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第94話 夜襲大失敗と、野戦病院


 大河内城おおかわちじょうの山肌を揺るがすような鉄砲の音と、何万という人間が入り混じった凄まじいときの声。

 それが、絶望的な悲鳴と怒号に変わるまで、さほどの時間はかからなかった。


 深夜。

 後備うしろぞなえである木下組の陣営で、煮えたぎる大鍋の前で待機していた俺たちの耳に、ドチャ、ドチャと、泥濘ぬかるみを這いずるような無数の足音が近づいてきた。


「……来たぞ! 前線からの退いてきた舞台だ!」

 陣の入り口で見張りをしていた足軽が、裏返った声で叫んだ。

 松明たいまつの明かりの中に浮かび上がったのは、文字通りの地獄だった。


「うおおおっ……! 退け、退けぇぇっ!」

「足が、俺の足がぁぁッ!」

 丹羽、池田、稲葉勢の旗印を背負った主力部隊の足軽たちが、泥と自らの血にまみれ、武器も放り出して転がるように逃げ帰ってきたのだ。


 槍で突かれた者、鉄砲で撃たれた者、仲間を背負って泥だらけになっている者。数え切れないほどの負傷兵が、安全な後方陣営である木下組の天幕へと雪崩を打って押し寄せてきた。


「大敗だ! 夜の泥山で足を取られ、上から一斉射撃を浴びた! 前衛は壊滅だァッ!」

 血走った目をした武者が、狂乱したように叫ぶ。

 陣中は一瞬にして、怪我人たちの悲痛な叫び声と、血の匂いで満たされた。


「おい! 早くこいつの傷口に塩を塗り込め! 血を止めるんだ!」

「腹に悪い血が溜まってる! 誰か、水に馬糞を溶いて馬糞汁を持て! 飲ませて吐かせるんだ!」

 パニックに陥った足軽たちが、戦場に伝わるトンデモない民間療法を叫び始める。


「退け! 金創医きんそういのお通りだ!」

 さらに、墨染めの衣を着た従軍の僧侶たちが、血まみれの釘抜きと太い針を持って駆けつけてきた。

「弾が骨に食い込んでおる! そいつを木に縛り付けて、何人かで力一杯押さえつけい! 今から釘抜きでほじくり出して、その場で縫うぞ!」

「ぎゃあああああッ!!」

 麻酔もなしに泥だらけの傷口をほじくり返され、太糸で縫われる兵士の絶叫。


 傷口に塩を塗り込まれ、痛みのあまり白目を剥いて気絶する者。

 その光景を目の当たりにして、俺は恐怖と吐き気で足の震えが止まらなくなった。

(ひぃぃぃっ! 無理無理無理! スプラッターすぎる! 塩!? 馬糞!? 汚い釘抜き!? なんでこの時代の連中は、傷口を悪化させるようなことばっかりするんだよ!)


 このまま放置すれば、彼らは皆、この不衛生極まりない地獄の治療によって化膿し、敗血症で死んでいく。俺の目の前で。

 俺だって、怪我をした時にあんな馬糞や塩で治療されるのは絶対に嫌だ!


「ストォォォォォップ!! お前ら、ふざけんなァッ!」

 俺は恐怖を怒声で誤魔化しながら、塩を握りしめていた足軽を突き飛ばし、血まみれの兵士の胸倉を掴んでわらを敷き詰めた天幕へと引きずり込んだ。


「塩なんか塗るな、痛みにショックで死ぬだろうが! 馬糞なんか絶対に飲ませるな! 三太夫! 但馬! お湯だ! お湯を張った桶を持て!」

 部下たちが慌てて熱湯の入った桶を運んでくる。


「いいか、ガマの粉やヨモギをまぶす前に、まずは傷口の泥を徹底的にお湯で洗い流せ! 泥が残ってたら後で化膿して死ぬぞ! 金創医の坊主ども、お前らも血まみれの手で傷口を触るな、お湯で手を洗ってからにしろ!」

 俺は、半狂乱で指示を飛ばした。


「綺麗になったら、煮沸した清潔な布を傷口に何重にも当てて、その上から力いっぱい押さえつけろ! ただ押さえるだけだ! 体重かけて圧迫すれば、大抵の血は止まる!」

 それは、現代の応急処置の基本である洗浄と圧迫止血だった。


 理屈は分からないが、巨漢の猛将である俺が鬼気迫る形相で怒鳴り散らしているため、木下組の足軽や陣夫じんふたち、果ては金創医たちもそれに気圧され、次々と運び込まれる怪我人たちのお湯洗いと圧迫止血を始めた。


