第96話 和睦という名の決着
伊勢の山々を何十日も覆い尽くしていた分厚い雲が、ついに割れた。
雲の隙間から眩いばかりの秋の陽光が差し込み、見渡す限りの泥沼と化していた大河内城の包囲陣を、ゆっくりと照らし出していく。
「晴れた……。やっと、晴れたぞ……」
俺は、背中に担いでいた重い米俵をドサリと地面に下ろし、大きく息を吐き出した。
泥だらけの顔を上げて太陽を眩しそうに見つめる陣夫たちも、皆一様に、憑き物が落ちたような安堵の表情を浮かべている。
古参武将に、俺たち木下組の泥臭い兵站の働きが認められてから数日。
俺たちが届ける乾いた薪と温かい飯、そして強引に徹底させた衛生管理のおかげで、前線部隊の飢えと病の蔓延は完全に食い止められていた。
武将たちも俺たち裏方に対して理不尽な怒鳴り声を上げることはなくなり、道を開けて「ご苦労」と労いの言葉さえかけてくれるようになっていた。
だが、いくら環境が改善されたとはいえ、長引く包囲戦に俺の腰と精神はとうに限界を迎えていた。
(もう無理だ。早く家に帰って、畳の上で大の字になって寝たい。桔梗の打ったうどんが食いたい……)
俺が泥だらけの腰をトントンと叩きながら泣き言を漏らしていると、本陣の方から、弟分の弥七こと中村一氏が血相を変えて駆け寄ってきた。
「茂助殿! 大変です、本陣で小一郎様と半兵衛様がお呼びです!」
「なんだよ、またどこかの陣営から油紙が足りないってクレームか? もう在庫はねえぞ」
「違います! 大河内城との間で、『和睦』が結ばれることになったんです!」
「……は?」
俺は、手に持っていた柄杓をポロリと落とした。
「わぼく……? それってつまり、戦が、終わるってことか?」
「はい! 今しがた、お館様の本陣から伝令がありました! 我ら木下組も、直ちに城の受け取りと撤収の支度にかかれと!」
「うおおおおおおおおッ!! 終わったァァァァァッ!!」
俺は、泥まみれの地面に膝をつき、天を仰いで雄叫びを上げた。
帰れる。ついにこの終わりの見えない超ブラック物流センターから解放されるのだ!
***
「……茂助殿、顔がにやけすぎていますよ」
木下組の天幕に戻ると、小一郎が、苦笑しながら和紙の帳簿を木箱に片付けていた。
その隣には、軍師の竹中半兵衛が、相変わらず涼しい顔で軍扇を弄んでいる。大怪我で寝込んでいた藤吉郎も、峠を越えたという報告が来ていた。
「いやぁ、だって戦が終わったんですよ! 笑いも止まりませんって!」
「ええ、本当に……よく耐え抜いてくれました」
小一郎も、深く安堵の息を吐いた。
「でも、どうして急に和睦なんてことになったんですか? やっぱり、城の中の食糧が尽きたからですか?」
俺の素朴な疑問に、半兵衛がパチンと扇を閉じて首を振った。
「力攻めの限界です。先日の夜襲の失敗で、お館様はこの巨大要塞をこれ以上武力で攻めるのは下策と悟られたのでしょう。……そこに、京の公方様――将軍・足利義昭公より、和睦の仲介が入ったのです」
「将軍様から?」
「はい。伊勢での戦が長引くことを危惧した将軍家が、両者の間に割って入ったのです。……お館様としては、ご自身の圧倒的な武力で北畠家を叩き潰したかったはずですが、上洛を助けた将軍の顔を潰すわけにはいかず、忸怩たる思いで矛を収めることになった。……ですが、ただでは引き下がりませんよ、あのお方は」
半兵衛は、声を潜めてニヤリと笑った。
「和睦の絶対条件として、ご自身の次男である『茶筅丸様』を、北畠家の後継ぎとして養子に入れることを呑ませたのです」
「……えっ? ちょっと待ってください」
俺は思わず声を上げた。
「お館様って、そんな何人も子供がいたんですか!?」
『魔王』なんて呼ばれているから、勝手独り者だと思っていたのだ。
半兵衛は呆れたようにため息をついた。
「何をおっしゃいますか。嫡男の奇妙丸様ほか、男子が五名、女子が三名もおられますぞ」
(マジかよ! あの魔王、普通に子だくさんなパパやってんのかよ!?)
