第88話 小一郎と、水の手を断つ陣形
南伊勢・阿坂城の麓に張られた木下組の陣営に、白み始めた夜明けの冷たい風が吹き込んでいた。
浅い仮眠を取っていた俺は、陣幕の外の異様な気配で目を覚ました。
昨夜までの、あの死を待つような重く絶望的な空気ではない。兵たちが小声で、だが明らかに活気を帯びて動き回る気配がするのだ。
「……何だ?」
俺が這い出すようにして陣幕の外に出ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「第三隊は竹束と大盾の予備を前線へ! 第一隊と第二隊は半刻ごとに交代し、決して無理はさせるな! 川並衆の皆には、空の土嚢袋と、土を掘るための鍬をありったけ回してくれ!」
本陣の中心で、泥だらけの袴のまま、的確かつ矢継ぎ早に指示を飛ばしている男がいた。
陣代・木下小一郎だった。
昨夜、俺の情けない本音を聞いてボロボロと涙をこぼしていた亡霊のような面影は、微塵もない。その目には、預かった命を無駄に散らさないという、静かで強靭な光が宿っていた。
「茂助殿、起きましたか」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、軍師の竹中半兵衛が、軍扇を手に静かに微笑んで立っていた。
「半兵衛様……。小一郎様に、いったい何があったんですか。昨夜の軍議では、あんなに追い詰められていたのに」
「ふふ、彼を将として目覚めさせたのは、茂助殿、あなたですよ。あなたが彼の天幕を訪れた後、小一郎様は顔つきを変えて私の元へ来られました。『味方を無駄死にさせず、城を落とす策を出せ』と」
半兵衛は、山の頂にそびえる阿坂城を見上げた。
「私は、彼に大将としての覚悟が定まるのを待っていたのです。優しさに逃げて決断を避けるのではなく、自らの下知で血が流れるという責任を背負う覚悟を。……それが決まったのなら、私の仕事は彼に最良の策を授けることだけです」
「最良の策……」
「ええ。味方の犠牲を極限まで抑えつつ、確実に敵の喉首を絞める策です」
やがて、小一郎様の前に、蜂須賀小六や前野長康たち川並衆の頭目、そして俺の弟分の中村一氏や山内一豊たちが集められた。
皆、小一郎の纏う空気の違いに気づき、静かに息を呑んでいる。
「皆の者、夜明けだ」
小一郎は、はっきりと通る声で宣言した。
「後方の柴田様、佐久間様からは『夜明けと共に強行突破せよ』との下知が来ている。だが、我ら木下組は、あの急斜面への無謀な突撃は行わない」
「なっ……! 小一郎様、それでは我々木下組の立場が!」
小六が顔色を変えて身を乗り出す。
「突撃はしない。……だが、城は必ず落とす」
小一郎は、床に広げた阿坂城の絵図面を力強く指差した。
「あの城は山頂の岩盤にへばりつくように建っている。そのような立地で、どうやって数百の城兵の飲み水を確保していると思う?」
「……井戸を掘るには、岩が硬すぎますな。雨水を溜めるだけでは足りぬでしょうから、少し下った山腹の湧き水か、沢から水を汲み上げているはず」
前野長康が腕を組んで答える。
「その通りだ。半兵衛殿の調べにより、城の北側の斜面、木々に隠れた深い谷筋に、城の命綱である『水の手』の湧き水があることが分かった。我々がやるべきは、この湧き水から城へ続く流れを、大量の土嚢と土砂で完全に埋め立てて堰き止めることだ」
小一郎の言葉に、武将たちの目が大きく見開かれた。
「水の手を……! なるほど、飲み水が絶たれれば、城兵は干上がる!」
「だが小一郎様、水の手は敵にとっても急所。近づけば上から射すくめられますぜ!」
小六の懸念に対し、小一郎は静かに頷いた。
「無論だ。犠牲が全く出ないとは言わない。だが、丸腰で突撃するのとは訳が違う。竹束と大盾を並べて防壁を作り、その後ろで土砂を袋に詰め、少しずつ防壁を押し上げながら水の手を目指すのだ」
小一郎は、泥に汚れた手で己の膝を強く叩いた。
「小六殿たち川並衆の土木技術と、私が組んだ人員配置があれば、必ず成し遂げられる。……皆の命は、私が預かる。誰一人、無駄死にはさせない!」
その言葉には、理屈を超えた将としての絶対的な責任と覚悟がこもっていた。
強硬派だった小六や長康たちも、小一郎のその凄みに呑まれ、深く頭を下げた。
「……承知いたしました。我ら川並衆、その水の手、必ずや断ってみせます!」
***
そして、阿坂城の北側斜面にて、木下組の泥臭い土木戦が始まった。
「よーし! 絶対に顔を出すなよ! 竹束の後ろに隠れて、ひたすら土嚢に土を詰めろ!」
俺は、泥まみれになりながら鍬を振り下ろしていた。
俺の率いる三百の兵も、川並衆の連中も、誰一人として刀や槍を振るっていない。全員が鍬で山肌の土を掘り、麻袋に詰めて重い土嚢を作っているのだ。
ヒュンッ! カンッ!
