第十話 縁切り
リリスが作った修羅場から数時間後、グレースは王城を追放された。
結婚は破談となり、運んだばかりの荷物とともに、アッシュトン領へと向かう馬車に揺られていた。
リリスは、王城に残るとわめき散らし、困り果てた城の人間は無理やりリリスを翌日の馬車に乗せることにしたため、彼女を一晩王城に滞在させることで落ち着いた。
リリスとセバスチャンの結婚が決まったと正式に発表されたのは、それからわずか1ヶ月後のことだった。
☆
アッシュトン家に戻ったグレースは、最初のうちは泣き暮らしていた。
意志の力で堪らえようとしても、涙が勝手に溢れてしまう。
セバスチャンを失ったことで、胸にはぽっかりと穴が空き、なにも手につかない日々がつづいた。
マテオもローズも、双子の間になにがあったのか、積極的に訊こうとはしなかった。
ただ、リリスがセバスチャンと結婚すると報せが届いたときには、ふたりして重い溜め息をついていた。
「……まったく、リリスは……」
ローズが一言だけ、そう呟いたきりだった。
やがて、領内の人々が以前のようにグレースのもとに『癒し』を求めてアッシュトン家を訪ねてくる回数が増えた。
高等学校にも復学し、グレースは『聖女』として、またいち学生としての新たな生活を送りはじめた。
アッシュトン領は静かで、グレースの傷ついた心をそっと癒してくれた。
──自分の心も『縁結び』で治癒できたらいいのに。
皮肉なことに、結婚が破談になってから、はじめてグレースが笑ったのは、そんな思いを抱いて自嘲したときだった。
秋も深まったころ、グレースの胸の痛みはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
自分がどれだけセバスチャンを想っていたか、思い知らされた数カ月であったが、その想いにも蓋がされ、グレースは『聖女』として今後生きていくと心を決めた。
もちろん、自分を騙したリリスは憎いが、セバスチャンがリリスを選んだのなら、仕方がないと割り切ることもできるようになった。
高い空が澄んで、頬を冷たい風が撫でるころのことだった。
グレースは、リビングのソファに座ってアルバムを見ていた。
両親がチャリティーバザーに出す品はないか家中をひっかき回していたときに発掘された古いアルバムだった。
双子を出産する前の、お腹が大きいローズの写真からはじまり、生まれたばかりの双子の様子を、マテオが毎日撮影した写真とともに一言メッセージが添えてある。
だんだん目鼻立ちがはっきりしてきて、日々成長していく双子が克明に焼き付けられている。
口元に笑みを浮かべながらアルバムを見ていたグレースは、ふとあることに気づき、眉をひそめた。
4歳ごろだろうか。
リリスの外見に変化が見られたのだ。
意識して見ていなかったので、確認するために最初のページに戻って確かめる。
生まれたばかりのリリスは、金髪だった。
それが、4歳ごろを境に、グレースと同じ銀髪になっている。
「お父様」
「ん?」
ソファの対面で晩酌をしていたマテオに、グレースはアルバムを見せながら訊いた。
「お姉様の髪の色、変わっていますね。
どうしてですか?」
「んん?」
マテオはグレースの手元を覗き込んでくる。
「ああ……確か、リリスがグレースと同じ銀髪がいいと騒ぎ出したのではなかったかな。
あの子は昔からなにかとグレースと比べてわがままを言っていたからな」
やれやれ、といった調子でマテオが呆れた表情になる。
「では、お姉様は銀髪ではない……」
『縁切り』の能力を持つ忌み子、セバスチャンの銀髪はその象徴でもあったとグレンから聞いたことを思い出す。
──では、特別だったのは、殿下の番だったのは、わたしだったはずなのに。
思わずうつむいたグレースの頭の中で、突如として『紅い糸』がぷつりと途切れた。
──え?
ぴんと張っていた紅い糸が、いきなりぷちっと切れる──そんなイメージがいきなり頭の中で再生されたのだ。
──これは、なに?