俺のふんわりとした歴史の知識では、純粋に驚きだった。
「養子って……それってつまり、名門の北畠家を、実質的に織田家が乗っ取るってことですか?」
「その通りです」
半兵衛は平然と頷いた。
「現に、北伊勢の神戸家にも、三男の勘八様を養子に送り込んでおられます。……お館様にとって、養子縁組は『血を流さずに国を盗る』ための、いつもの勝ち筋なのですよ」
(えげつねえ……信長様、マジえげつねえ……!)
将軍に「戦をやめなさい」と言われて「はい分かりました」と従うフリをしながら、きっちりと相手の組織のトップに自分の息子を送り込んで内部から食い破る。政治力がカンストしている。
「茂助殿たちの働きがなければ、この和睦すら成立しませんでしたよ」
小一郎が、俺に向かって深々と頭を下げた。
「……もし我々の兵站が破綻し、織田軍が先に病と飢えで自滅していれば、和睦どころか、大敗走からの追撃を受けていたはずです。あなたがいち早く療治所を整備し、物資を途切れさせなかったからこそ、織田軍は包囲する側として将軍の仲介まで持ち堪えることができたのです」
「……よしてくださいよ。俺はただ、自分が死にたくなかっただけです」
俺は照れ隠しに頭を掻いた。
信長様の悔しさも、名門の乗っ取り劇も、俺にはスケールがデカすぎてよく分からない。俺にとって一番重要なのは、「これで家に帰れる」という最高の結果だけだ。
***
数日後。
和睦の儀式が執り行われ、ついに大河内城の巨大な城門が、重々しい音を立てて開かれた。
「……あれが、伊勢を支配していた名門の兵たちか……」
城を明け渡し、退去していく北畠の城兵たち。
その姿は、阿坂城の時よりも遥かに凄惨だった。
誰もが極度に痩せこけ、頬は落ち窪み、目の焦点が合っていない。立派な鎧兜を身につけているが、その重さに耐えきれず、歩くことすらままならずに杖をついたり、仲間に肩を借りたりして、フラフラと泥道を下ってくる。
「……まるで、亡者の行列だな」
俺の隣で、前野長康がポツリと漏らした。
「ああ。もしかしたら……今頃、あんな風に干からびていたのは俺たちの方だったかもしれねえ」
蜂須賀小六も、青ざめた顔で城兵たちを見つめている。
武力決着はならなかった。だが、俺たちの兵站という、地味で泥臭い消耗戦が、彼らをここまで追い詰めたのだ。
本当の戦争とは、刀を振り回すことではなく、どれだけ長く「飯を食わせ」「火を焚き」「雨風を凌ぐ」ことができるかという、インフラ維持の勝負なのだと、俺はこの時、嫌というほど思い知らされた。
「終わりましたね、茂助殿」
小一郎が、俺の横に並び立って、退去していく兵たちの列を静かに見送っていた。
「ええ。長かった……本当に長かったです。……もう二度と、あんなドロドロの山道で荷車なんか押したくありませんよ」
俺の心からの愚痴に、小一郎はフフッと吹き出した。
「私も、当分は帳簿の数字も見たくありません。……岐阜に帰ったら、兄上にはしっかりと『木下組を支え、織田軍を救った真の功労者』として、茂助殿の手柄を報告しておきますよ」
「手柄なんていりませんって。そんなものより、俺は家に帰って美味い飯が食えればそれで……」
俺がそう言いかけた時。
不意に、後方の織田本軍の陣営から、地鳴りのような歓声と法螺貝の音が響き渡った。
「伊勢平定、成る!! 全軍、勝ち鬨を上げよォォォッ!!」
エイ! エイ! オーッ!!
数万の将兵が上げる歓喜の雄叫びが、秋の高く澄んだ空へと吸い込まれていく。
将軍の仲介による不本意な決着とはいえ、夜襲の失敗で折れかけていた織田軍が、再び一つの強大な軍勢として勝利の喜びに包まれた瞬間だった。
南伊勢攻略戦。
多大な犠牲と泥沼の包囲戦の末に、名門・北畠家を事実上乗っ取るという形で、伊勢国一帯は完全に織田の支配下へと収まった。
終わった。
俺は、高く澄み渡った青空を見上げながら、大きく、深く背伸びをした。全身の関節がバキバキと鳴り、泥と汗の匂いが鼻をつく。
(帰ろう。俺たちの家に)
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




