第92話 秋の長雨と、兵站の地獄
雨、雨、雨。
伊勢の空を分厚い灰色の雲が覆い尽くし、冷たく容赦のない秋の長雨が何日も降り続いていた。
南伊勢の奥深くにそびえる巨大要塞、大河内城。
それを包囲する織田本軍の陣営は、連日の雨によって足首まで埋まるほどの最悪な泥沼と化していた。
華々しい武功や一番槍の誉れなど、ここにはない。ただ冷たい雨に打たれ、泥にまみれ、体温と体力をジワジワと削り取られていくだけの、ひたすらに陰惨な消耗戦である。
「若! 池田様の陣から使者ですぜぇ! 『雨で火縄が使い物にならぬ、至急乾いた火縄と、雨除けの油紙を百枚持て』と!」
「丹羽様の陣からもです! 『支給された薪が湿って火が点かん、これでは兵が凍える、今すぐ乾いた薪を出せ』と怒鳴り込んできております!」
木下組が管理する後方の物資集積所では、各部隊からの伝令がひっきりなしに駆け込んでは、理不尽極まりない要求を叩きつけてきていた。
俺は頭から被った蓑笠から滴る雨水を拭いもせず、泥だらけの顔を引き攣らせた。
「ふざけんな! これだけ毎日土砂降りで、どうやって乾いた薪や火縄を無尽蔵に用意するってんだ! 俺たちが魔法使いだとでも思ってんのか!」
俺は使者たちに見えない裏手で、地団駄を踏んで叫んだ。
そもそも、この伊勢の山奥に見渡す限りの大軍勢が密集しているのだ。周囲の山々の木々はすでに伐採し尽くされており、薪一つ手に入れるにも、泥道をもがいて遠くの山まで切り出しに行かなければならない。
「茂助殿、落ち着いてください。怒っても薪は乾きません」
背後から、静かだが疲労の滲む声がした。陣代である小一郎様だ。
彼は雨の吹き込む天幕の中で、濡れないように厳重に木箱に保管された帳簿をめくり、すり減った筆で必死に物資の計算を続けていた。
「池田様の陣には、昨日尾張から届いた予備の油紙を二十枚だけ回してください。丹羽様の陣には、我々の陣所の床に敷いていた乾いた板を剥がして割って届けなさい。……ない袖は振れませんが、少しでも不満を和らげねば、前線の士気が崩壊します」
「小一郎様……あんた、自分の寝床の板まで薪に回す気ですか……」
「大将である兄や、兵たちの命には代えられませんから」
小一郎様は青白い顔で微かに笑った。
この地獄のような兵站業務が完全に破綻せずに済んでいるのは、ひとえに彼の超人的な計算能力と、狂気じみたまでの気配りのおかげだった。
だが、その指示を実際に泥沼の中で実行するのは俺たちの役目である。
「……三太夫! 但馬! 小一郎様の指示通り、荷車に積んで前線へ走れ! 絶対に雨に濡らすなよ!」
俺の指示に、泥まみれの部下たちが「応ッ!」と応え、民間から徴用された陣夫たちを連れて泥道へと分け入っていく。
終わりの見えない物流地獄。俺はドッと疲労を感じて、近くの米俵の上に腰を下ろそうとした。
――その時だった。
「う、うぇぇぇっ……」
俺のすぐ近くで、米俵を運んでいた陣夫の一人が、唐突に泥水の中に膝をつき、激しく嘔吐した。
「おい、どうした! 大丈夫か!」
俺が慌てて駆け寄ると、陣夫は腹を抱えてうずくまり、ガタガタと激しく震えている。顔色は土気色を通り越して青黒く、そして泥にまみれた袴の尻の辺りが、赤黒く汚れていた。激しい下痢と下血を起こしているのだ。
「……ッ!!」
俺は弾かれたように飛び退いた。
難しい医学の知識なんて俺にはない。だが、激しい嘔吐と血便という症状を見て、現代人としての本能的な恐怖が爆発した。
(ヤバい、ヤバいヤバい! これ絶対に変な病気か食中毒だろ! カキに当たった時のノロウイルスみたいなやつだ!)
