第87話 死にたくないからと、お前に頼む
深夜の木下組の陣営には、秋の冷たい夜風と共に、重く、ねっとりとした死の気配が立ち込めていた。
自分の陣幕に戻った俺は、敷かれたむしろの上に体育座りになり、寒くもないのにガタガタと震えていた。
先ほどの軍議は、最悪の形で宙に浮いたまま散会となった。
このまま夜が明ければ、俺たち木下組の先鋒部隊は、後方に控える柴田勝家や佐久間信盛といった古参武将たちの面子と苛立ちを鎮めるためだけに、あの阿坂城の凶悪な急斜面へと特攻をかけさせられることになる。
上の櫓には、百発百中の神弓を放つスナイパー、大宮景連が待ち構えているというのに。
「……ふざけんなよ。冗談じゃねえぞ」
俺は膝に顔を埋め、ギリッと奥歯を噛み締めた。
軍議の場での、蜂須賀小六や前野長康たちの血走った目を思い出す。
あいつらは、かつて美濃の墨俣築城で共に地獄を見た仲だ。頼もしい川並衆の荒くれ者たちである。
藤吉郎様の圧倒的な熱量に惚れ込み、泥水すすって正規の武士へと這い上がってきた彼らが、「大将の面子を守るために死ぬ」と息巻く気持ちは分からなくもない。
だが、反対意見を出した中村一氏こと弥七や山内一豊たちの言う通り、あんな狭い山道で強攻をかければ、ただ味方の死体を積み上げるだけの無駄死にになる。
そして何より、陣代として木下組の全権を背負わされた小一郎様は、重圧に押し潰されて完全に思考を停止してしまっていた。頼みの綱である天才軍師・竹中半兵衛も、小一郎様の決断を促すためか、沈黙を貫いたままだ。
「どうするんだ、これ……。このまま朝になれば、俺はあいつらと一緒に矢の雨の中を走らなきゃならないんだぞ」
俺は頭を抱えて呻いた。
陣幕の外からは、刃こぼれした槍を砥石で研ぐ不気味な音や、故郷の家族に宛てた遺髪を切り落とす足軽たちのすすり泣きが聞こえてくる。俺の直属の部下である三太夫や但馬でさえ、明日の死地に備えて無言で武具の手入れをしているはずだ。
嫌だ。絶対に嫌だ。
痛いのも、苦しいのも、パワハラ野郎たちの機嫌取りのために捨て駒として消費されるのも、俺は絶対に御免だった。
俺はたまらず立ち上がり、陣幕を飛び出した。
夜の闇の中、泥だらけの陣を足早に歩く。向かった先は、本陣の奥深く、薄明かりの漏れる天幕だった。
見張りの兵も疲れ果てて居眠りしているのを横目に、俺はそっと幕をめくって中に入った。
「小一郎様。起きておられますか、茂助です」
声をかけると、天幕の奥で、たった一人で床に広げられた阿坂城の絵図面を見つめていた男が、ビクッと肩を震わせた。
その顔は、昼間見た時よりもさらに土気色になり、目の下には濃い隈ができている。まるで、自分の首をくくるための縄の結び方を考えている亡霊のように、虚ろな目をしていた。
「……茂助殿か。こんな夜更けに……」
小一郎様は、力なく自嘲するように笑い、床の絵図面から目を逸らした。
「私は、大将の器ではないんです」
「小一郎様……」
「兄ならば、こんな絶望的な状況でも、あの不敵な笑い声一つで兵を狂わせ、迷いなく死地へ向かわせることができたでしょう。小六殿や前野殿の言う通り、武士としての意地を見せることができたはずです。ですが……」
小一郎様は、泥に汚れた自分の両手をじっと見つめた。
「私には……無理なのです。目を閉じれば、飯を食う兵たちの顔が浮かんでしまう。妻や子を残してきた者たちの顔が浮かんでしまう。どうしても、私の口から『面子のために死んでこい』という下知が出せない……」
その声は、震えていた。
武将として、他人の命を消費することへの根源的な恐怖。
命が羽毛よりも軽いこの戦国という狂った時代において、彼のその優しさは致命的な欠陥だ。現にその優しさのせいで決断ができず、軍議を凍結させ、明日の夜明けに部隊全体を最悪の破滅へと導こうとしている。
だが。
そのひどく不器用で、人間臭い小一郎様の苦悩を見て、俺の胸の奥で何かが弾けた。
俺は、無言のまま小一郎様の前に歩み寄り、ドカッと胡坐をかいて座り込んだ。
