第95話 見えない城壁
大河内城への無謀な夜襲から、数日が経過していた。
伊勢の山々を覆う分厚い雨雲は、いまだに晴れる気配を見せない。冷たい秋の長雨が、泥沼と化した戦場に容赦なく降り注ぎ続けていた。
織田本軍の主力による夜襲は、数千人という歴史的な大損害を出して完全に失敗に終わった。
急斜面と泥濘に足を取られ、暗闇の中で身動きが取れなくなったところを、城からの猛烈な一斉射撃と逆落としの反撃に遭ったのだ。
丹羽長秀や池田勝三郎といった歴戦の猛将たちも、命からがら陣地へ逃げ帰るのが精一杯だった。
結果として、大河内城を包囲する織田軍数万の士気は、文字通り底の底まで落ち込んでいた。
誰もが疲労困憊し、長雨に体温を奪われ、敗戦の絶望に打ちひしがれている。華々しい戦功を立てて成り上がるという野心など、もはや誰の目にも宿っていない。ただ、「早くこの泥沼の地獄から帰りたい」という切実な思いだけが、冷え切った陣営に幽鬼のように漂っていた。
「……おい、急げ! 油紙の覆いがズレてるぞ! 絶対に雨水を入れるな!」
そんな重苦しい絶望の空気の中を、俺たち木下組の補給部隊だけが、泥水に腰まで浸かりながら必死にもがいて進んでいた。
俺は頭から被った蓑笠から滴る雨水を拭いもせず、陣夫たちと共に、荷車を押し上げながら怒鳴り声を上げていた。
「若! 泥が深すぎて車輪が回りませぬ! 荷馬もバテちまってます!」
泥だらけになった三太夫が、悲鳴のような声を上げる。
「馬が駄目なら人間が引け! 俺も押すから気合を入れろ! いいか、この荷車の中の薪だけは、何があっても濡らすなよ!」
俺が血走った目で睨みつけると、陣夫たちは「ひぃッ!」と悲鳴を上げて、必死に泥の坂道を押し始めた。
荷車に積まれているのは、槍でも鉄砲でもない。厳重に油紙で包まれ、一滴の雨水も侵入しないように守り抜かれた完全に乾き切った薪、そして巨大な保温用の木桶にたっぷりと詰め込まれた、炊き立ての熱い雑炊である。
「茂助殿。右側の荷崩れに気をつけてください。……この天候の中、本当に申し訳ない」
荷車の横で、陣代である小一郎が、大事な和紙の帳簿を懐に抱え込みながら一緒に泥まみれになって歩いていた。
「謝るのはやめてください、小一郎様。……俺だって、こんな泥水の中で力仕事なんかしたくありませんよ。でも、やんなきゃ俺たちが死ぬんでしょう?」
「ええ……。夜襲の失敗で、前線の部隊は身も心も限界です。ここで温かい飯と暖を取るための火が途絶えれば、織田軍は内側から完全に崩壊します」
小一郎は、泥にまみれた顔で重く頷いた。
俺たちが野戦病院で数百の負傷兵の命を救い、小一郎が驚異的な計算能力で物資の枯渇を防ぎ続けているおかげで、今のところ俺達に理不尽な批判は出ていない。
だが、前線の兵たちの心が折れかけているのは事実だ。
もし今、補給が滞り、凍えるような雨の中で冷たい飯を食わせ、火の点かない湿った薪を渡せばどうなるか。
間違いなく、兵たちは絶望して逃亡するか、陣中で暴動を起こす。数万の軍隊がパニックを起こせば、一番安全な後方にいる俺たちだって、ただでは済まないのだ。
(だから俺は、絶対に文句を言われない最高のデリバリーを届けてやるんだよ! 自分の命と、安全なポジションを守るために!)