俺は背筋に冷たい氷柱をねじ込まれたような悪寒を覚えた。現代なら病院に行って点滴を打てば治るかもしれないが、ここは戦国時代だ。
先日、藤吉郎殿が受けた戦国医療の凄惨な光景がフラッシュバックする。麻酔もなしに巨大な釘抜きで傷口をこじ開けられ、気付け代わりに粗塩を塗り込まれる拷問のような荒療治。
(腹下しの病気にかかったら、どうなるんだっけ……。たしか、腹に溜まった悪い血を吐かせるために、『水で溶いた馬糞汁』を飲まされるって聞いたぞ……!)
俺の脳内で、ウンコ混じりの水を飲んで腹を壊した結果、治療と称して馬糞を飲まされるという、絶望的な無限ループが組み上がった。
(俺があんな病気にかかったら……馬糞汁を飲まされてゲロを吐き続けるか、祈祷師に変なお経を読まれてそのまま死ぬかの二択じゃねえか!! 絶対に嫌だ!!)
俺は恐怖に駆られ、陣営の周囲をグルリと見渡した。
いくら戦国時代の人々だって、糞尿混じりの水が身体に悪いことくらいは知っている。普段なら厠は水場から離れた下流に設営される。
だが、今は違う。連日の土砂降りと、何万人という人間が密集する過酷な環境により、陣中の規律が完全に崩壊していた。
決められた厠は雨水で溢れ返り、疲労困憊した兵や陣夫たちは、雨の中を歩くのを面倒くさがって陣地のすぐ裏の草むらで適当に野糞をしている。
その汚物を雨水が洗い流し、地表を伝って、皆が飲料水として汲んでいる沢へと流れ込んでいるのだ。
さらに、貴重な乾いた薪を節約するため、水を一度沸かして白湯にする手順を怠り、汚染された生水をそのまま飲んでしまっている。
「どうしました、茂助殿。大声を出して……」
天幕から出てきた小一郎様が、倒れた陣夫を見て顔をしかめた。
「小一郎様。マズいです。このままじゃ、俺たち戦う前に病気で全滅しますよ!」
俺は涙目になりながら叫んだ。
「陣中の規律が緩みきってます! みんながそこら中で用を足すせいで、ウンコが雨水と一緒に俺たちの飲んでる沢へ流れ込んでるんですよ!」
「……やはり、か」
小一郎様は、悔しそうに唇を噛んだ。
「私も厠の増設は命じていたのですが……この長雨と泥濘で作業が進まず、何より兵たちが疲弊しきって命令を聞かなくなっているのです。薪が足りないからと、生水をすすっている者も多い」
「薪の節約より命の方が大事でしょうが! 俺、血便垂れ流して、治療で馬糞なんか絶対に飲みたくないんです!」
俺は小一郎様にすがりついた。
「お願いです、俺に陣夫たちを動かす許可をください! 荷運びを少し遅らせてでも、陣中の規律を取り戻します! じゃないと俺が死んじゃう!」
完全に俺のワガママと恐怖から出た悲鳴だったが、その異常なまでの必死さに、小一郎様は静かに頷いた。
「……分かりました。貴殿にお任せします」
許可を得た瞬間、俺は自分の命を守るために、半狂乱で泥沼の陣地を走り出し、右往左往の大立ち回りを始めた。
「三太夫! 但馬! 手の空いている奴を全員集めろ! 鍬を持て!」
俺は泥まみれの巨体を揺らし、陣夫たちの寝泊まりする区画へと飛び込んだ。
「お願いだお前ら! 今日から、生水をそのまま飲むのは絶対にやめてくれ! 水は必ず、面倒でも一度鍋でグツグツ沸かして『白湯』にしてから飲んでくれ!」
俺が必死に頼み込むと、陣夫たちは怪訝な顔をした。
「無茶言わねえでくだせえ! 薪が足りねえのに、いちいち湯なんて沸かしてられねえですよ!」
「薪がねえなら、俺がなんとかして拾ってくるから! 俺の飯を分けてもいい! だからお願いだ、生水だけは飲むな! 頼む、死にたくないんだよぉ!」