グレースが戸惑っていると、マテオが急に毒づいた。
「ああ、くそっ。
ハリーのやつ、偽物の骨董品を掴ませやがって」
「……お父様?」
「ローズ、お前、ハリーのやつとやけに仲がよかったよな。
ふたりして共謀して私を騙したわけじゃないだろうな」
すると、ダイニングにいたローズが、舌打ちしそうな勢いでマテオを睨みつけた。
「あなたこそ、結婚したあとも元婚約者のソフィアと会っていましたよね。
私が気づかないとでも?」
「私が浮気したとでもいうのか!
お前こそ浮気していたんじゃないのか!?」
「なにを根拠にそんなことを……。
自分への疑いを逸らすためですか?
探られて痛い腹でもおありなのかしら」
「お父様、お母様……?
一体どうしたというのです?」
マテオとローズは一触即発の空気だ。
これまで、仲睦まじい両親しか見てこなかったので、ふたりの豹変ぶりに、なにごとかとグレースはおろおろした。
そのとき、玄関の外がにわかに騒がしくなった。
誰かがけたたましく扉を叩いている。
険悪な空気から逃れるように、グレースは玄関へと向かった。
扉を開けると、数人の男女が雪崩込んできた。
「ど、どうしたのですか?」
「聖女様!
どうか助けてください!
私、死ぬのが怖くてどうにかなってしまいそうなのです」
「聖女様、なぜ私のペットのコリーを助けてくださらなかったのです!
あなたなら治せたはずだ!」
「聖女様、どうして兄は死ななければならなかったのでしょう?
どうして救ってくださらなかったのですか!」
「なにが『聖女』だ!
いい気になりやがって!」
近隣に住む顔見知りの大人たちが、物凄い剣幕でグレースに泣きついたり罵倒したりしている。
皆が鬼気迫る表情で、見せたこともないような憤怒の形相をしていた。
リビングの方では、マテオとローズが言い争う声が聞こえてくる。
目の前で知り合いが自分への罵りをつづけている。
──どうしちゃったの、みんな。
とても現実とは思えない光景を、わけもわからずただ呆然と眺めることしかできなかった。
☆
ローズとマテオは依然険悪なままだ。
近隣住民や高等学校での混乱もつづいていた。
ある者はお互いに暴言を吐き、ある者は許されざる想いを捨てきれずに禁断の恋に溺れる。
グレースの周りが混乱に陥りはじめたころから、新聞も届かなくなっている。
最後に届けられた新聞には、隣国がストランド王国に対して戦火の口火を切ったと大々的に報じられていた。
どうやら、このわけのわからない混乱は、グレースの周囲でだけ起きていることではなさそうだ。
──世界規模。
グレースの身体がぶるりと震える。
そんななか、なんの前触れもなく、リリスがアッシュトン家に帰ってきた。
リリスが着ていたローブはぼろぼろで、ただの布切れという有様だった。
それを頭からすっぽり被り、身体のあちこちに青痣を作りながらの帰宅であった。
「王都はすでに火の海よ。
隣国が攻め込んできて、殺人は横行するし、城の人間は仕事を投げ出して駆け落ちするしで、もうめちゃくちゃだったわ」
実家に辿り着くまでも、命がけだったという。
「お姉様……一体王都でなにが起きたのです?」
マテオとローズは娘の無事の帰宅も喜ばず、相変わらず小競り合いを演じつづけている。
「あの男……。
あいつが『縁切り』とやらをやったのよ」
頭のどこかに可能性のひとつとして浮かんでいた予想ではあったが、いざ現実のものとなってしまうと、衝撃的な台詞であった。
「……なぜ、殿下は『縁切り』を?」
「知らないわ、そんなこと。
ただ、あいつ、わたしに裏切られたとか、泣き出してうざいったら。
あいつがどんな能力を持ってるのかなんて知らないけど、わたしのせいにするのよ?」
「殿下は理由もなく他人を責めたりしません。
お姉様が、殿下になにかしたのでは?」
リリスはぎょろりとグレースを睨んだが、憤懣やる方ないといった調子で愚痴を垂れ流しつづけた。
「別に、大したことはしてないわ。
殿下とあなたを別れさせるためにグレースの悪口を吹き込んだの。
だって、わたしどうしても王妃になりたかったんだもの。
あの美しい王子を手に入れたかったんだもの。
悪いことをしたなんて思わないからね。
でも殿下も殿下よ。
グレースの悪評を聞かされただけで、この世の終わりみたいな顔しちゃってさ」
「……お姉様……」
「そりゃ、あなたを裏切ったといえば裏切ったわよ?
