第90話 無血開城と、情けの将
阿坂城から流れ落ちる『白米の滝』の虚勢を完全に見破った木下組の本陣では、降伏勧告の使者を誰にするかで一悶着起きていた。
「小一郎様! 陣代であるあなた自らが使者として敵城へ赴くなど、正気の沙汰ではありませぬぞ!」
蜂須賀小六が、顔を真っ赤にして猛反対していた。
敵の虚勢を看破し、降伏を勧告するという方針には皆納得した。だが、小一郎は「私自身が出向く」と言い出したのだ。
「敵は渇きと絶望の中で、玉砕覚悟の決死の心理状態にあります。そのような誇り高き猛将のもとへ名もなき使者を送れば、一太刀で斬り捨てられ、そのまま決死の突撃を誘発しかねません」
小一郎は、静かに、だが決して譲らない声で答えた。
「無用な血を流さぬためには、木下組の全権を預かる私自身が赴き、城兵の命を保証するという誠意を示すしかないのです」
「しかし、万が一敵が狂乱して刃を向けてきたらどうなさるおつもりで!」
「……その時は、運がなかったと諦めます。ですが、丸腰で向かえば、必ず話は通じましょう」
小一郎はそう言って立ち上がると、陣幕の隅で「さすが小一郎様、立派になったなぁ」と呑気にお茶をすすっていた俺の方を、じっと見つめた。
「茂助殿」
「はい?」
「どうか、私の供として、一緒に阿坂城へ来てくれませんか」
「……はい?」
俺は持っていた湯呑みを落としそうになった。
「いやいやいや! 俺ですか!? 小六殿や前野殿を連れて行った方が絶対にいいですよ! 俺なんてただ図体がデカいだけで、いざという時、小一郎様をお守りすることなんてできませんって!」
俺が慌てて後退りすると、小一郎は優しく微笑んで首を振った。
「血の気の多い腕利きを連れて行けば、敵の殺気に当てられて、互いに刀を抜いてしまいかねません。……ですが、茂助殿。世間において、あなたの名は桶狭間や美濃、そして京の本圀寺で大立ち回りを演じた『天下の剛の者』として俄に名が轟いています」
「えっ、剛の者……?」
「ええ。その圧倒的な巨躯と数々の武勇伝。あなたが無言で背後に控えていれば、その威圧感だけで敵は容易に手を出せなくなります」
小一郎は、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「ですが、私は知っています。あなたが誰よりも『命を惜しみ、生きて帰りたい』と切実に願っていることを。……敵の殺気を前にしても、決して自らの見栄で刀を抜かないあなただからこそ、私は背中を預けたいのです。この無血の交渉には、茂助殿という平和への意思が不可欠なのです」
そんな真顔で、俺の「小心者であること」を最大限に評価されてしまっては、断れるはずがない。
結局、俺は小一郎の供として、真水のたっぷりと入った重い竹筒を何本も首から下げさせられ、二人きりで阿坂城の凶悪な急斜面を登るハメになってしまった。
***
「……なんで俺が、こんな真似を……」
俺は、泥だらけの山道を登りながら、心の中で泣き言を漏らしていた。
足元や周囲の木々には、数日前に敵将・大宮景連が放った恐るべき威力の矢が、無数に突き刺さったままになっている。
上から射掛けられれば一溜まりもない。俺は生きた心地がしないまま、ただ前を歩く小一郎の背中にピタリと張り付いて歩いた。
やがて、山の頂にある阿坂城の城門へと辿り着いた。
「織田家先鋒、木下藤吉郎が陣代・木下小一郎! 降伏の勧告に参った! 大宮景連殿に、お目通りを願いたい!」
小一郎が声を張り上げる。
ギギギ……と重苦しい音を立てて、城の裏門がわずかに開いた。
中から現れたのは、身の丈ほどもある長弓を握りしめた、初老の武将だった。彼こそが、俺たちを恐怖のどん底に陥れた百発百中の狙撃手、大宮景連だ。その後ろには、槍や刀を構えた数十人の城兵たちが、ギラギラとした目を血走らせて控えている。
「……何の用だ。我らはまだ、戦えるぞ」
景連の声は低く、凄まじい殺気を孕んでいた。
だが、その姿は決して余裕のあるものではなかった。水源を断たれてから七日。極度の緊張状態の中で水分を絶たれたのだ。唇はひび割れ、眼窩は黒く沈み、立派な鎧の重さに耐えかねるように、その肩は微かに上下に揺れていた。
城兵たちに至っては、もはや立っているのがやっとという者も多い。彼らはまさに、玉砕という最後の手段に打って出ようとする、限界ギリギリの獣の群れだった。
だが、景連の血走った視線は、小一郎ではなく、その後ろで強張った顔をしている俺へと向けられていた。
「……ほう。貴様が、噂に聞く織田の巨漢……岩倉の堀尾茂助か。なるほど、凄まじい威圧感よ。我らの殺気を前にしても、瞬き一つせず泰然と立ち尽くしておるわ」
(いや、違うんです! 怖すぎて足がすくんで動けないだけなんです!)
