引かれる。
タコの身体が岩から離れかけた。
すぐに岩貝の足を近くの岩へ伸ばし、吸盤を張り付ける。
身体が止まった。
岩ダコはさらに引っ張った。
しかし、岩貝の足はしっかりと張り付き、タコの身体は動かなかった。
タコはそのまま太身魚の足を伸ばし、岩ダコの胴へ巻き付けた。
強い力で引くと、大きな身体が僅かにこちらへ動く。
けれど、岩ダコも空いた足を岩へ張り付けた。
互いの身体が止まった。
魚はまだ岩ダコの足に抱えられている。
タコはさらに力を込めた。
欲しい。
岩ダコが何本もの足を伸ばしてきた。
吸盤が次々とタコの身体へ張り付き、そのまま締め付ける。
タコは身体を捻った。
しかし、岩ダコの足は太く、なかなか外れない。
苦しい。
タコはカニを食べて硬くなった足を振り、岩ダコの胴へ叩き付けた。
衝撃で岩ダコの足が僅かに緩む。
タコはすぐに棘の足を伸ばし、絡み付いている足へ押し付けた。
短い棘が柔らかな皮膚へ食い込む。
岩ダコの身体が大きく跳ね、張り付いていた吸盤がいくつか外れた。
タコはそのまま棘の足を引き、もう一度叩き付けた。
今度は獲物を抱えている足へ当たった。
棘が食い込み、岩ダコの足が大きく縮む。
魚を押さえていた力が緩んだ。
タコは巻き付けていた足を強く引いた。
獲物が岩ダコの足から抜けた。
取れた。
タコはすぐに魚を身体の下へ抱え込んだ。
何本もの足で包み込み、岩へ押さえ付ける。
けれど、食べる間はなかった。
岩ダコが飛び付いてきた。
大きな身体がぶつかり、何本もの足が一気に巻き付く。
タコは獲物を抱えたまま岩へ押し付けられた。
岩ダコの吸盤が身体へ張り付き、強い力で締め付けてくる。
苦しい。
タコは足を動かそうとした。
しかし、岩ダコの足が邪魔になり、思うように伸ばせない。
大きな身体がさらに近づいてくる。
足の間から、岩ダコの口が迫った。
喰われる。
タコは身体を捻った。
その拍子に、抱えていた魚が足の間から滑り落ちる。
獲物が岩の上へ落ちた。
タコは思わずそちらを見た。
欲しかったのに。
けれど、岩ダコの足がさらに強く締まった。
タコは身体を縮め、近づいてくる口から逃れようとする。
痛い。
苦しい。
タコは岩貝の足を伸ばし、近くの岩へ強く張り付けた。
身体を固定すると、太身魚の足を岩ダコの胴へ巻き付ける。
そのまま強く引っ張った。
岩ダコの身体が僅かに離れた。
しかし、吸盤がタコの身体へ張り付いたままで、それ以上は動かない。
タコは棘の足を持ち上げた。
身体へ絡み付いている岩ダコの足へ、短い棘を叩き付ける。
棘が食い込み、岩ダコの足が大きく縮んだ。
吸盤がいくつか外れる。
タコは同じ足へ、さらに棘を押し付けた。
岩ダコが身体を捻り、張り付いていた吸盤が次々と剥がれていく。
タコは太身魚の足へ力を込めた。
岩ダコの胴が引き離される。
それでも、岩ダコはすぐに別の足を伸ばしてきた。
タコは太い足で胴を締め付けたまま、近づく足へ棘を押し付ける。
別の足が伸びてくる。
今度はカニの足を振り、硬い表面で弾いた。
岩ダコの動きが僅かに鈍った。
タコは太い足を縮め、大きな身体を引き寄せた。
そのまま足の間から口を伸ばし、柔らかな胴へ噛み付く。
深く齧った。
岩ダコの身体が大きく跳ねた。
何本もの足が一斉に暴れ、タコの身体へ絡み付こうとする。
タコは太い足を離さなかった。
棘の足で近づく足を押し返しながら、再び岩ダコの胴へ口を寄せる。
さっき噛んだ場所へ、もう一度齧り付いた。
岩ダコが大きくうねった。
太い足を振りほどこうとするが、タコはさらに強く締め付ける。
何本もの足がタコの身体を叩き、吸盤が張り付いてくる。
そのたびに棘の足を押し付け、硬い足で弾いた。
タコは口を離さず、柔らかな胴へ繰り返し噛み付いた。
岩ダコの動きが少しずつ弱くなる。
締め付けていた足から力が抜け、張り付いていた吸盤も外れ始めた。
タコはさらに深く齧った。
その一口で、岩ダコの身体から何かが抜け出し、タコの中へ流れ込んできた。
ッ!
