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第85話 大将の背中と、射抜かれた脇腹


 ヒュンッ! ドスッ!


「ぎゃあああっ!」

「ひぃっ! たす、助けてくれぇっ!」

 南伊勢・阿坂城あざかじょうへと続く険しい獣道。

 泥まみれの急斜面には、絶叫と呻き声、そしてむせ返るような血の匂いが充満していた。


 先陣を切って突撃した別部隊の指揮官たちが、山の頂に陣取る敵将・大宮景連おおみや かげつらの神業のような弓によって次々と射抜かれ、木下組の進軍は完全に足を止められていた。

「絶対に顔を出すな! 敵の死角から一歩も動くんじゃねえぞ!」

 俺は分厚い大盾と岩の隙間に身を丸めながら、預かった三百の兵たちに怒鳴り続けていた。


 周囲の木々には、すでに何十本もの白羽の矢が深々と突き刺さっている。少しでも身を乗り出せば、次の瞬間には兜の隙間を貫かれてあの世行きだ。

 だが、ただ立ち止まっているだけでは状況は何も好転しない。背後からは、古参の武将たちからの「早く進め」「無能の猿め」という容赦のない怒声が、伝令を通じて絶え間なく叩きつけられている。


 前には絶対的な死をもたらす弓の名手。後ろには織田家の苛烈な重圧。

 逃げ場のない板挟みの中で、斜面にへばりつく兵たちの顔からはみるみるうちに生気が失われ、ただ死を待つような絶望と恐怖だけが伝染し始めていた。


「……マズい。完全に空気が死んでるぞ」

 俺は岩の隙間から周囲を見渡し、ギリッと奥歯を噛み締めた。

 士気が崩壊するのは一瞬だ。このまま恐怖が蔓延しきれば、誰か一人が後ろへ逃げ出したのをきっかけに、全軍が雪崩を打って総崩れになる。狭い山道でそんなパニックが起きれば、味方同士で踏み潰し合う大惨事になりかねない。


「どけ! 道を開けろォッ!!」

 その時だった。

 絶望に包まれた斜面の空気をビリビリと引き裂くような、凄まじい怒声が響いた。

 振り返ると、泥だらけの陣羽織を翻した木下藤吉郎が、後方の本陣から徒歩で前線へと駆け上がってくるところだった。


 彼は顔を真っ赤に紅潮させ、手にした采配で、縮こまっている足軽たちの兜を次々と叩き据えていく。

「こんな山の中腹で何を縮み上がってやがる! 俺たち木下組が、織田軍の先頭で立ち止まるわけにはいかねえんだよ!」

「藤吉郎様! 前に出たら、死にますよ!」

 俺が岩陰から声を張り上げると、藤吉郎はギロリと血走った目で俺を睨みつけた。


「死ぬだと? ここで立ち止まって後ろの連中に道を譲っちまったら、俺は一生『無能な猿』のままだ! そんな惨めな思いをして生き長らえるくらいなら、ここで前のめりに死んだ方がマシだ!」

 藤吉郎の目は、完全に常軌を逸していた。

 京の都での大出世。古参たちを見返してやるという異常なまでの執念。それが、彼から一切の恐怖を奪い去り、純粋な戦闘狂へと変貌させていた。


「聞けェッ! 木下組の者ども!」

 藤吉郎は、俺の制止を振り切り、なんと矢の飛び交う射線上の大岩の上に仁王立ちになった。

「藤吉郎様! 馬鹿な真似はやめてください!」

「若! お止めしても無駄ですぜえ、大将は完全に腹を括ってる!」

 俺が飛び出そうとするのを、三太夫さんだゆうが必死に押さえつける。


 岩の上に立った藤吉郎の周囲を、ヒュンッ! ヒュンッ! と何本もの矢が掠めていく。だが、藤吉郎は全く怯むことなく、己の三百の兵、そして周囲で震えるすべての木下組の兵たちに向かって、腹の底から声を張り上げた。