頭上から大宮景連の恐るべき矢が降ってくる。時折、竹束の隙間を抜けた矢が味方の足や肩を掠め、短い悲鳴が上がる。
だが、被害は正面突破の比ではない。小一郎の配置は完璧だった。地形の死角を計算し尽くし、どうしても射線が通る場所には何重にも分厚い竹束が置かれている。
それだけではない。
「第一隊、退がれ! 第二隊と交代だ! 負傷者は速やかに天幕へ運べ!」
兵の体力が切れて盾を支える腕が鈍る前に、絶妙な間隔で後方から交代の部隊と、新しい竹束が送られてくる。休ませている間に、握り飯と水が配給される。
これは、ただの力仕事ではない。
兵站の確保、物資の絶え間ない運搬、人員の細やかなローテーション。小一郎様がこれまで木下組の裏方として一人で担ってきた『緻密な実務能力』が、そのまま戦術として盤上に展開されているのだ。
藤吉郎のような、人を狂わせるカリスマや派手な特攻はない。だが、兵たちは自分たちが「使い捨ての駒」ではないことを実感し、恐怖に呑まれることなく、ただ小一郎の歯車の一部となって完璧な効率で土嚢を積み上げていく。
「……すげえ。やっぱりこの人は、裏方やらせとくにはもったいねえ化け物だぞ」
俺は額の汗を泥だらけの袖で拭いながら、本陣の方向を見下ろして呆れ返った。
これなら、不毛な特攻をせずに手柄を立てられる。俺は喜んで鍬を振るい、伊勢の赤土を掘り返し続けた。
当然、後方で渋滞している柴田や佐久間といった古参武将たちは、一向に突撃を行わず、山腹でチマチマと穴掘りを始めた木下組に対して激怒し、伝令を飛ばしてきた。
『貴様ら、狂ったか! 泥遊びをしている暇があるなら、突撃して柵を破れ!』
だが、小一郎は使者に対して、平然と言い放ったという。
『我らは、味方を無駄死にさせずに城を落とすための仕事をしております。柴田様たちがどうしても武功が欲しいというのなら、ご自分たちで正面から突撃なさればよろしい』
圧倒的な正論と、結果を出すという強烈な自負。
あの優しくてオドオドしていた小一郎様が、織田家の家老に向かってそんな啖呵を切ったのだ。使者はぐうの音も出ず、顔を真っ赤にして帰っていったらしい。
「若! 湧き水に到達しましたぜぇ!」
昼過ぎ。泥だらけになった三太夫が、竹束の最前線から叫んだ。
城の防御柵のすぐ下、岩の裂け目からこんこんと湧き出す清冽な水。そこから細い沢を通って、城内に掘られた貯水池へと流れ込んでいるのだ。
「よし、よくやった! 土嚢を放り込め! 徹底的に埋め立てて、流れを変えちまえ!」
俺の合図と共に、川並衆の男たちが次々と重い土嚢を沢に投げ入れ、湧き水の出口を泥と石で分厚く塞いでいく。
バシャアッ! と行き場を失った水が、城とは反対の斜面へと溢れ出し、泥を洗い流しながら下へと流れ落ちていった。
「水の手を、断ったぞォォッ!!」
木下組の兵たちが、一斉に歓声を上げた。
それは、敵の首を挙げたことへの歓喜ではない。自分たちが無駄な血を流すことなく、過酷な土木作業という大仕事をやり遂げたという、純粋な達成感だった。
山の頂にある阿坂城の城壁からは、先ほどまでの激しい矢の雨はパッタリと止んでいた。
敵将の大宮景連も、己の弓の腕がいくら神業であろうと、城の命綱である水源を物理的に埋め立てられてしまっては、どうすることもできないと悟ったのだろう。
「……終わったな」
俺は、土嚢の脇から溢れる冷たい水で泥だらけの顔を洗い、深く、深く安堵の息を吐き出した。
味方の犠牲を最小限に抑え、古参武将たちを黙らせ、敵の命運を完全に絶ち切る。
これが、木下小一郎。
優しすぎた男が将として覚醒し、己の実務能力を戦に昇華させた、完璧な包囲網の完成だった。
だが、戦国時代を生き抜いてきた名門・北畠家の武将も、ただ干上がって死を待つほど柔な相手ではなかった。
水の手を断たれた阿坂城の城兵たちが、窮地の中で見せた『最後の悪あがき』が、翌日、俺たちを思わぬ形で揺さぶることになる。
本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
皆様の応援が、何よりの執筆の糧です。よろしければブックマークや評価で、応援していただけると嬉しいです。




