第86話 優しすぎた弟と、紛糾する軍議
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音なのか他人のものなのか分からない嫌な音が、耳の奥で鳴り響いていた。
南伊勢・阿坂城へと続く急斜面。
俺の腕の中にいる木下藤吉郎の体から、生温かい血が絶え間なく溢れ出し、俺の鉄の具足をドス黒く染め上げていく。
「おい! 誰か手を貸せ! 大将がやられたぞ!」
俺は喉が裂けるほどの声で叫んだ。
前方の柵に取り付いて、敵の矢の雨の中で激しい攻防を繰り広げている兵たちには、俺の声は届かない。だが、すぐ近くの岩陰に身を潜めていた三太夫や但馬が、俺のただならぬ様子に血相を変えて飛んできた。
「吉晴殿! それは……藤吉郎様!?」
「いいから手伝え! 本陣まで下ろすぞ! 絶対に死なせるな!」
俺たちは近くに落ちていた分厚い大盾を戸板の代わりにし、意識を失ってぐったりとしている藤吉郎を乗せた。
そして、泥だらけの急斜面を、何度も足を取られそうになりながらも転がるようにして駆け下りた。
木下組の本陣の裏手。そこには、負傷兵を運び込むための風除けの陣幕が張られた一画があった。
「薬師を呼べ! 大将だ、早くしろ!」
陣幕の中に駆け込むと、そこには血と泥の入り混じったむせ返るような生臭い匂いと、何かの薬草を煎じる匂いが充満していた。
奥から慌てて駆け寄ってきたのは、墨染めの衣を着た僧侶のような風体の男だった。この時代、軍中に現代のような専門の軍医など存在しない。部隊に随行している漢方や本草学の知識を持つ金創医の僧が、実質的な医療を担っている。
「これは……深く入っておりますな。五臓を避けていればいいが……」
僧形の薬師が、戸板の上に横たえられた藤吉郎の具足を素早く外し、脇腹の傷口を改める。敵将・大宮景連の放った矢は、鏃が肉の奥深くまで食い込んでいた。
薬師はふと、藤吉郎の口元に目を留め、無言のまま親指で唇をこじ開けた。
「……口の中を噛み千切っておる。正気を保つためか。まったく、化け物のような意地じゃ」
「兄上ッ!!」
悲痛な絶叫と共に、陣幕に飛び込んできたのは木下小一郎様だった。
顔面は死人のように土気色になり、足元はひどくおぼつかない。普段の冷静な彼からは想像もつかないほど取り乱し、藤吉郎の枕元に縋り付くように崩れ落ちた。
「いかん、早く矢を抜かんと命に関わるぞ!」
「ならばどうする!」
「大勢で押さえつけい! 今からほじくり出す!」
「なっ……」
俺は耳を疑った。麻酔なんてものはない時代なのはわかっていたが。
薬師の怒声に、俺と三太夫が慌てて藤吉郎の肩と足を押さえつける。
そして薬師は、矢抜きを傷口に突っ込み、力任せにグリグリと肉をこじ開け始めたのだ。
「ごおおおおおォォォッ!!」
意識を失っていたはずの藤吉郎が、鼓膜が破れそうなほどの絶叫を上げて体を大きく反らせた。俺は吐き気を堪えながら、必死に大将の体を押さえつけた。
「抜けましたぞ! 止血じゃ、ヨモギと漢方の薬をたっぷりと詰めい! すぐに縫え!」
矢尻が抜けた直後、血の噴き出す傷口に揉んだヨモギや黒々とした漢方の軟膏がグイグイと詰め込まれ、今度は太い針と絹糸を使って、裂けた肉を強引に縫い合わせ始める。
「おい、気付けだ! 『塩』も塗り込め! ガマの粉も振れ!」
周りにいた古参の兵たちが、戦場に伝わるトンデモない民間療法を叫びながら、縫い終わった傷口周辺に粗塩を容赦なく擦り込んだ。
「あ、がぁ……ッ!!」
藤吉郎は痛みのあまり白目を剥き、激しく痙攣した。……これが、この戦国時代における医療の現実だった。
(……マジかよ。こんなの、ただの拷問じゃねえか)
俺は血に染まった自分の手を見つめ、背筋が凍る思いだった。