俺は心の中で悲鳴を上げたが、顔面は恐怖で完全に強張っており、結果的にそれが『微動だにしない歴戦の猛将』としての風格を漂わせてしまっていた。城兵たちが、俺の巨体を見てゴクリと息を呑むのが分かった。
俺の意図せぬハッタリにより、敵が迂闊に手出しできない空気が作られた。小一郎は、その隙を見逃さず、静かに頭を下げた。
「大宮殿。白米による馬浴びの虚勢、見事な知恵でございました。遠目には真水と見紛うばかり。……ですが、あの城壁に群がる鳥たちの姿を見て、我らは真実を悟りました」
その言葉に、景連の顔がわずかに歪んだ。己の最後の盤外戦術が、完全に見透かされていたと突きつけられたのだ。
「……ならば、笑いに来たか。猿の弟よ。我らの首を獲るために、わざわざ剛の者を連れて出向いてきたというのか」
景連がギリッと弓を握り直す。
小一郎は俺の方を振り返り、「茂助殿。あれを」と頷いた。
「え? あ、はい」
俺は強張った体のまま、慌てて首から下げていた竹筒を外し、景連の足元へとそっと転がした。
「……何だ、これは」
「真水です。我々の陣営で汲み上げた、清冽な湧き水でございます」
小一郎様は、真っ直ぐに景連の目を見つめた。
「大宮殿。まずは喉を潤してくだされ。我々にあなた方の命を奪う意志がないことだけは、お分かりいただきたい」
景連は、転がってきた竹筒と、小一郎様の顔を交互に見た。
罠かもしれない。だが、限界まで干からびた喉の渇きと、竹筒の中から聞こえる水の微かな音が、彼の武士としての意地を凌駕した。
景連は竹筒を拾い上げると、栓を抜き、一気に口へと流し込んだ。
「……ッ!!」
ゴクッ、ゴクッ、という音が静寂の城門に響く。
真水が乾ききった喉を通り、胃の腑へと落ちていく。その瞬間、景連の張り詰めていた殺気が、まるで嘘のように霧散していくのが分かった。
背後の城兵たちも、景連が飲む水の音を聞き、たまらず膝から崩れ落ちていく。
「ぷはっ……」
景連は竹筒から口を離すと、手放すように長弓を地面へと落とした。
「……知恵比べに敗れ、情けに敗れた。……我らの、完敗である。北畠が家臣、大宮景連。……城を、開け渡す」
景連はその場に深く平伏し、そして、ひび割れた唇を震わせて懇願した。
「私の首は差し出そう。煮るなり焼くなり好きにするがよい。……だが、城に残る兵たちの命ばかりは、どうか助けてやってくだされ。彼らはただ、私の意地に付き合わされただけなのだ」
歴戦の猛将が、泥に額を擦り付けて自らの命を差し出した。
だが、小一郎は静かに首を振った。
「顔を上げてください、大宮殿。あなたの首などいりません。……あなたも、死ぬ必要はないのです」
「な、何を……。我らは織田に弓を引き、多くの兵を傷つけたのだぞ。大将である私が腹を切らねば、示しがつくまい!」
「ここであなたが死んでしまえば、あの中で極限まで衰弱している兵たちは、一体誰が束ねて故郷へ帰すというのですか」
小一郎の問いかけに、景連がハッと息を呑む。
「生き延びて、彼らを無事に家族の元へ送り届ける。それが、最後まで戦い抜いた大将としての、あなたの最後の務めではありませんか」
小一郎様は、泥にまみれた景連の肩に、そっと手を置いた。
「我らは、この地を平定しに来たのであって、屍の山を築きに来たのではありません。皆の命は私が保証します。傷を手当てしたのちに、全員で、故郷へお帰りいただきたい」
「……おおっ……おおおおっ……」
その言葉を聞いた瞬間。歴戦の猛将であったはずの景連の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、泥だらけの地面を濡らした。
武功でも、力でもない。ただ純粋な「命を救いたい」という情けの采配。
こうして、南伊勢の入り口にそびえる難攻不落の『阿坂城』は、新たな血も流すことなく、完全な無血開城を果たしたのである。
***
「終わった……本当に終わったぞ……」