大男が泥にまみれて涙声で懇願する異様な姿に、陣夫たちは「わ、分かったから泣くなよ……」とドン引きしながらも頷いた。
「それから、陣地の周りに深い排水溝を掘るぞ! 俺も手伝うから! 汚い泥水は全部下流へ流すんだ!」
俺は誰よりも早く鍬を握りしめ、狂ったような勢いで山肌を掘り始めた。その尋常ではないパッションに当てられ、陣夫たちも慌てて溝掘りを手伝い始める。
「そして一番重要なことだ! あそこの沢の近くで野糞しようとしてる奴、待てぇぇぇッ!!」
俺は、草むらで袴を脱ごうとしていた足軽を見つけるや否や、猛ダッシュで飛びついて阻止した。
「ヒィッ!? な、何すんだあんた!」
「頼むからそこでしないでくれ! 俺たちの飲み水にウンコが混ざるだろうが! あっち! あっちの下流に今から俺が屋根付きの深い厠を掘るから、絶対にそこでしてくれ! 終わったら灰か土を被せて蓋をしてくれ! 一生のお願いだからァ!」
俺は陣中を駆けずり回り、用を足そうとする者を片っ端から下流の新しい厠へと誘導し、生水を飲もうとする者からは柄杓をもぎ取り、自ら火を起こして湯を沸かして回った。
威圧でも命令でもない。ただ剥き出しの恐怖と必死さが、伝染病のように陣中に広がっていった。
深い厠を掘って雨除けの屋根をかけ、生活空間の泥水を排水溝へ流す。腹を下した者は下流の隔離用の天幕に寝かせ、看病する者には必ず手を洗うよう拝み倒した。
「……若。他の陣営では、腹下しでバタバタと兵が倒れていると噂ですが……我ら木下組の周辺では、病で倒れる者がほとんどおりませぬな」
数日後。排水溝の泥を掻き出しながら、三太夫が呆れたような、感心したような顔で言った。
「若があれほど半泣きで土下座せんばかりに頼み込んでくるものですから、陣夫たちもすっかり気圧されて、面倒がらずに湯を沸かし、決まった厠に行くようになりました。結果的に、それが命を救うとは」
「俺はただ、汚い水で死にたくなかっただけだ……」
俺は鍬を杖代わりにして、どんよりと曇った秋空を見上げた。疲労でもう一歩も動けない。
俺の右往左往の走り回りと、小一郎様の完璧な物資計算によって、木下組が担当する後方陣営はどうにか崩壊を免れていた。
だが、俺たちの手が及ばない最前線の古参武将たちの陣営では、長雨による疲労、飢え、そして不衛生による病の蔓延によって、士気が限界まで落ち込んでいるはずだ。
「……マズいですね。前線の武将たちが、苛立ちを限界まで募らせています」
本陣からやってきた小一郎様が、深刻な顔で俺の横に立った。
「これ以上泥沼の包囲戦が続けば、自軍が病で自滅する。そう焦った丹羽様や池田様たちが、お館様に『力攻め』の許可を求めているとの報告が入りました」
「力攻め……? あんな巨大要塞に、この足場の悪い雨の中で突撃するって言うんですか!?」
俺の問いに、小一郎様は重く頷いた。
「ええ。……今夜半。大河内城への、大規模な『夜襲』が決行されるそうです」
背筋がゾッとした。
こんな泥濘の中で、統制の取りづらい夜間の強攻。どう考えてもまともな戦術ではない。功を焦り、環境の劣悪さに耐えきれなくなった猛将たちの、完全な暴走だった。
「茂助殿。我らは後備えとして、最悪の事態に備えねばなりません」
小一郎様の悲痛な声に、俺は無言で頷くしかなかった。
兵站の地獄を必死に支え続ける俺たちの頭上で、さらなる血生臭い破滅の足音が、泥濘を踏み鳴らしながら近づいてきていた。