「うおおおおッ! 進めェェェッ!」
俺はその圧倒的な巨体と腕力をフル稼働させ、泥に埋まった荷車を力任せに押し出した。
俺の狂気じみたパッションに引っ張られ、部下たちや陣夫たちも「お、おうッ!」と泥まみれになりながら前線へと進んでいく。
***
「……着いたぞ。池田様の陣地だ」
やがて、冷たい雨に打たれる最前線の陣営が見えてきた。
そこは、まるで墓場のような惨状だった。泥水の中に張られた天幕の下で、傷つき、疲れ果てた兵士たちが、ぼろきれのように身を寄せ合って震えている。
陣中には火の気すらない。昨日配給した薪が、この長雨で湿ってしまい、使い物にならなくなっているのだ。
「……また、雨か……。腹が、減った……」
「薪が点かん……寒ぃ……。もう嫌だ、尾張に帰してくれ……」
うわ言のように呟く兵たちの目は、完全に虚ろだった。
そこへ、俺たち木下組の補給部隊が、泥濘を踏み鳴らして到着した。
「飯だ! 木下組からの配給だ! お前ら、器を持てェェッ!」
俺の腹の底から響く怒声に、死人のようだった兵たちがビクッと肩を震わせ、のろのろと顔を上げた。
俺は、部下たちに指示して荷車の油紙を剥ぎ取り、大急ぎで乾き切った薪を天幕の下へ運び込ませた。
「火打ち石を貸せ! 火種は俺たちが持ってきた!」
俺が乾いた薪に素早く火を点けると、パチパチという心地よい音と共に、力強い炎が燃え上がった。
「あ、ああ……っ! 火だ……温けぇ……っ」
凍えていた兵たちが、弾かれたように炎の周りに群がってくる。
「押すな! 火の周りに並べ! 飯も持ってきたぞ!」
小一郎が、保温用の木桶の蓋を開けた。
その瞬間、炊き立ての米と、味噌と、わずかな塩気が入り混じった温かい雑炊の湯気と匂いが、冷え切った陣幕の中にブワッと広がった。
「飯だ……! 湯気が出てるぞ!」
「嘘だろ……こんな土砂降りの中で、どうやって温かい飯を……」
信じられないものを見るような顔で、兵たちが椀を差し出してくる。俺と小一郎は、無言でたっぷりと熱い雑炊をよそって手渡していった。
「う……うめぇ……っ! 五臓六腑に染み渡る……っ」
熱い飯を腹に流し込んだ兵士の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
隣の兵も、その隣の兵も、椀を抱え込みながら泣いていた。敗戦の絶望と寒さに凍りついていた彼らの心と体に、確かな命の熱が灯っていくのが分かった。
「……木下の陣代殿。そして茂助殿」
ふと、背後からしゃがれた声がした。
振り返ると、そこにはお館様の乳母兄弟にして信頼厚い池田勝三郎恒興その人が立っていた。夜襲の失敗で泥にまみれ、目は落ち窪み、以前のような威厳は見る影もない。
「池田様。……本日の配給でございます。薪は可能な限り乾かして参りました」
小一郎が静かに頭を下げると、勝三郎は燃え盛る焚き火と、泣きながら飯を食う己の部下たちを、じっと見つめた。
「……昨日、お館様の陣営にて軍議があった」
勝三郎は、ポツリと呟いた。
「夜襲に失敗し、数千の兵を失った我らは、お館様から烈火の如き叱責を受けた。……当然だ。功を焦り、この悪天候の中で強攻を主張したのは我らなのだからな」
俺たちは黙って話を聞いた。
「我らは皆、処断を覚悟した。だが、お館様はこう仰った。『前線の貴様らがいくら不甲斐なくとも、軍自体が崩壊していないのはなぜか分かるか。……後ろを見よ』と」
勝三郎は、小一郎と俺の、泥だらけの姿を真っ直ぐに見据えた。
「『後ろの猿の部隊が、あの絶望的な土砂降りの中で、一日も欠かすことなく乾いた薪と温かい飯を運び上げているからだ。あれが途絶えれば、この軍は一日で瓦解する』……と」
「お館様が、そのようなことを……?」
小一郎が、驚いたように目を見開く。
「……我らは、恥を知った」
勝三郎は、深く、深く、俺たちに向かって頭を下げた。
「勝三郎様……」
俺は、ただ見ていることしか出来なかった。
「我らは、華々しい手柄ばかりを追い求め、兵の命と兵站を軽んじていた己の愚かさを、骨の髄まで思い知らされた。……この泥沼の戦場において、我ら織田軍の命を繋ぎ、敵の反撃から守り抜いている真の要は、最前線の柵ではない」
勝三郎は、陣夫たちが運んできた米俵の山と、燃え上がる焚き火を指差した。
「木下組が築き上げた、この途切れることのない補給線……。これこそが、我ら織田軍を守る『見えない城壁』なのだ。……陣代殿、茂助殿。我らを飢えと寒さから救ってくれたこと、心より感謝いたす」
心からの謝意と最大級の賛辞。
その言葉を聞いた瞬間、俺の横で泥まみれになっていた三太夫や但馬、そして陣夫たちの顔が、誇らしげにパァッと明るくなった。
「……もったいないお言葉でございます、池田様」
小一郎も、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、深く頭を下げ返した。
「そうです。墨俣のときの恩返しですよ。勝三郎さ様」
俺は、照れくさそうに笑う小一郎様を見ながら、小さく息を吐いた。
結果として俺たちの泥臭い働きは、敗戦でバラバラになりかけていた織田軍の心を繋ぎ止め、古参武将たちに木下組の実力を骨の髄まで認めさせることになったのだ。
ふと、分厚い雲の切れ間から、薄っすらと秋の陽光が差し込んできた。
何日も降り続いていた冷たい長雨が、ようやく上がりかけている。
(……そろそろ、終わるかもしれないな)
俺は、大鍋の底に残った雑炊を掻き出しながら、遠くそびえる大河内城を見上げた。
織田軍は力攻めを諦め、城側もまた、これ以上の籠城に限界を迎えているはずだ。戦場に、決着の時が近づいていた。
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