第91話 大河内城包囲と、後備えの安堵
木下組の陣代・小一郎の泥臭い土木戦術と情けの交渉により、南伊勢の入り口にそびえる阿坂城は開城した。
これによって南伊勢への道が完全に開かれ、ついに織田信長を総大将とする大軍勢が、伊勢の奥深くへと雪崩れ込んだ。
目指すは、伊勢国を代々支配してきた名門・北畠家の本拠地、『大河内城』である。
大河内城は、いままでの城とは規模が違った。
二つの川を天然の深い堀として利用し、いくつもの山や谷を丸ごと取り込んで要塞化した、途方もなく巨大な城郭だという。
そこに北畠家の当主・具教をはじめとする城兵が立て籠もり、織田の大軍を迎え撃つという、まさにこの伊勢攻めの最終決戦となる舞台だった。
「……というわけで。我ら木下組は、大河内城の包囲の『最前線』から外されることになりました」
大河内城の数里手前に敷かれた陣営で、軍議から戻ってきた小一郎が、集まった木下組の武将たちに向けて静かに告げた。
天幕の中には、蜂須賀小六、前野長康、そして俺の弟分の弥七こと中村一氏や山内一豊といった面々が顔を揃えている。
「最前線から、外された……だと?」
小六が、ワナワナと拳を震わせた。
「大将である兄上が重傷を負い、未だ起き上がれぬ身。激戦が予想される最前線を任せるには不安が残る、というお館様のご判断です。先鋒は、柴田様、佐久間様、丹羽様、池田様といった古参の重臣の方々が務めることになります」
小一郎の淡々とした説明に、陣幕内の空気が爆発した。
「ふざけるなァッ!!」
前野長康が、床を思い切り叩き割らんばかりの勢いで拳を振り下ろした。
「一番の難所だった阿坂城を落とし、伊勢への道を切り開いたのは我ら木下組だぞ! 大将が怪我をしてるからお役御免だと!? 美味しいところだけを、あの古参のオッサンどもが根こそぎ持っていくって言うのか!」
「そうだ! 俺たち川並衆は、手柄を立てて成り上がるために泥水すすってんだぞ! お館様はどうしてそんな理不尽な真似を……ッ!」
小六も目を血走らせて吠える。
「……古参の方々の猛反発があったのでしょう」
静かに扇を開きながら、軍師の半兵衛が口を挟んだ。
「阿坂城で、柴田様たちの『突撃せよ』という命令を無視し、我々は無血開城という大金星を上げました。古参の重臣たちからすれば、完全に猿の部下たちに顔を潰された形です。この大河内城という一番の晴れ舞台で、これ以上木下組に目立たれては困る……そういう政治的な圧力が、お館様にかけられたのだと思います」
「くそっ……! 武功を立てる機会すら奪われるとは、武士としてこれ以上の屈辱はありません……!」
生真面目な一豊までもが、ギリッと唇を噛み締めて悔し涙を浮かべていた。
武功こそが全ての戦国武将にとって、激戦の最前線から外されることは「死刑宣告」にも等しい恥辱なのだ。天幕の中は、絶望と怒りのるつぼと化していた。
(……よっしゃあああぁぁぁぁぁぁッッ!!!)
俺は、ただ一人。
陣幕の末席で、必死に顔の筋肉を引き締めながら、心の中で狂喜乱舞の大ガッツポーズをキメていた。
最前線から外された!? 最高じゃないか!
あの見上げるような巨大要塞に向かって、重い鉄の鎧を着て、上から鉄砲や矢がビュンビュン飛んでくる中を突撃しなくていいのだ。
柴田や佐久間のオッサンども、でかした! いいぞ、手柄なんて全部お前らにくれてやる! 存分に美味しいところを持っていって、俺の代わりに最前線で泥まみれになって命を散らしてきてくれ!