結婚に持ち込むために殿下に親切に振る舞って、媚を売って、グレースの悪口をたらふく吹き込んで、懐柔して洗脳して、完璧だったはずなのに……」
「それだけでは、殿下は『縁切り』などという選択はしないはずです。
なにをしたのですか、お姉様」
リリスはふいっと視線を逸らす。
「結婚さえできれば、あとはどうでもよかったの。
殿下がおかしな人体実験をされているって聞かされても、そんなのわたしには関係ないじゃない?
だから、どうでもいいって言ったら、グレースはそんなことは言わなかった、とか、あなたには幻滅したとか不満を言い出してさ。
わたしが結婚したとたん殿下に冷たくなったのが、相当気に入らなかったみたいよ。
でも、たかが女ひとりに裏切られただけで世界を巻きこんで復讐するなんて行き過ぎてると思わない?」
「どうしてそこまでして、王妃の座を……?」
「決まってるじゃない、あなたに勝つためよ。
わたしはね、グレース。
あなたが憎くて仕方なかったの。
『聖女』だのと言われて、ちやほやされるあなたを間近で見てきて、どうしてグレースだけって嫉妬してたわけ。
このコンプレックスを乗り越えるためには、グレースができなかったことをする必要があった。
だから、セバスチャンを奪って、王妃の座を手に入れて……。
あなたを出し抜ければ、絶大な権力を手にできれば、わたしはようやく報われる。
そのための手段に過ぎなかったのよ、結婚は。
でも、あの男はじめじめして女々しくて、第1王子ともあろう者が情けないったらなかったわ。
自分は利用されてばかりだの、誰も自分を愛してくれないだの、モルモットでしかないだのうるさくてさ、面倒ったらないわ。
あなた、よくあんな男を好きになったわね」
「リリス……。
では、殿下はお姉様が態度を豹変させたことにショックを受けて、絶望のあまり『縁切り』を……。
なんということを……。
殿下はお姉様を信じておいでだったのに……」
「あら、ずいぶん失礼なのね。
いまの世界の混乱がわたしのせいだとでも?
とんだ言いがかりだわ」
目の前にいる自分と同じ顔をしたこの女は本当にリリスなのだろうか?
こんな口の悪いお姉様なんて、わたしは知らない。
ラグナロクは、人の性格をも豹変させてしまうものなのか?
なぜ、人々はいがみ合い、争いつづけるのだろう。
『縁切り』は、一体、世界にどんな影響をもたらしているのだろう。
「お姉様、殿下は、どうしていますか?」
すると、リリスはけろりとした顔で答えた。
「軍人として戦場に行っているわ。
その隙に、わたしは城から逃げ出したの」
「軍人!?
殿下が?」
「なんだかよくわからないけど、殿下は不死身だとかで、戦場に駆り出されているんだとか……。
馬鹿みたいよね、不死身なんて、あり得るはずないのに。
王城にいる人間って、馬鹿ばかりなのね」
セバスチャンに宿る『縁結び』の加護で少々の怪我なら治癒出来るだろうが、『不死身』と断じることは、誰にもできないはずだ。
それこそ、一回、セバスチャンに致命傷を負わせて実験でもしない限り──。
「殿下が……人を、殺して……?」
動揺するグレースをよそに、ソファにどすんと座ったリリスが腕を組んで天井を見上げる。
「それがね、どうやら殿下は人殺しをしても、それを覚えていないらしいのよ。
一晩寝ると、前の日のことをすっかり忘れているみたいなの」
「……覚えてない?
