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幕間 太田牛一の憂鬱と、語られない衛生の陣

『記録』とは、後世への責任である。

 私、太田牛一おおた ぎゅういちは、お館様・織田信長公の右筆として、その輝かしい戦の数々を正しく歴史に残すという重大な使命を帯びている。


 嘘偽りや誇張を廃し、真実のみを記す。それこそが私の信念であり、私が日々書き綴っているお館様の公式な記録の根幹である。


 永禄十二年。南伊勢における北畠家との戦役が一段落した岐阜城の一室で、私は筆を執り、各武将の武功をまとめるための書付かきつけを作成していた。


 南伊勢での大河内城包囲戦は、険しい地形と悪天候に阻まれた過酷な長期戦であった。多くの陣で兵糧が不足し、疲労と、何より恐ろしい悪病によって数え切れないほどの兵が倒れた。


 陣によっては、兵の二割から三割が激しい腹下しや高熱によって使い物にならなくなるという、地獄のような惨状であった。

 だが、手元にある軍監からの書状の中に、極端に異質な記録を残した部隊が存在した。


『木下陣立・堀尾茂助の陣。少数の腹下しや戦傷による者を除き、悪病の兆し全く無し。病に倒れし者、他陣に比べ十に一つもあらず』

 私は手元の報告状を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。


 他陣が次々と悪病で半壊していく中、なぜ木下、そして堀尾の陣だけが、これほどまでに病の連鎖を防ぎきることができたのか。


 長陣において兵の強健を保つことこそが、最も困難にして最も重要な用兵術なのだ。あの巨躯の男、堀尾茂助。彼は一体、いかなる神算鬼謀を用いて兵たちを悪病から守り抜いたのか。

 その真実を書き残すべく、私は堀尾の家臣である四人の男を、私の執務室へと呼び出していた。


「お呼ばれにより推参いたしました。堀尾が家臣して副将の但馬にございます」

「勘定方の勘兵衛にございます」

「弟の氏光にございます!」

「ヒャハッ! 三太夫だ! 若の手柄を歴史に残してくれるって話か!?」

 いかにも知的な勘兵衛、生真面目な顔つきの但馬、兄を慕う弟の氏光、そして野盗のような風体の三太夫。四人は私の前に座った。


「うむ、よく来てくれた。早速だが聞かせてほしい」

 私は新しい和紙を広げ、筆に墨を含ませた。


「大河内城の長期包囲において、他陣が次々と悪病に倒れる中、堀尾殿の陣だけが極端に病人が少なかったと記されておる。彼は陣中において、いかなる見事な用兵、あるいは秘薬を用いたのだ? 名医でも抱え込んでいるのか? それとも特別な祈祷の類か?」

 私の問いに、三太夫がわけもわからぬ様子で「ヒャハッ!」と笑って膝を叩いた。


「秘薬? 祈祷? とんでもねえ! 若は戦の最中、ずっと陣の奥で火の番をしてたぜぇ! 若の最大の功績といえば、何と言っても『ひたすら湯を沸かさせたこと』だな!」

「……湯?」

 私の筆が止まった。


「そうだぜぇ! 陣の近くの川から喉の渇きを癒そうと水を汲むだろ? すると、若がものすごい血相を変えて、火にくべるはずの太いまきを振り上げて走ってくるんだ。『生水は飲むな! 腹を壊して死ぬぞ! 絶対に一度沸かしてから飲め!』ってな。若の奴、水の中に『見えない毒虫』がいるとか言って、異常なまでに湯を沸かすことに執念を燃やしてたんだ」

 私は困惑しながら、手元の和紙を見つめた。


(……見えない毒虫? 水神の呪いか何かか? いや、それよりも……兵にひたすら白湯さゆを飲ませた、だと?)


