第93話 猛将たちの焦りと夜襲決行
降り続く秋の長雨が、南伊勢の山々を底なしの泥沼へと変えていた。
大河内城の包囲戦が始まってから、およそ二十日が経過していた。
俺の半狂乱の衛生管理と、小一郎の緻密な計算によって、後方に位置する木下組の陣営はどうにか疫病の蔓延を防ぎ、補給拠点としての機能を維持している。
だが、俺たちの手が及ばない最前線の主力陣営の疲労は、すでに限界を迎えつつあった。
「……丹羽様、池田様、稲葉様の三将が、お館様に大河内城への『夜襲』を具申され、先ほど承認されたそうです」
その日の夕刻。
土砂降りの雨の音を遮るように、小一郎様が重苦しい声で俺たち後備えの幹部に告げた。
「や、夜襲だと!?」
前衛の護衛から戻っていた蜂須賀小六や前野長康が、その言葉に顔色を変えた。
「敵もこの長雨で疲弊しきっている。夜陰に乗じて精鋭を放ち、一気に柵を破れば落とせる……という、古参の重臣たちの強い進言があったそうです」
小一郎は、深く溜息をついた。
「お館様も、主力陣営に腹下しの病が広がりつつある現状を見て、これ以上包囲を長引かせれば自軍が自滅すると判断されたのでしょう。この膠着状態を打破するための、大きな賭けに出られたのだと思います」
「だが、この泥濘の山道だぞ!? 大河内城の複雑な地形を、視界の悪い夜間に攻め上るなんて、いくら丹羽様たちでも危険すぎる!」
小六が顔をしかめて唸る。
俺も天幕の隅で、心底同意して首を縦に振った。確かに、織田の主力部隊は精強だ。だが、泥と闇の中での強行突破は、一つ歯車が狂えば大惨事を招きかねない綱渡りの戦術である。
(……ああ、よかった。本当に、本当によかった)
俺は、心底安堵していた。
大将の藤吉郎が重傷で寝込んでいるおかげで、俺たち木下組は最前線から外されているのだ。あんな泥と闇と血にまみれたハイリスクな夜襲に、俺が参加しなくて済む。
手柄に飢えた古参武将たちには申し訳ないが、せいぜい勝手に頑張ってきてくれ。俺はここで、安全に荷物番でもしているからさ。
「……茂助殿」
俺が胸を撫で下ろしていると、小一郎がひどく切羽詰まった声で俺を呼んだ。
「はい? なんですか、俺たちは前線で戦う皆様のご武運を、ここから祈るしか……」
「今夜半の夜襲……。勝つにせよ負けるにせよ、あの険しい山城への暗闇での強攻です。間違いなく、相当数の兵が傷つき、血を流すことになります」
小一郎様は、俺の両肩をガシッと掴んだ。
「そして、大怪我を負い、前線で戦えなくなった彼らが、真っ先に後送されてくるのは……この後方支援を担っている、木下組の陣営です」
「…………え?」
俺の思考が、ピタッと停止した。
言われてみれば、当たり前のことだった。最前線は夜襲の激戦区であり、負傷者をゆっくりと治療している余裕などない。動けなくなった重傷者は必然的に、一番安全な後方陣営――つまり、俺たちの物流拠点へと運び込まれてくるのだ。
「す、数百人の、血まみれの怪我人が……ここに、来る?」
「はい。木下組の陣地を、陣中の療治所として機能させねばなりません。阿坂城で、兄が受けたあの惨状……あれが何十人も、何百人も、今夜ここに押し寄せてきます」
小一郎様の言葉に、俺の脳裏に再びあの凄惨な光景が蘇った。
脇腹に矢を受け、麻酔もなしに巨大な釘抜きで肉をこじ開けられ、傷口に気付けの粗塩を塗り込まれて絶叫する藤吉郎殿。血と泥と、痛みに狂う悲鳴が充満した天幕。
あれが、何百人も?
俺が、その血まみれの地獄の真っただ中で、彼らの世話をしなきゃならないって言うのか!?
「い、嫌です!!」
俺は、天幕を突き破らんばかりの悲鳴を上げた。
「なんで俺がそんな血みどろの現場で働かなきゃならないんですか! 痛いのもグロいのも大嫌いなんです! あんな拷問みたいな野蛮な治療、見てるだけでこっちが気絶しそうになるんですよ!!」
「し、しかし誰かが差配しなければ、運び込まれた兵たちは次々と命を落とします! どうか、あなたのその手腕で……!」
「嫌だ嫌だ! 絶対嫌だ!」
俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
だが、いくら駄々をこねても、数時間後には夜襲が始まり、怪我人たちがここに殺到してくるのは確定事項なのだ。逃げ場はない。
(……待てよ。あの凄惨な治療……傷口に塩を塗り込んだりするのは、なんでだ? 気付けと血を止めるためだろ?)