「な、何をなさる! 塩を塗らねば……」

「うるせえ! 傷に塩塗って気絶させてどうすんだ! おとなしく布で縛られてろ!」

 俺は巨体に任せて抵抗する兵を無理やり組み伏せ、力任せに傷口を清潔な布で縛り上げ、全体重をかけて圧迫した。


 数分後。布の下からドクドクと溢れていた血が、ピタリと止まった。

「……ち、血が……止まった……?」

 兵士が信じられないものを見るように自分の腕を見つめる。


「ほら見ろ! 押さえれば止まるんだよ! 矢尻が深く刺さってる奴や、弾丸が残ってる奴だけ金創医の坊主のところに連れて行け!」

 塩も馬糞も使わず、あっという間に血が止まった。その事実が、パニックに陥っていた負傷兵たちの間に、一種の魔法のように波及していった。


「こっちも頼む! 血を止めてくれ!」

「俺もだ、足を撃たれた! 洗って布を巻いてくれ!」

 怪我人たちが、次々と俺たちにお湯と包帯を求めて群がってくる。


「順番に並べ! 重傷な奴からだ! 三太夫、布が足りなくなる、次をどんどん鍋で煮込め!」

 俺は血みどろになりながら、完全に野戦病院の院長と化して怒鳴り続けた。


 ――だが、怪我の手当てだけでは、彼らの命は救えなかった。

 秋の冷たい長雨の中で、泥にまみれ、大量の血を流して退却してきたのだ。兵たちの唇は紫に染まり、体は小刻みに震え、急速に体温を奪われていた。


「……寒ぃ……死ぬ、体が、動かねえ……」

 血は止まったのに、寒さと出血によるショック症状で、意識を手放しそうになる者が続出し始めたのだ。

 このままでは、凍死してしまう。


「茂助殿! 手当ての終わった者は、奥の天幕へ移動させてください!」

 その絶体絶命の危機を救ったのは、陣代である小一郎だった。


 俺が怪我の手当てに狂奔している間、彼は恐るべき手際で陣夫たちを指揮し、木下組が管理する兵糧の米と、ありったけの薪を使って、巨大な鍋で大量の『温かい雑炊ぞうすい』を作らせていたのだ。


「さあ、まずは温かいものを腹に入れなさい。ゆっくりでいい。馬糞汁などより、こちらの方がよほど精がつきます」

 小一郎様が、震える兵士の口元に、湯気を立てる雑炊の入った椀を運ぶ。

 一口、また一口と温かい汁を飲み込んだ兵士の顔に、サッと血の気が戻っていく。


「う、うまい……。温けぇ……っ」

 兵士の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 戦場において、極限の恐怖と寒さを味わった者にとって、内臓から体を直接温める熱い飯は、どんな民間療法よりも効果のある『特効薬』だった。


「小一郎様! こちらにも雑炊を!」

「ええ、今すぐ持っていきます! 陣夫たちよ、火を絶やすな! 米はいくらでもある、どんどん炊き出しを続けろ!」

 小一郎様は、泥と雨にまみれながらも、完璧な導線で野戦病院を機能させていた。


 入り口で茂助が泥を洗い落とし、清潔な布で的確に血を止め、必要な者だけ金創医に回す。そして奥へ回された者を小一郎が温かい飯で蘇生させ、乾いた藁の上に寝かせる。

 木下組の陣営は、まさにベルトコンベアーのような流れ作業で、死の淵にいた何十、何百という負傷兵たちの命を次々と繋ぎ止めていった。


 ***


 やがて、長い長い地獄の夜が明け、灰色の空に白みがかかり始めた。

 雨は小降りになっていたが、大河内城への夜襲は、織田軍に数百人もの死傷者を出すという、歴史的な大敗北に終わった。前線の陣営は完全に瓦解し、士気は底の底まで落ち込んでいた。


 だが。

「……終わった……のか?」

 俺は、お湯を沸かし続けた大鍋の前で、すすけた顔のままへたり込んだ。

 木下組の陣営を埋め尽くすほどの負傷兵たち。彼らは皆、清潔な布で傷を巻かれ、温かい雑炊を腹に入れ、乾いた藁の上で安らかな寝息を立てていた。


「茂助殿」

 振り返ると、顔中泥だらけになった小一郎様が、空になった雑炊の桶を持って立っていた。その目は疲労で真っ赤に充血していたが、口元には確かな達成感の笑みが浮かんでいた。


「……我々は、やり遂げました。……貴方のやり方が本当に正解なのかは、私にはわかりません。ただ彼らを見てください」

「……ははっ。俺はただ、汚いもんを見たくなかっただけですよ」

 俺が乾いた笑いを漏らすと、小一郎様は俺の泥だらけの肩をポンと叩いた。


「あなたのその『死にたくない、汚い思いをしたくない』という執念が、今夜、これだけ多くの命を救ったのです。……やはりあなたは、木下組の大黒柱です」

 そこへ、奥の天幕から、腕を吊った身なりの良い武将が歩み寄ってきた。丹羽長秀様の部隊の将らしい。


「……木下の陣代殿。そして、堀尾殿」

 武将は、泥だらけの俺たちに向かって、深々と頭を下げた。

「昨夜は、我ら前線が功を焦り、無謀な夜襲で大敗を喫した……。合わせる顔もない。だが、貴殿らの迅速な手当てと、あの温かい飯がなければ、我らの部隊は立ち直れなかったであろう。……命を救っていただいたこと、決して忘れん」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の部下たちや陣夫たちから、どっと安堵の声が漏れた。


 武功こそ上げられなかった。だが、俺たちはこの泥と血にまみれた地獄の夜を、裏方としての泥臭い仕事で、見事に戦い抜いたのだ。

「……小一郎様。まだ、米と薪は残ってますか?」

 俺が問いかけると、小一郎様は力強く頷いた。


「ええ。我々が管理する物資は、まだ山のようにあります。……ここからが、本当の『兵站へいたん』の戦いです」

 夜襲の失敗で、織田軍の力攻めの気力は完全にへし折られた。


 だが、戦が終わったわけではない。この泥沼の包囲戦を、誰一人餓死させることなく、敵が干上がるまで支え続ける。

 それが、最前線を外された俺たち木下組に与えられた、本当の使命だった。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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コレは「仏の茂助」と呼ばれますわ
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