「待て。兵に生水を禁じ、わざわざ手間と薪をかけて湯を飲ませたというのか? それは……熱湯を飲ませることで、兵の士気と忍耐を鍛え上げる荒療治……?」

「いや、ただ『俺が腹痛になるのが怖いから』って言ってたぜ」 


「……」

 私が絶句していると、隣に座っていた勘兵衛が、ひどく冷めた目つきで淡々と口を開いた。


「太田様。三太夫の言う通り、茂助様は陣中において、己が病にかかることを極端に恐れておいででした。それゆえ、白湯を飲ませるだけでなく、兵が水汲みをする場所よりもはるか川下の地に深く巨大な穴を掘らせ、排泄の場所を一つに絞り込んだのです」


「……排泄の場所を?」

 私の問いに、勘兵衛の隣で控えていた但馬と氏光が、突然バンッと床を叩いて身を乗り出した。その目は、主君への深い尊敬と感涙で潤んでいた。 


「左様にございます、太田様! 長陣となれば、陣中はたちまち兵たちの糞尿で汚れ、水が濁り、悪臭と病が広がります! あれこそが、我が陣を救った奇跡の陣立て! 某はこれを『川下糞尿かわしもふんにょうの陣』と呼んでおります!」 


「兄上の果てしない慈悲の心が詰まった、神がかった策にございます!」

 ピシッ、と。

 私の持っていた筆の軸が、微かにひび割れる音がした。


「……か、川下糞尿の陣?」

「はい!」

 但馬が熱弁を振るい始めた。


「茂助様はこう厳命されたのです。『野糞は許さん! 用を足すときは、必ずあの川下の穴でしろ! 終わったら土を被せろ! それ以外の場所でやった奴は殺す!』と!」

 私は額に冷や汗をかき始めた。


 水源を汚さぬよう、陣中の糞尿の場所を川下に固定する。至極当たり前なことではあるが、血沸き肉躍る戦記に記すような話ではない。いや、もっとまずいのは、これをどう文章にするかだ。


「……なるほど。軍律を正すために、厳しい掟を敷いたのだな」

「いえ! 最初は血の気の多い足軽どもが『いちいち遠くまで下るのは面倒だ』『その辺の草むらでさせろ』と反発し、言うことを聞きませんでした!」


「うむ。無理からぬことだ。そこで堀尾殿は、刃を抜いて彼らを処断し、見せしめとしたのだな? それならば軍律の厳しさとして記録に……」

「いいえ! 茂助様は、なんと泥だらけの地面に這いつくばり、足軽どもに向かって土下座をされたのです!」


「…………は?」

 私は己の耳を疑った。

 氏光が感極まった声で、涙ながらに兄の姿を語る。


「兄上は! あの先の戦で鬼神の如き働きを見せた猛将でありながら! 大粒の涙をこぼし、泥に額を擦りつけながら足軽どもにこう叫ばれたのです! 『頼むから! お願いだから指定の場所で糞をしてくれぇ!  俺は腹下しで死にたくないんだよ! 何でもするから、あっちの川下でやってくださいお願いします!』……と!」

 執務室に、重く、息苦しい沈黙が降りた。


「太田様、おわかりになりますか!」

 但馬が両手を握り締め、熱く語る。


「己の命を惜しむふりをして、実は兵たちの命を病から救うため! 武士としての面目もすべて投げ捨てて、泥に塗れて足軽に土下座をする! そこまでして陣を清浄に保とうとした、あの果てしない自己犠牲の精神!」


「足軽どもは、あの大男が泣きながら土下座する姿に度肝を抜かれ、そしてその深き愛に心を打たれたのです! 『茂助様がそこまで言うなら……』と、陣の全員が涙ながらに川下の穴で用を足すようになったのです!」


「結果、他陣が地獄を見る中、我が陣からは致命的な悪病の連鎖が絶たれたのです! これぞまさに、奇跡の用兵! どうかこの茂助様の偉大なる『土下座糞尿の計』を、太田様の筆で後世に語り継いでくだされ!!」

 但馬と氏光が、私の前で深く、深く頭を下げた。

 土下座糞尿の計?川下糞尿の陣ではなかったか?


