第89話 白米城伝説
木下組が過酷な土木作業の末に阿坂城の『水の手』を完全に断ち切ってから、幾日が流れていた。
秋とはいえ、日中の南伊勢には肌を刺すような強い日差しが降り注いでいる。
人間という生き物は、飯を食わなくても数日は生きられるが、水がなければ三日と保たずに命の危機に陥る。あの山頂にへばりつくような山城の中で、数百人の城兵たちが今頃どれほどの渇きに苦しんでいるか、想像するだけで喉がカラカラになりそうだった。
「ふぁあ……暇だな」
俺は分厚い竹束の後ろの安全圏に腰を下ろし、大きな欠伸をした。
水の手を断った以上、もはやこちらから矢の雨の中に打って出る必要はどこにもない。敵が干上がって白旗を上げるのを、ただ遠巻きに眺めていればいいだけだ。
後方で渋滞している柴田勝家や佐久間信盛といった古参武将たちも、「木下の猿どもが、味方の血を流さずに城の命綱を断った」という事実を前に、ぐうの音も出ずに沈黙している。
俺たち木下組の陣営には、ようやく勝利を確信した緩やかな空気が漂い始めていた。
……だが。
戦国を生き抜いてきた名門・北畠家の猛将である大宮景連は、ただ黙って干からびるような男ではなかったのだ。
「おい、あれを見ろ! 城の連中、何をしてやがるんだ!?」
突然、最前線で警戒に当たっていた川並衆の兵が、裏返ったような声を上げた。
「どうした、敵が打って出たか!」
本陣から小一郎や半兵衛、蜂須賀小六たちが慌てて駆け寄ってくる。俺も何事かと立ち上がり、山の頂にある阿坂城を見上げた。
城で一番高く、こちらからよく見える物見の櫓のすぐ横。
そこに、数人の城兵が立派な馬を引き出しているのが見えた。そして、彼らは大きな桶のようなものを掲げると、馬の背中に向かって、ザバァッ! と中身を勢いよくぶちまけたのだ。
「なっ……! み、水だ! 城の連中、馬に水を浴びさせてやがるぞ!」
小六が、目玉が飛び出んばかりに驚愕して叫んだ。
強い秋の日差しを反射して、馬の背から流れ落ちる
『白い滝』がキラキラと光り輝いている。はるか下から見上げる俺たちの目にも、それが紛れもない豪快な水しぶきに見えた。
「馬鹿な……! 我らは三日前に、確かに水の手を完全に断ったはずだぞ!」
前野長康が、信じられないものを見るように唸る。
「あれだけ大量の水を馬に浴びせる余裕があるということは……まさか、我々の気づいていない『隠し井戸』や『別の水源』が、あの城にはまだあるというのか!?」
「くそっ、やられた! 完全に骨折り損じゃねえか!」
木下組の陣営に、一瞬にして動揺と絶望が波及した。
兵たちの顔から安堵が消え、再びあの死の特攻をさせられるかもしれないという恐怖が蘇る。
さらに悪いことに、この光景は後方に控える織田の本隊からも丸見えだった。
『陣代殿! 柴田様からの伝令です!』
背後から駆け上がってきた武者が、厳しい顔で怒鳴った。
『「敵にはまだ水が有り余っているではないか。貴様らの泥遊びは無駄であった。即刻、夜明けを待たずに城へ総攻撃をかけよ」とのお言葉です!』
「…………ッ」
小一郎様の顔が、サッと青ざめた。
もし敵に本当に水があるのなら、このまま包囲を続けても意味がない。結局、味方の血を大量に流してあの急斜面を登り、強行突破するしかないのだ。せっかく小一郎様が絞り出した誰も死なせない策が、根本から覆されようとしていた。
「小一郎様、どうしやす! このままじゃ、本当に特攻するしかねえぞ!」
小六が苛立ちを隠せない声で迫る。
再び、将としての決断を迫られる小一郎。彼は額に冷や汗を浮かべ、絵図面と阿坂城を交互に見比べて、必死に思考を巡らせていた。
(……待てよ?)
俺は、騒然とする陣営の隅で、ふと軍師・竹中半兵衛の姿に目を留めた。
陣中がこれほどパニックに陥り、古参武将からの苛烈な圧力がかかっているというのに、半兵衛は一人だけ、涼しい顔で手元の軍扇をパタパタと弄んでいるのだ。
焦る素振りも、進言する素振りも全くない。ただ、冷徹な観察者のような目で、慌てふためく小一郎や俺たちを静かに見つめている。
(……なんでこの人、一人だけ余裕なんだ? もしかして、また何か裏があるのか?)