俺は、無事に下山し、自陣に戻ってからようやく腰を抜かした。
あんなヒヤヒヤする交渉、二度と御免だ。だが、小一郎様のあの誠実な態度と、たった一杯の水が、数百人の命を救ったことは紛れもない事実だった。
「茂助殿」
降伏の処理を終えた小一郎様が、俺の元へやってきた。その顔は、ようやく大仕事の重圧から解放され、憑き物が落ちたように穏やかだった。
「あなたの付き添いがあったおかげで、私は最後まで逃げずに交渉を全うできました。心から感謝いたします」
「よしてくださいよ。俺は後ろでガクガク震えてただけですから」
俺が苦笑すると、小一郎様は「ふふっ」と笑い、陣幕の奥――負傷兵を収容している天幕の方へと視線を向けた。
「兄の意識が、戻ったようです。……一緒に、来てくれませんか」
俺たちは、薬草の匂いが染み付いた天幕へと足を踏み入れた。
むしろの上に横たわる木下藤吉郎の顔色は依然として青白かったが、呼吸は数日前に比べて幾分か落ち着いているように見えた。
「……兄上」
小一郎様が枕元に膝をつき、静かに声をかけると、藤吉郎のまぶたがゆっくりと開いた。
焦点の合わない目でしばらく虚空を見つめていたが、やがて視線が弟の顔を捉えると、ひび割れた唇が微かに動いた。
「……小一郎か。……城は、どうなった」
意識を取り戻して最初に出た言葉が、己の傷の心配でも痛みへの不満でもなく、戦の顛末だった。どこまでも戦国武将としての業が深い男だ。
おそらく彼は、古参武将たちに尻を叩かれ、木下組が大量の死者を出すような無謀な特攻 、最悪の事態を覚悟しているはずだ。
「……阿坂城は、落ちました。我ら木下組の勝利です」
小一郎様は、兄の手を両手で包み込むように握りしめ、はっきりと告げた。
「被害は……?」
「あれから味方の犠牲を最小限に抑え、敵の水の手を断ち、見事降伏させました」
「……こうふく?」
藤吉郎の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
そして、傍らに控えていた俺の方へと視線を向ける。俺は黙って深く頷き返した。すべて小一郎様が一人でやり遂げたのだと。
「……そうか」
藤吉郎は、天井の幕を見上げたまま、呆然と呟いた。
「俺の代わりに……誰一人無駄死にさせず……あの難攻不落の城を、お前が落としたのか……」
「はい。ですから兄上、どうかご安心を。木下組の面子は、私が必ず守り抜きますゆえ」
小一郎が、涙声になりながら必死に兄を安心させようとする。
すると。
藤吉郎の目から、一筋の涙がツツーッとこぼれ落ちた。
「……馬鹿野郎」
藤吉郎は、痛む脇腹を押さえながら、脂汗の浮かぶ顔をくしゃくしゃに歪めた。
「面子だの手柄だの……そんなもん、どうでもいいんだよ」
「えっ……」
「お前が……小一郎が、無事でよかった……。俺の無茶のせいで、お前まで死なせちまったらと……ずっと、夢の中でうなされてたんだ……」
それは、天下を狙う野心家の木下藤吉郎ではなく、ただの農民の倅としての、血の繋がった弟を愛する純粋な兄の素顔だった。
「兄上……っ!」
小一郎は、たまらず藤吉郎の胸に縋り付き、声を上げて泣き崩れた。
藤吉郎もまた、包帯に巻かれた力のない腕で、不器用に弟の背中を撫でながら、静かに涙を流している。
「……よくやった。……立派な、大将だったぞ。俺の自慢の、弟だ……」
泥と薬の匂いにまみれた陣幕の中で、二人の兄弟が流す安堵の涙。
俺は、その神聖な光景を邪魔しないように、そっと天幕の外へと抜け出した。
秋の高く澄んだ空を見上げる。
これであの化け物スナイパーに怯えることもないし、理不尽な突撃をさせられることもない。俺の阿坂城攻めは、無事に終わったのだ。
(……早く戦が終わって帰りたいな。桔梗にうどんでも打ってもらおう)
そんなのんきなことを考えながら、俺は大きく背伸びをした。
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