武将としての礼儀も、君臣の建前も、すべて投げ捨てた。
「茂助殿……?」
驚いて目を丸くする小一郎様に向かって、俺は小難しい戦術の話ではなく、ただの小太郎としての等身大の本音をぶつけた。
「俺は、死にたくないです」
俺の低く、真っ直ぐな言葉に、小一郎様がハッと息を呑んだ。
「俺は、小六殿たちみたいに武士の意地を見せたいわけじゃない。藤吉郎様みたいに、命を懸けて手柄を立てて、天下に成り上がりたいわけでもない。ただ、痛い思いをせずに、五体満足で生きて家に帰って、妻の作った飯を食いたいだけなんです」
「茂助……殿」
「俺が預かっている三百人の部下たちも、きっと口には出さなくても、本音はみんな同じです。柴田や佐久間のオッサンの面子なんかのために、一ミリだって血を流したくありません」
俺は、床に広げられた阿坂城の絵図面を指差した。
「藤吉郎様の圧倒的な勢いや、人の心を熱く狂わせるカリスマは、確かに凄いです。英雄だ。俺たちも、あの熱に浮かされてここまでやってきました。……でも」
俺は、昼間にこの過酷な泥沼の山道で、小一郎様が俺に差し出してくれた、 真っ白な握り飯の温かさを思い出していた。
「あの英雄の熱は、時々周りの人間を焼き尽くします。俺たちみたいな普通の人間が、燃え尽きずに裏でずっと生かされてきたのは、あの英雄の背中があったからじゃない。……あなたの堅実で優しい気遣いがあったからじゃないですか」
「っ……」
「兵を死なせたくないと思うのが、大将の器じゃないって言うんですか? そんなの、この時代が狂ってるだけだ」
俺は、小一郎様に向かって、深く、深く頭を下げた。泥だらけの床に額をこすりつける勢いで。
「英雄の真似事なんて、しなくていいんです」
「……」
「俺たちを、使い捨ての駒にしないでください。……俺は、あなたに藤吉郎様のような冷酷な決断をしてほしいんじゃない。ただ、俺たちを無駄死にさせず家に帰すための指示を出してほしいんです。……お願いします、小一郎様。俺たちを助けてください」
俺の不器用で、身勝手で、必死な命乞いに、天幕の中は深い静寂に包まれた。
立派な武士が聞けば「臆病者め」と腹を切らされるような情けない台詞だ。だが、今の俺にはそれしか言えなかったし、この優しすぎる男の心に届くのは、こういう泥臭い本音だけだという確信があった。
やがて。
ポタッ……ポタッ……と。
俺の目の前にある絵図面の上に、大粒の水滴が落ちて、染みを作った。
「……ええ。……ええ、そうですとも」
小一郎様は、震える手で、自らの顔を覆った。
「私は、兄の真似などしなくていい。……兄の面子を守るために、あなたたちを無駄死にさせる必要など……どこにも、なかったのだ」
彼は、袖で乱暴に涙を拭いた。
そして再び顔を上げた時、その亡霊のように虚ろだった目には、これまでとは全く違う、静かで、しかし鋼のように強靭な責任の光が宿っていた。
ただ優しいだけの裏方から、預かった命を背負って戦う『将』へと、その精神が完全に脱皮した瞬間だった。
「死なせません。茂助殿も……小六殿も、兵たちも」
小一郎様は、床に置かれた阿坂城の絵図面を、両手で力強く掴んだ。
「私が、皆の命を守ります。明日の夜明け、兵たちを無駄死にさせず、なおかつ古参の武将たちを黙らせるための策を……必ず、見つけ出してみせます」
「小一郎様……」
「茂助殿。私の目を覚まさせてくれて、本当にありがとう。……少し、一人で考えさせてください。陣代として、果たすべき務めがあります」
小一郎様の顔には、もう微塵の迷いもなかった。
「……分かりました。吉報を、待ってます」
俺は深く一礼し、天幕を後にした。
外に出ると、秋の夜風は相変わらず冷たかった。
だが、先ほどまで俺の胃を締め付けていた、あの吐き気のような恐怖は不思議と薄らいでいた。
夜明けまで、あとわずか。
俺は、あの心優しい男が絶対に見つけ出してくれるはずの答えを信じ、少しでも眠るために自分の陣幕へと歩き出した。