 いや、問題はそんな事ではない。

 私が呆然としていると、横でその熱弁を聞いていた勘兵衛が、深くため息をついた。


「……太田様。但馬殿たちはああ申しておりますが、茂助様は本気でご自身の腹下しを恐れて泣き叫んでいただけかと。足軽どもも、あの鬼の茂助が糞尿の場所のことで本気で泣きながら土下座してくる異常さに絶句し、言うことを聞かざるを得なくなっただけです。……ですが、結果として悪病の連鎖を完全に防いだのですから、某は非常に有効かつ合理的な陣の差配であったと評価しております」

 勘兵衛のその冷静極まる分析が、さらに私の胃を重くさせた。


 私は、手元の真っ白な和紙を見つめた。

 そして、墨を含んだ筆を見つめ、静かに目を閉じた。


(……書けるか!)

 私の内なる武士の魂が、血の涙を流しながら絶叫していた。

 お館様の輝かしい戦歴を綴る、この神聖なる公式記録に。


 『堀尾茂助、兵に生水を禁じて白湯を飲ませ、自ら泥に伏して泣きながら排泄の場所を川下に指定するよう土下座して哀願せり。足軽どもこれに絶句し、皆こぞって川下の穴にて糞尿す。これすなわち堀尾の絶大なる慈悲なり』……などと!!

(そんな便所の落書きのような文章を残したら、違った意味でわしの名前が歴史に残ってしまうわ!!)


 いや、そもそも理屈が全くわからぬ。

 だが、勘兵衛が冷めた目で認めている通り、結果として彼らの陣だけが悪病を防ぎきったのは、紛れもない事実なのだ。


 あの泥に塗れて土下座する大男には、常人には計り知れぬ神仏の加護か、奇怪な天の啓示でもあったというのか。


「……太田様? いかがなされました? 筆が止まっておられますが」

 但馬が不思議そうに首を傾げた。

「……いや。すまない、少し腹の具合がな」

 私は額の汗を拭い、顔面をひきつらせながら笑みを浮かべた。


「相分かった。堀尾殿の……その、比類なき陣の差配。しかとこの耳に刻み込んだ。お前たちはもう下がってよい」

「おお! よろしく頼みますぜ!」

「兄上の武名、太田様に託しましたぞ!」

 満足そうに帰っていく四人を見送り、私は執務室に一人残された。


 静寂の中、私はため息を一つ吐き、真っ白な和紙に向かって筆を下ろした。真実を記すのが私の使命だ。だが、歴史には「語るにはあまりにも見苦しい真実」というものが存在する。


 私は己の筆の矜持と、何より己の命を守るため、苦渋の決断を下した。

 筆が和紙の上を滑る。


 南伊勢・大河内城包囲戦における、堀尾茂助の不可解極まる、しかし絶大なる武功。

 それは、私の筆によって、たった一行の、当たり障りのない定型文へと変換された。


『――木下陣立・堀尾茂助、見事なる働きにて陣を支えり』

 私は筆を置き、深く、深く息を吐き出した。


 なぜ堀尾茂助という特異な男の功績が、のちの世に残るお館様の公式な記録に具体的な記述を残さなかったのか。


 その理由は、ただ単に「野糞と土下座の話など、どうやっても歴史書には書けなかったから」という、極めて現実的な私の憂鬱によるものであった。


 明日から第五部金ヶ崎の退き口と姉川の戦い編を開始します。

 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
退き口なんて、死んじゃうじゃないですか!?やだー!
信長公記に名前が載るだけでも大した成果だからな。 それさえあれば、但馬や氏光の書物にも手が伸びるから中身が分かる様になると。
退き口かぁ~秀吉が殿に名乗り出た時の主人公絶望感と顔がまた見れそうで
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