第97話 成り上がり軍団の証明、そしてつかの間の安息
泥沼の長期戦となった大河内城の攻防は、将軍・足利義昭の仲介という形での和睦、そして信長の次男・茶筅丸を北畠家の養子に送り込むという条件で幕を閉じた。
実質的には、名門・北畠家の軍門降伏。これにより、南伊勢の平定は完了した。
長雨と泥濘の中での過酷な戦いを終えた織田軍は、本拠地である尾張・美濃へと帰還した。岐阜城の大広間では、大々的な戦後処理と論功行賞の軍議が開かれることになった。
だが、広間に集まった重臣たちの顔は、一様に暗く沈んでいた。
丹羽や柴田、そして池田勝三郎といった面々が、居心地の悪そうに口を真一文字に結んでいる。
無理もない。彼らが主導した夜襲は大きな被害を出す大失敗に終わり、最終的な決着も将軍の仲介という政治的な横槍によるものだった。武士として胸を張って誇れるような見事な首取りを、彼ら猛将たちは今回挙げられなかったのだ。
重苦しい沈黙が広間を支配する中、上座に座る魔王・信長が、冷ややかな声で口を開いた。
「……大儀であった」
その短く低い一言に、広間の空気がピリッと張り詰める。
「長雨と泥に足を取られ、無様に夜襲を仕損じた阿呆共もいたが……まあ良い。結果として伊勢は落ちた。義昭公の顔を立ててやるのも、今は必要な手立てだ」
信長様の言葉に、夜襲で大損害を出した重臣たちが冷や汗を流して平伏する。
パチン、と信長様が扇子を閉じた。
「して。此度の戦、最も大局を支え、わしの軍を崩壊から救った働きをしたのは……猿。貴様らだ。前へ出ろ」
「へへっ! ははァッ!!」
下座から、元気のいい声が響いた。
阿坂城の戦いで脇腹に深々と矢を受け、肉をこじ開けて矢尻を抜くという地獄の手術を味わった俺たちのブラック上司・藤吉郎だ。
まだ痛む脇腹を庇うように少し前かがみになり、実弟の小一郎に支えられながらも、誇らしげに前へ出た。
「藤吉郎。貴様が倒れたと聞いた時はどうなるかと思ったが……貴様が育てた裏方どもは、よくやった。……おい、その後ろに隠れているデカブツ」
「ヒッ!?」
いきなり魔王から話を振られ、俺はビクンと肩を跳ねさせた。
「茂助。面を上げよ」
俺はおずおずと顔を上げた。
「見栄えの良い武功ばかりを追い求める阿呆どもに比べ、貴様は使えるものは何でも使う。陣が泥に沈み、兵糧が尽きかける極限状態にあって、貴様は決して物資の補給線を途絶えさせなかった。その功、褒めてとらす。望みの褒美を言ってみよ。知行か? それとも一軍か?」
周囲がざわつく中、俺は冷や汗をダラダラと流しながら深く平伏した。
(出世なんかしたら、絶対最前線に回される! 俺は安全な裏方でスローライフを送りたいんだ!)
「い、いえ ……俺、いや、私は何もしていなくて。出世して責任が大きくなるのはちょっと……。 藤吉郎様の下でこれまでどおり働きたいです。ただ、少し長めの休暇をいただけば……」
信長様の眉がピクリと動いた。
「……あいも変わらず欲のない奴め。ならば、猿の弟よ」
「はっ」
「猿が倒れた後、見事に指揮を取ったな。貴様には木下組から離れ、独立した部隊を持たせてやろう。わしの直臣となれ」
しかし、小一郎もまた静かに頭を下げた。
「ありがたき幸せ。なれど、私はあくまで兄・藤吉郎を支える裏方に過ぎませぬ。独立など身に余りまする。どうか御容赦を」
静まり返る大広間。
武功を挙げて少しでも出世したいとギラギラしている猛将たちの中で、見事な功績を挙げたはずの俺と小一郎が、揃いも揃って「出世したくない」「裏方でいい」と褒賞を辞退しているのだ。
「…………チッ」
上座から、魔王のあからさまな舌打ちが聞こえた。
「貴様ら、武士としての野心というものが欠片も無いのか。少しは欲を見せぬか、阿呆どもが」
焦れったそうに扇子でドスドスと膝を叩くと、信長様はやれやれと溜息をついた。
「……ええい、分かった! 貴様らが受け取らぬと言うなら、まとめてくれてやる! 此度の第一の功、木下組に取らす! 金銀、刀剣など莫大な褒賞をくれてやるゆえ、身内の中で勝手に分け合え!」
「ははァーーーーッ!!」
藤吉郎の感極まった涙声が響く。
柴田のオッサンや佐久間ら古参の武将たちも、今度ばかりは異論を唱えなかった。「あの地獄で我らを救ったのは、確かにあ奴らの兵站であった」と深く頷いて俺たちを見つめている。
農民上がりの『成り上がりの猿』と見下されてきた木下組が、織田家において『無くてはならない中核部隊』へと成り上がったことを、魔王自らが証明した瞬間だった。
***
軍議が終わり、大広間を退出した後の城の廊下。
藤吉郎は、痛むはずの脇腹の怪我も忘れたように、俺の背中をバンバンと力強く叩いた。