人殺しをしておいて、ですか?」
リリスがさらに眉間にしわを寄せる。
「『縁切り』をした影響で、殿下以外の人間……つまり世界中の人間が『忘れる』ことができなくなったみたいなの。
髪の長い研究者みたいなおじさんがそんなことを説明してくれたけど、わたしは『縁切り』なるものがわからなかったから、なにがなんだか」
──グレンさんだ。
グレースの脳裏にグレンの嗤い顔が浮かぶ。
──忘れることができない。
ああ、そういうことか、とグレースはすべての疑問に納得することができた。
人間は忘れることができる動物だ。
それは、生きるための処世術であり、本能でもある。
忘れなければ、人は生きていけない。
死への恐怖、誰かへの憎悪、捨て切れない恋慕……。
かつて経験したことを、人は忘れて生きていく。
『縁切り』は、人間から『忘れる』本能を切り離してしまったのだ。
だから、世界中の人は、蓋をしていた記憶を掘り起こされ、感情のままに暴走してしまい、世界に戦火が放たれたんだ──。
しかし、その副作用でセバスチャンだけに『忘れる』本能が残された。
逆に、忘れることができるセバスチャンだけが、世界から取り残されたと解釈できなくもない。
切り捨てられたのは、世界中の人々なのか、セバスチャンなのか──。
「まったく、恐ろし能力を持った王子様が生まれたこと。
あんな男に近づいたわたしが浅はかだったわ。
もう二度と関わりたくない」
「──っ!」
気がつけば、グレースはリリスの胸ぐらに掴みかかっていた。
リリスは顔色ひとつ変えない。
「どうしたの、いいのよ、殴ってくれて。
わたしもあなたが憎いもの。
あなたもわたしを憎めば、お互い様でしょう」
グレースは、はっとして掴んでいたリリスの服から手を離す。
──なにをしているの、暴力なんて振るったらわたしじゃない。
ううん、『聖女』じゃない。
でも、リリスが憎い。
とてもではないけれど、忘れることができそうにないほど、激情が身体の底からせり上がってくる。
──わたしは、清廉潔白な『聖女様』なんかじゃない。
「わたしは……。
お姉様と『同じ』になるつもりはありません」
わなわなと震える拳をぎゅっと握り込んでグレースは吐き捨てた。
「あら、そ」
リリスは立ち上がると、シャワーを浴びるといってリビングを出ていった。
──殿下に会わなければ。
マテオとローズがまたしても口喧嘩をはじめた横を通り過ぎ、取るものもとりあえず、上着を羽織るとグレースは屋敷を飛び出した。
王都までは馬車で2時間ほど。
しかし、リリスのあの様子を見ると、危険な道のりであることは間違いない。
命がけで王都に乗り込むしかなさそうだ。
──走っていこう。
荷物を背負ったグレースは、屋敷の扉を力任せに閉めると走り出した。
走りながらも、頭の中に浮かぶのは、セバスチャンの不安そうな、すがるような瞳だった。
──わたし、こんなにも殿下のことが好きだったんだ。
この気持ちは、忘れたくても忘れられない。
諦めたくても諦められる気がしなかった。
早く、早くと気ばかりが先走り、足がもつれそうになりながらも、それでも走りつづけた。
20分ほど走って街外れまで到達したとき、「グレース様!」と誰かが呼んだ。
グレースは警戒しながら振り向き、声の正体がわかると、ほっと息をついた。
「ビルさん……。
どうしたのですか?」
そこにいたのは、オリビア夫人の孫のビルだった。
馬に乗ったビルは、グレースを見下ろしながら言った。
「よろしければ、目的地までお送りしますよ。
走るより効率的でしょう。
こんな世の中です、おひとりでは危険ですよ」
ビルはブラウンのカールした髪を揺らして快活に笑った。
「……どうして……」
小気味よい足音を立てて、馬を操りながらビルがやってくる。
「先ほど、走っていくグレース様をお見かけしまして。
祖母を救っていただいたお礼をまだしていませんし、ぜひお力になりたいと思いました」
グレースは安心のあまり涙ぐみそうになるのを堪え、「ありがとうございます」とビルに告げた。
「では、乗ってください。
馬車と違って乗り心地は悪いでしょうが、そこはご勘弁を。
どこへ向かいます?」
「王都へ、お願いします」
「かしこまりました」
ビルに操られた馬が疾走をはじめた。