麻酔なしで肉をほじくり返され、薬草と一緒に縫い合わされるだけでも地獄なのに、気付けに塩!? 現代なら清潔な手術室で縫合され、抗生物質を投与される重傷だろ。
だが、この時代にはそんなものは存在しない。刀傷や槍傷は、その後の感染症との戦いになる。どんなに地位のある武将だろうと、こんな不衛生な環境の治療で細菌に感染して熱を出せば、あっけなく死ぬのだ。
後は、藤吉郎の免疫力と天運に任せるしかない。
「兄上、兄上! しっかりしてください!」
小一郎様が、涙を流しながら血まみれの藤吉郎の腕を強く握りしめた。
すると、その悲痛な声が届いたのか。高熱のせいで荒い息を吐いていた藤吉郎のまぶたが、微かに開いた。
「……うるせえな、小一郎……。大声出すな……」
「兄上!」
藤吉郎は、顔面を脂汗で濡らし、息も絶え絶えになりながらも、弟に向けてニヤリと不敵に笑って見せた。
「……泣き面を、見せるな。……俺は、死なねえよ……。こんなところで、くたばって……たまるか……」
だが、その声はひどく弱々しく、今にも消え入りそうだった。
藤吉郎は、小一郎様の手を逆に強く握り返した。
「……小一郎。俺が、目を覚ますまで……お前が、木下組の陣頭に立て……」
「え……?」
「俺の代わりに……兵を率いろ。あの城を……落とせ……。あとは、頼む……」
それだけ言い残すと、藤吉郎の腕からカクンと力が抜け、今度こそ完全に意識の底へと沈んでいった。
「兄上? 兄上ッ!!」
小一郎様の悲鳴のような叫びが、陣幕の中に空しく響き渡った。
***
藤吉郎が倒れたその日の夜。
木下組の本陣では、ひどく重苦しい空気の中で軍議が開かれていた。
「大将が重傷を負った」。
その事実が知れ渡れば、前線の泥沼で辛うじて持ち堪えている木下組の士気は完全に崩壊する。そのため、藤吉郎の容態は極秘とされ、木下組の全権は、藤吉郎の言い残した通り弟である小一郎様が『陣代』として代行することになった。
だが、軍議の席の上座。いつもなら藤吉郎がふんぞり返っているその場所に座る小一郎様は、本来の彼よりも二回りも小さく見えた。顔色は土気色で、膝の上に置かれた手は小刻みに震えている。
さらに悪いことに、後方で渋滞にしびれを切らした柴田勝家や佐久間信盛といった古参武将たちから、「夜明けと共に全軍を挙げて強行突破せよ。できぬなら木下組ごと踏み潰して進む」という理不尽極まりない最終通告が届いていたのだ。
「……ならば、腹を括るしかあるめえ!」
床に広げられた絵図面を睨みつけながら、大声で吠えたのは蜂須賀小六だった。
あの墨俣築城の折、俺の親父との縁もあって木下組に加わってていた川並衆を束ねる荒くれ者の頭目だ。
「柴田のオッサンどもに後ろから踏み潰されるくらいなら、前のめりに死んだ方がマシだ! 夜明けを待たず、今夜のうちに全軍で夜襲をかける! 俺の隊が先陣を切って、あの厄介な櫓の真下まで肉薄してやる!」
「小六の兄貴の言う通りだ!」
それに同調したのは、前野長康だった。
彼も川並衆の副将格であり、あの墨俣の地獄で俺を信じ、共に汗を流してくれた武闘派筆頭である。
「ここで退けば、木下組の面子は丸潰れだぞ! 俺たち川並衆が泥水すすって武士へと這い上がり、藤吉郎と一緒に血を吐いて築き上げた面子を、こんな山城一つで潰すわけにはいかねえ! 多少の犠牲を出してでも、強引に柵をぶち破るしかねえんだ!」
小六と長康の強硬論。
だが、その意見に真っ向から反対の声を上げた者たちがいた。
「お言葉ですが、小六殿、長康殿! それはあまりにも無謀です!」
立ち上がって反論したのは、俺の弟分でもある中村一氏――弥七だった。
「あの急斜面と、百発百中の神弓を見なかったのですか! 大軍で押し寄せようと、道が狭すぎて完全に的になるだけです。夜襲をかければ、足元が暗い分、味方同士で踏み潰し合う大惨事になりますぞ!」