「聞いたか茂助! 第一の功だぞ! あの柴田のくそオヤジや佐久間、そして丹羽様を差し置いて、俺たちが一番だとお館様に認められたんだ!」
「兄者、まだ傷が完全に癒えていないのですから、あまり大声を出して暴れないでください。傷口が開きますよ」
傍らを歩く小一郎が冷静に窘めるが、その口元には隠しきれない喜びの笑みが浮かんでいる。
「おうよ! それもこれも、俺がぶっ倒れて動けねえ間、お前たちが完璧に後方を回してくれたおかげだ。あの雨の中で泥沼になった道を、自ら荷車を引いて兵糧を運んでいたと聞いた時は、助かったと思ったぜ」
小一郎も帳面を抱えながら深く頷く。
「あの状況で荷を捨てずに運び切るとは、お前もすっかり腹の据わった武将になったな」
藤吉郎が、燃えるような野心のこもった目で岐阜城の天井を見上げた。
「伊勢を平定し、お館様の背後は完全に固まった。……これからは、お館様に従わない朝倉、そして天下に向けたもっとデカい戦が待ってるぞ! 俺たちは織田軍の筆頭を目指して、もっともっと成り上がっていくんだ! 茂助、これからも俺のために死ぬ気で働けよ!」
「……ははっ、ご期待に沿えるよう……」
俺はひきつった笑みを浮かべた。
(嫌だ、もう帰って寝たい。ていうか一生布団から出たくない。これ以上デカい戦に連れて行かれたら、今度こそ俺の胃に穴が空くか、過労死する)
明るい未来を語るブラック上司の背中を見送りながら、俺は重いため息を吐き出した。
***
城を下り、俺は岐阜城下に構えられた堀尾の屋敷へと帰った。
白壁の塀に囲まれた立派な武家屋敷。俺の出世に伴って与えられたこの家は、今の俺にとっては最高の安息の地……のはずだった。
「あなた様。長期にわたる過酷な調練、まことにお疲れ様でございました」
屋敷の奥から、小袖を凛と着こなした妻の桔梗が出迎えてくれた。
相変わらずだ。一見すると貞淑で可憐な武家の妻だが、彼女の目には、俺が泥水をすすって生き抜いたこの数ヶ月の死闘が、夫の筋トレ強化合宿にしか見えていない。
「ただいま、桔梗。……って、合宿じゃねえよ。こっちはリアルで何度も死にかけたんだぞ」
俺の愚痴など、桔梗の耳には届かない。彼女は優雅な所作で近づいてくるなり、俺の袴の上からガシッと太ももを鷲掴みにした。
「……素晴らしい。泥濘の中で重い荷車を押し続けた成果ですね。腿の張りが、出陣前とはまるで違います。見事に筋が破壊され、より強靭な肉の鎧となって超回復を果たそうとしております」
「痛い痛い! 武家の妻が夫の太ももをガチのトレーナー目線で揉みしだくな!」
俺は悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、桔梗の握力は並の武士より強い。
「すぐに行水の支度をさせます。……ああ、お食事の用意も出来ておりますよ。破壊された肉を修復するため、黄豆の粉末と猪肉をたっぷり使った、特製の饂飩にございます」
「あ、ありがとう……」
広間に出されたそのうどんは、出汁の香りを完全に殺すほどの、大豆粉と獣肉の暴力的な匂いが漂っていた。
一口啜ると、麺はゴワゴワとしていて喉越しなど皆無だが、不気味なほどに味がダイレクトに伝わってくる。
「う……うめぇ……」
気づけば、俺の目からボロボロと涙がこぼれ落ちていた。
ウンコの混ざった泥水でもない。腹の病を治すための馬糞汁でもない。清潔な畳の上で、妻の愛情に満ちた温かい飯が食える。
この時代では珍しい当たり前の平和がたまらなく尊かった。
「あなた様。饂飩をお召し上がりになった後は、寝所で少しお休みくださいませ」
桔梗が、可憐な笑みを浮かべて俺の背中をさすった。
「ああ……。俺、しばらくはずっと家で寝てるから……。もう泥の中は一生分歩いた」
「はい。夜になりましたら、四股踏みがありますからね」
「…………労基はどこいった、マジで」
俺は絶望混じりのため息を吐きながら、温かいうどんを飲み込んだ。
とはいえ、戦場での理不尽な死の恐怖に比べれば、嫁に強いられるスパルタ筋トレなど健康的な悩みだ。
伊勢の平定も終わり、しばらくは大規模な戦もないはずだ。
縁側から差し込む秋の陽光。
俺はそのまま畳の上にゴロンと大の字に寝転がった。
筋肉痛と疲労、そして暴力的な満腹感。
(俺の、つかの間の平和。……最高だ)
いつまたあの魔王の気まぐれで、さらなるブラック現場へと駆り出されるかは分からない。
だが、今はただ、この命がけで勝ち取った安息を、全身で満喫してやるんだ。
俺はゆっくりと目を閉じ、深い、深い眠りへと落ちていった。
これにて第四部:南伊勢平定編完結です。
幕間を1話挟んで、第五部となります。
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