俺の必死のパニック脳が、高速で回転し始めた。
血さえ物理的に止まれば、塩を擦り込むような恐ろしい荒療治は最小限で済む。そして傷口に泥がついたまま強引に縫うから化膿して死ぬんだ。
なら、せめて……せめて清潔な布で傷口を直接縛って圧迫止血し、綺麗なお湯で泥と血を洗い流すことがだけでもできれば、あんな拷問まがいの阿鼻叫喚の地獄を見なくて済むんじゃないか?
「……やるしかない。やるしかないんだ! 俺があんな地獄を見ないために!」
俺は血走った目で立ち上がると、弾かれたように天幕を飛び出した。
「三太夫! 但馬! 手の空いてる奴は全員集まれェェェッ!」
俺の鼓膜が破れそうな怒声に、近くで排水溝の泥を掻き出していた部下たちが、ビクッと肩を震わせて集まってきた。
「若、どうされました! また誰か野糞でもしましたか!?」
「違う! 今夜、ここに大量の怪我人が押し寄せてくるかもしれん! 今すぐ、怪我人を受け入れる準備をするぞ!」
俺は、陣夫たちが寝泊まりしている天幕を指差した。
「あれを半分空けろ! 床に綺麗な藁を敷き詰めて、負傷者を寝かせる場所を作れ! それから、陣中にある布という布を全部かき集めてこい! 古い陣羽織でも、使ってない旗印でも、俺の着替えでも何でもいい! 全部細長く引き裂いて、傷口に負けるようにするんだ!」
「しかし、布なんて泥と埃まみれで……」
「そのまま使うか馬鹿野郎! ばっちいだろうが!」
俺は、兵糧の炊き出しに使っている巨大な大鍋を指差した。
「全部、あの鍋でグツグツに煮沸しろ! お湯で煮込んでから、火のそばでカラカラに乾かすんだ! いいか、少しでも泥のついた汚い布を傷口に当てたら、そこから腐って死ぬんだぞ! 絶対に清潔な布を用意しろ!」
俺の狂気じみたパッションに当てられ、兵や陣夫たちは大慌てで布をかき集め、大鍋で煮込み始めた。
俺はそれに飽き足らず、小一郎様の元へ駆け戻った。
「小一郎様! 薪です! 薪がもっといります! 夜通しお湯を沸かし続けるための大量の薪を!」
「で、ですが茂助殿。長雨で乾いた薪はもう残りが……」
「濡れてたってなんだって構いません! 陣を囲ってる木の柵をぶち壊してもいい! 何が何でも火を絶やすな! お湯がないと、傷口を洗えないんです! 血まみれの兵士を洗うための、大量の温かいお湯が必要なんです!!」
俺の「絶対にあのグロテスクな治療の場に立ち会いたくない」という自己中心的なまでの必死の懇願が、またしても陣中の常識を覆していく。
大鍋に次々と水が張られ、雨を避けた天幕の下で、ありったけの薪が燃やされる。細かく裂かれ、熱湯で煮沸された清潔な布の山が次々と積み上げられていった。
「若……。なんだか、戦の陣というより、湯治場か染物屋みたいになってきましたな……」
三太夫が、もうもうと立ち上る湯気の中で額の汗を拭った。
「これでいいんだ。お湯と清潔な布。これさえあれば、とりあえず大抵の血は止められる。そうすれば、傷口に塩を塗り込むような拷問の出番は減らせる……はずだ」
俺は、空の桶をいくつも並べながら、西の空を見上げた。
厚い雲に遮られ、夕日は見えない。だが、刻一刻と夜の闇がこの泥沼の山中を包み込もうとしていた。
――そして、深夜。
ドォォォン……! ドォン……!
遠くの山肌で、腹の底に響くような鉄砲の音が鳴り響き、それに続いて、何万人という人間が入り混じった、地鳴りのような凄まじい鬨の声が上がった。
始まった。
大河内城への、織田本軍の主力による大規模な夜襲。
勝つにせよ負けるにせよ、今夜この山は血に染まる。
俺は、煮えたぎる大鍋の前でゴクリと唾を飲み込んだ。
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