「一氏殿の申される通りです」
弥七に続いて、生真面目な山内一豊が冷静な声で同調した。
「我々の最大の財産は、熟練の兵たちです。意地のために無為に兵を死地に追いやるのは下策。ここは強攻を避け、柴田様たちの怒りを買ってでも、一度後退して盾や竹束を大量に準備するなど、堅実な攻め手を探るべきかと存じます」
「なんだと!? てめえら、新参の分際で腰が引けてんじゃねえぞ!」
「腰が引けているのではありません! 無駄死にを避けよと言っているのです!」
蜂須賀・前野の『強硬派』と、山内・中村の『保守派』。
藤吉郎という絶対的な大黒柱がいれば、この両者を笑い飛ばして一つにまとめることができただろう。だが、陣代である小一郎様には、彼らを力でねじ伏せるだけの武将としてのカリスマがない。
軍議の場は、怒声と反論が飛び交う収拾のつかない言い争いへと発展してしまった。
「陣代! ご決断を! 全軍に突撃の下知を!」
「小一郎様! どうかお踏みとどまりを! 兵が無駄死にいたします!」
両陣営の血走った目が、上座で震える小一郎様に一斉に突き刺さる。
小一郎様の心の中で、巨大な責任が激しく軋んでいた。
突撃を命じれば、兄の面子は保たれるかもしれないが、目の前の兵たちが確実に何百人も死ぬ。
後退を命じれば、兵の命は助かるが、木下組は古参たちに踏み躙られ、兄の築いたすべてが崩壊する。
優しい彼にとって、他人の命を盤上の駒として消費する決断は、あまりにも重すぎた。
「……は、半兵衛殿」
小一郎様は、縋るような目で、隅に座る天才軍師――竹中半兵衛へと視線を向けた。
どんな絶望的な状況でも、必ず誰も思いつかないような奇策で陣中を救ってきた男。彼ならば、この地獄を覆す魔法のような一手を提示してくれるはずだ。
だが。
「…………」
半兵衛は、静かに目を閉じたまま、一言も発しようとはしなかった。
手元の軍扇をゆっくりと弄ぶだけで、強硬派の意見にも、保守派の意見にも、一切の助け舟を出さない。
軍師が沈黙を貫くということは、つまり「この状況を打開する策などない」という残酷な事実の裏返しだった。
「半兵衛殿……何か、策は……ないのですか……」
小一郎様の震える声が、陣幕内に虚しく響く。
半兵衛はゆっくりと目を開けたが、ただ静かに小一郎様を見つめ返すだけだった。それはまるで、「あなたが大将なのだから、あなたが決めるしかないのです」と突き放しているようだった。
「…………」
小一郎様は、床に広げられた絵図面へと視線を落とした。
口を開こうとするが、喉が引きつって音にならない。突撃の「と」の字も、後退の「こ」の字も、どうしても口から出すことができなかった。
自分のたった一言で、すべてが決定してしまう。その恐怖に、彼の思考は完全に白く塗り潰されていた。
「小一郎様……! ご決断を!」
小六の苛立った声が飛ぶ。
だが、小一郎様は固く口を閉ざしたまま、ただ小刻みに肩を震わせるばかりだった。
完全に、凍結していた。
優しすぎた代理人は、「兄のすべてを失うかもしれない恐怖」と「自分の采配一つで兵たちが確実に死ぬという重圧」に押し潰され、決断力を完全に喪失してしまったのだ。
軍議の場に、重く、絶望的な沈黙が降り下りた。
大将が倒れ、陣代が言葉を失い、軍師が沈黙した。
木下組の指示系統は、今ここに完全にストップしてしまったのだ。
俺は陣幕の末席で、冷や汗をかきながら胃の辺りを強く押さえていた。
どうするんだ、これ。明日の朝、俺たちはどうなるんだ。
俺の必死の心の叫びも虚しく、陣幕の中には、ただ松明の火が爆ぜる音と、武将たちの荒い息遣いだけが、不気味に響き続けていた。
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