岩ダコの足が力を失い、岩の上へ広がった。
タコはしばらくその身体を押さえていた。
何も動かない。
ようやく足を離すと、すぐ近くに落ちている魚へ目を向けた。
欲しかったもの。
タコは足を伸ばし、魚へ巻き付けた。
そのまま身体の下へ引き寄せ、口を押し付ける。
齧る。
美味い。
ずっと捕まえられなかった魚。
ようやく食べられた。
タコは夢中で齧り付いた。
柔らかな肉を次々と口へ運び、空いていた腹を満たしていく。
やがて、魚の食べられる部分がほとんどなくなった。
けれど、まだ足りない。
タコは顔を上げた。
すぐ横には、岩ダコが横たわっている。
自分と同じ身体。
八本の足。
タコはしばらく動かなかった。
さっきまで、自分を締め付けていたもの。
大きくて、強かったもの。
今は動かない。
タコは岩ダコへ足を伸ばした。
柔らかな胴へ吸盤を張り付け、少し引っ張る。
反応はない。
食べられる。
タコは岩ダコの身体へ口を寄せ、齧り付いた。
柔らかい。
少し力を込めるだけで肉が千切れ、口へ入ってくる。
タコはさらに齧った。
美味い。
魚ともエビとも、カニとも違う。
どこか知っているようで、今まで食べたことのない味だった。
タコはそのまま食べ続けた。
自分と同じ形の身体も、齧れば柔らかい肉だった。
空腹も少しずつ満たされていく。
やがて、食べられるところがほとんどなくなった。
タコは身体を離し、自分の足を見た。
変わっていない。
速く伸びる足。
太い足。
硬い足。
棘の足。
どの足も、前と同じだった。
タコはしばらく足を動かした。
それから、身体の中へ意識を向ける。
いる。
さっき入ってきたもの。
けれど、八本の足にはいなかった。
もっと奥。
身体の深いところに、何かが収まっている。
タコはそこへ意識を向けた。
そして、舐めるように触れようとする。
その瞬間。
身体の奥が僅かにざわついた。
タコは思わず動きを止める。
何か嫌だ。
理由は分からない。
けれど、今ここで触れてはいけない気がした。
タコは周囲を見渡した。
大きな岩。
深い穴。
どこに何が隠れているか分からない。
ここは危ない。
タコは身体の奥にあるものから意識を離した。
隠れたい。
身体を岩肌と同じ色へ変え、周囲を確かめながらゆっくりと進んでいった。
しばらくすると、身体をすっぽり隠せそうな狭い岩穴を見つけた。
タコは入り口から奥を覗いた。
暗く、狭い。
身体を押し込み、奥まで進んでいく。
周囲の岩へ吸盤を張り付け、身体を小さく丸めた。
外からは見えにくい。
ここなら。
タコはもう一度、身体の奥へ意識を向けた。
いる。
足の中にあるものとは違う。
もっと深いところに、さっき入ってきたものが収まっている。
タコはゆっくりと触れてみた。
味が広がる。
不思議な味だった。
魚とも違う。
エビとも、カニとも違う。
けれど、まったく知らない味でもなかった。
どこか、自分の身体に似た感覚がある。
その奥には、今まで味わったことのないものが隠れていた。
美味い。
タコはもう少し深く触れた。
すると、身体の奥が僅かに熱くなった。
熱い。
タコは動きを止めた。
けれど、痛みはない。
不思議な熱が、身体の奥からゆっくりと広がっていく。
タコはもう一度、その味へ触れてみた。
やっぱり美味い。
その瞬間、熱がさらに強くなった。
身体が重い。
タコは足を動かそうとした。
動く。
けれど、いつもより力が入らない。
八本の足をゆっくりと縮める。
眠い。
タコは身体を小さく丸めた。
熱はまだ広がっている。
皮膚の下で何かがゆっくりと動き、身体そのものが少しずつ変わっていくような感覚があった。
何だろう。
タコは岩穴の奥へさらに身体を押し込んだ。
暗く、狭い場所に身体を収めると、少しだけ落ち着いた。
けれど、眠気は強くなっていく。
タコは最後にもう一度、身体の奥にあるものへ触れた。
濃い。
知らない味が、まだ奥にある。
美味い。
もっと味わいたい。
そう思いながらも、足から少しずつ力が抜けていく。
タコは身体を岩へ張り付けたまま、ゆっくりと目を閉じた。
そして、意識は深く沈んでいった。
●岩ダコ
特徴:
岩礁海深部に棲むタコ。
岩場への擬態と吸着に優れ、周囲へ溶け込んで獲物を待ち伏せする。
【現在の八腕】
一ノ足:細身小魚
二ノ足:太身小魚
三ノ足:エビ
四ノ足:カニ
五ノ足:ウニ
六ノ足:太身魚
七ノ足:細身魚
八ノ足:岩貝