「おのれ……我らは後方に退いて、指をくわえて見ているしかねえってのか……」
小六がギリギリと歯軋りをする。
「いや、ただ見ているわけではありません」
小一郎が、静かに首を振った。
「我ら木下組に与えられた新たなお役目は……『後備え(うしろぞなえ)』。すなわち、山々を埋め尽くすほどの織田本軍を支える【小荷駄と陣夫の元締】です」
「こにだ……? 補給物資の運搬と、荷運びの民草の管理だと?」
「はい。南伊勢の港や尾張から運び込まれる食糧、武具、弾薬を、包囲陣の各部隊へ滞りなく分配し、兵たちの陣地を維持するための後方支援。面倒な物資の差配や、駆り出された民草(陣夫)たちの管理など誰もやりたがらないため、実務に長けた我ら木下組に、主力陣営の兵站管理が丸投げされたのです」
小一郎の言葉に、武闘派の連中はさらに顔をしかめた。
「荷物運びと農民のお守りかよ……ますますもって屈辱じゃねえか」
(いやいや、荷物運び最高だろ!!)
俺は内心で小六たちにツッコミを入れまくっていた。
後方支援と言えば、要するに安全な陣地の奥深くに引きこもって、紙の帳簿をめくりながら米俵や薪の数を数えるだけのお気楽な事務仕事だ。
矢は飛んでこない、槍で突かれることもない。まさに俺のような「生きて家に帰りたい系武将」にとっての、究極の理想郷ではないか!
「……茂助殿は、ご不満はありませんか?」
不意に、小一郎が俺の方を見て尋ねてきた。
俺は慌てて咳払いをして、神妙な顔を取り繕った。
「い、いえ。大将である藤吉郎殿が床に伏せっている以上、我らは陣代である小一郎様のご指示に従うのみです。……裏方仕事、誠心誠意、務めさせていただきます!」
完璧な模範解答だ。俺は内心のニヤケ顔を必死に隠して深く頭を下げた。
「おお……なんと殊勝な」
小一郎様は、俺の言葉に感極まったように目を潤ませた。
「血気盛んな皆が不満を漏らす中、茂助殿だけは、この『兵站』という役目の真の恐ろしさと重要性を、しっかりと理解してくださっているのですね。さすがは、木下組を陰から支える大黒柱です」
(え? 恐ろしさ?)
俺は、小一郎様の言葉に微かな違和感を覚えた。
小一郎様は、手元にあった分厚い和紙の束――墨書きの数字がびっしりと書き込まれた【帳簿】と【要求書】の山を、ドサリと床に積み上げた。
「では、早速ですが今後の割り振りを。……現在、大河内城を包囲している織田の軍勢は、見渡す限りの山々を埋め尽くすほどの規模です。我ら木下組はそのすべてを担うわけではありませんが、最も消費の激しい主力陣営への物資差配を命じられました」
小一郎様が、帳簿をめくりながら淡々と説明を始める。
「まず、兵糧(米)。大軍勢が一日二食を食うとして、空き地に山のように積まれた米俵が、たった一日で綺麗に消え去ります。数え切れないほどの馬の飼葉も必要です。そして何より、これだけの兵が山中で煮炊きをし、暖を取るための『薪』の消費量は、一日に山を一つ丸裸にするほどの莫大な量になります」
「やまのように積まれた米俵が……一日で消える……?」
俺の顔から、スッと血の気が引いていくのが分かった。
「阿坂城のような短期決戦ならともかく、大河内城は巨大な山城。包囲は果てのない長期戦になります。……我々は、各所からかき集められた無数の陣夫を監視・指揮し、彼らが逃げ出さないように飯を食わせながら、この険しい山奥の包囲陣まで、毎日、毎日、途切れることなく物資を運び上げなければならないのです」
小一郎様は、静かに、だが恐ろしいプレッシャーを放ちながら俺たちを見回した。
「しかも、前線で戦う柴田様や池田様たちは、物資の苦労などお構いなしです。『矢が足りぬ』『鉄砲の玉を持て』『前線に柵を作るための木材をすぐに運べ』と、際限なく伝令を送りつけてくるでしょう。それを一つでも滞らせれば、『後方の木下が無能なせいで戦に勝てぬ』と、敗戦の責任をすべて我々に押し付けられます」
小一郎様の説明を聞くにつれ、小六や長康たちも顔色を青くし始めていた。
(ちょっと待て……何万という人間の飯と、生活インフラと、武器弾薬の配送管理を、全部俺たちで回す……?)