俺は、半兵衛の視線の先――阿坂城の城壁へと目を凝らした。
俺は懐から、陣中食の硬い炒り大豆を取り出し、ポリポリと齧りながら空を見上げた。
「……なぁ、三太夫」
隣で苦虫を噛み潰したような顔になっている部下の三太夫の肩を突く。
「若? どうしたぁ!?。突撃の準備ならいつでもいいぜぇ」
「いや、そうじゃなくてさ。……あそこの空、なんか変じゃねえか?」
俺が指差したのは、城の上空だった。
カア、カア、という無数の鳴き声。それに混じって、スズメや名も知らぬ小鳥たちが、異常なまでの群れを成して空を旋回している。
そして、その何百羽という鳥の群れが、敵兵が馬に水をぶちまけた直後、堰を切ったようにその足元の地面へと一斉に群がっていったのだ。
「鳥が……どうなさいやした」
三太夫が怪訝な顔をする。俺たちの会話に、決断を迫られていた小一郎様もふと視線を向けた。
「いやさ。普通、あんなに大量の水を地面にぶちまけたら、足元は水溜まりか、ただのドロドロの泥沼になるだろ?」
俺は、自分が子供の頃に庭で水遊びをした時の記憶を思い返しながら、素朴な疑問を口にした。
「あの鳥たち、地面に降りてめっちゃ首振って何かを啄んでるんだよ。水なんか飲んでる動きじゃないし、泥なんか食うわけがない。……鳥が群がって夢中で食うようなもんが、あの上から降ってきたってことじゃねえか?」
「……え?」
その瞬間。
小一郎の目が、カッ! と大きく見開かれた。
後方の兵糧管理を長年一人で担い、米の一粒、豆の一粒の価値や性質を誰よりも知り尽くしている、彼の実務家としての脳髄に、雷のような閃きが走ったのだ。
「鳥が、啄む……。高所から降り注ぎ、強い日差しを反射して白く光るもの……」
小一郎は、震える手で阿坂城を指差した。
「……あれは、水ではない!」
小一郎の確信に満ちた大音声が、陣中に響き渡った。
「えっ!? 水じゃないなら、何だって言うんですか!」
小六が食ってかかる。
「米だ!!」
「こ……こめ!?」
小一郎は、絵図面を叩きつけて立ち上がった。
「よく見ろ! 水ならばもっと細かいしぶきが風に舞うはずだが、あれは粒が揃ったまま重く落ちている! 遠目には水が流れ落ちるように見えるが、あれは磨き上げられた『白米』を馬の背に流し掛けているのだ!」
「な、米を馬に!? なんでそんなもったいねえ真似を!」
「決まっている! 我らの心を折り、強行突破を誘うための……決死の虚勢だ!!」
小一郎の力強い断言に、周囲の武将たちもハッと息を呑み、鳥の群がる城壁を凝視した。
言われてみれば、確かに動きが不自然だ。そして何より、あの異常な鳥の群れがすべてを物語っていた。陣中の動揺が、潮が引くようにスッと静まっていく。
パチン、と。
静かになった本陣に、軍扇を閉じる乾いた音が響いた。
「お見事です、陣代。……そして、よく観察しておられましたね、茂助殿」
半兵衛が、初めて口を開き、満足そうに微かに微笑んだ。
「半兵衛殿……。もしやあなた、最初からあの水が白米だと……気づいていたのですか?」
小一郎が驚いて尋ねると、半兵衛は悪びれる様子もなくコクリと頷いた。
「ええ。我ら川並衆の土木作業は完璧でした。水の手を完全に断ったという確信がありましたから、あれが敵の苦し紛れの盤外戦術であることは一目瞭然でした」
「ならば、なぜすぐに言ってくれなかったのですか!」
小六が吠えるが、半兵衛の視線は冷徹に小一郎を射抜いていた。
「この程度の敵の虚勢に惑わされ、部下の動揺を鎮められないようでは、この先、木下組の大将を務めることはできませぬゆえ」
半兵衛は、静かな声で言った。
「他人の口から正解を与えられて安堵する将に、兵はついていきません。……小一郎様が、ご自身の眼と頭でこの虚勢を看破し、将としての威厳を示すのを……少々、お待ちしていたのです」
(この天才、性格悪すぎだろ……。俺たちがどれだけヒヤヒヤしたと思ってんだよ)
俺は心の中で毒づきながら、半兵衛殿の底知れぬ恐ろしさに改めて背筋を凍らせた。この男は、敵の戦術だけでなく、味方の育成すらも盤上のゲームのように計算し尽くしているのだ。
だが、試された小一郎は怒るどころか、深く納得したように一つ頷いた。
「……感謝いたします、半兵衛殿。あなたの無言の教えのおかげで、私は己の眼で真実を見極めることができた」
小一郎様は、再び阿坂城を真っ直ぐに見据えた。
もはやその瞳に、迷いや焦りはない。
「食糧という、籠城戦における一番の命綱を捨ててまで、あのような見え透いた虚勢を張らねばならないということは……」
小一郎様の声が、圧倒的な勝利の確信を帯びた。
「敵の城には、もう本当に一滴の水も残っていないのだ。限界の限界。彼らは今、完全に死に体だ!」
「おおおおおっ!!」
木下組の陣営から、地鳴りのような歓声が上がった。
絶望は完全に吹き飛び、兵たちの顔に確かな勝利の喜びが満ち溢れる。
「……伝令! 後方の柴田様、佐久間様に伝えよ!」
小一郎様が、待機していた使者に向かって、毅然と言い放った。
「『あれは水に非ず、白米による虚勢なり。敵は渇きにより完全に限界を迎えている。我ら木下組、これより強行突破ではなく、降伏の使者を送り、無血にて城を落とす』……とな!」
味方の血を流さず、知恵と観察眼で敵の心理戦を完全に打ち破る。
小一郎様が放ったその威風堂々たる将の言葉に、使者は完全に圧倒され、深々と頭を下げて本陣へと駆け出していった。
秋の空に、無数の小鳥たちがピーピーと暢気な鳴き声を上げている。
あの鳥たちが白米を食い尽くす頃には、この南伊勢の入り口での過酷な戦いは、真の終わりを迎えるはずだった。