終わりのない地獄のデスマーチ。
「最前線の戦闘は、命のやり取りこそあれ、数日、数刻で終わります。しかし兵站は……戦が終わるその日まで、一日たりとも止めることが許されない『終わりのない戦い』なのです」
小一郎様は、ニコリと笑って俺の肩に手を置いた。
「茂助殿には、一番の激務である『陣夫の差配と、前線への運搬監督』をお願いします。あなたのその巨体と、荒くれ者すら震え上がる威圧感があれば、民草が逃げ出すこともなく、必ずやり遂げられると信じておりますよ」
「あ、あ、あの……」
俺は、今にも泣き出しそうな顔で小一郎様を見た。
「やっぱり俺、最前線で柴田様たちと一緒に槍を振るってきます。小六殿、一緒に陣地構築に行きましょう」
「馬鹿野郎! お前が『誠心誠意務める』って豪語したんだろうが! 俺は陣夫の管理なんて小難しいことできねえ、護衛に行くぞ!」
小六たちは、逃げるようにして天幕から飛び出していってしまった。
俺は、床に山のように積まれた要求書の紙の束と、これから俺が地獄の思いをして運ぶことになるであろう果てしない米俵の山を幻視して、その場に崩れ落ちた。
安全な後方でのんきにサボれるだなんて、完全な勘違いだった。
大軍を山中で養う「兵站という業務は、前線の命のやり取りとは全く別のベクトルで人をすり潰す、逃げ場のない超弩級の『ブラック企業』だったのだ。
***
そして数日後。
俺の絶望に追い打ちをかけるように、南伊勢の空を分厚い灰色の雲が覆い尽くし、冷たい秋の長雨が降り始めた。
「進め! 立ち止まるな! 荷車が泥にハマったぞ、誰か後ろから押せ!」
大河内城へと続く険しい山道。
降り続く雨が、伊勢の赤土を粘り気の強い最悪の泥沼へと変えていた。俺は膝まで泥に浸かりながら、逃げ出そうとする陣夫たちを怒鳴りつけ、米俵を山積みにした荷車を、荷馬の『軽トラ』と一緒に必死に押し上げていた。
「若ぁ! 第一陣営の柴田様から使者が来ましたぜぇ! 『鉄砲の火縄が雨で湿った、今すぐ乾いた代わりを持ってこい! その首討ち取るぞ!』とのお叱りが!」
泥だらけになった三太夫が、顔を引き攣らせて叫んでくる。
「うるせえ! こんな土砂降りの中でどうやって乾いた火縄を運べってんだ! 柴田のオッサンに『文句があるなら自分で山を下りて取りに来い』って伝えろ! ……いや嘘! なんとか濡らさずに運ぶから待っててと伝えてくれ!」
俺は悲鳴を上げながら、腰の関節が砕けそうな痛みに耐えて荷車を押し続けた。
雨は容赦なく降り注ぎ、着込んだ簑も蓑笠もすっかり水を吸って、鉛のように重くなっている。
最前線で矢玉を躱すのも地獄なら、泥まみれになりながら大軍勢の理不尽な要求に応え続けるこの戦国物流センターも、間違いなく地獄だった。
大河内城包囲戦。
それは、華々しい戦国絵巻とは無縁の、終わりの見えない泥沼と雨にまみれた、恐るべき兵站の消耗戦の始まりだった。