「たかが山城一つ、たかが弓の名手が一人! それがどうした! 俺たちはあの墨俣で、一夜にして城を築き上げた木下組だぞ! 上洛の道で、誰よりも泥水にまみれてお館様を支えたのは俺たちだ!」

 その声は、山中に響き渡り、震えていた兵たちの顔を否応なく上げさせた。


「俺には名のある血筋もねえ! 立派な家柄もねえ! 尾張の泥土から這い上がってきただけの、ただの猿だ! だがな、だからこそ、俺たちには失うものなんて何一つねえんだよ!」

 藤吉郎は、自らの胸をドンッと力強く叩いた。 


「後ろの連中に笑わせたままにしておくか! 俺たちの意地と、流した汗と血の価値を、あの頂の城門をブチ破って証明してやろうじゃねえか!!」

 藤吉郎は、手にした采配を阿坂城の頂へと力強く突きつけた。

「俺が先陣を切る! お前ら、俺の背中から絶対に離れるなァッ!!」


 その瞬間だった。

 恐怖で凍りついていた兵たちの目に、異様な熱が宿った。

 名もなき農民から這い上がり、今まさに織田家の最前線で命を張る大将の姿。その途方もない熱量とカリスマが、兵たちの理性を焼き尽くし、恐怖を狂気へと反転させたのだ。


「おおおおおおっ!!」

「木下様につづけェーっ!!」

 誰かが上げた雄叫びを皮切りに、斜面にへばりついていた数百の兵たちが、一斉に立ち上がった。

 俺の部下である三太夫や但馬たちも、目をギラギラと輝かせ、大盾を構えて立ち上がっている。


「若! 我らも行きますぜぇ! 大将の背中をお守りせねば!」

「馬鹿、待て、まだ早いって!」

 俺の悲鳴など誰の耳にも届かない。せきを切ったように、木下組の怒涛の突撃が始まった。

 藤吉郎は、自ら刀を引き抜き、泥だらけの斜面を誰よりも先頭に立って駆け上がっていく。


「よし! その意気だ! ついてこい!」

 ヒュンッ! と飛来する矢が足元の泥を跳ね飛ばしても、彼は全く歩みを止めない。その後ろ姿は、ただの小柄な猿ではなく、戦場を支配する本物の大将の背中だった。


 俺も、部下たちに引きずられるようにして斜面を登りながら、その異常な光景に息を呑んだ。

 これが、木下藤吉郎。人を狂わせ、人を動かす、天才的な人たらしの力。

 このままの勢いなら、一気に城の柵まで肉薄できる。 


 そう確信しかけた、その時だった。

 上の櫓に陣取る敵の狙撃手――大宮景連が、迫り来る敵将の姿を絶対に見逃すはずがなかった。

 これまでの矢とは違う、弦が張り詰める極限の音が、微かに山風に乗って聞こえた気がした。


 ヒュンッ――ズドッ!!

「え……?」

 俺の足が、泥の中でピタリと止まった。

 俺の十数メートル先を走っていた藤吉郎の体が、不自然にガクンと大きく揺れた。

 前方の兵に指示を出そうと、彼が右腕を大きく振り上げた、まさにその一瞬の隙だった。


 胴当てと、腕を守るそでの間の、わずかに無防備になった急所。

 恐るべき精度で放たれた白羽の矢が、藤吉郎の『右の脇腹』に、深々と、根元まで突き刺さっていた。

「大将!?」

 周囲を走っていた兵たちの動きが、一瞬にして凍りついた。


 俺の心臓が早鐘を打つ。脇腹だ。しかもあんなに深く。内臓をやっているかもしれない。致命傷だ。

 ここで大将が倒れれば、せっかく狂気で前を向いた兵たちの士気は完全に折れ、今度こそパニックになって総崩れになる。


「あ、ああ……」

 次の瞬間――俺は見た。

 藤吉郎が、ぐっと奥歯を噛み締めるように、己の口の内側に歯を立てるのを。

 ガリッ、という音が、俺のいる距離まで聞こえた気がした。

「……ガハ、ハハハハッ!!」

 腹に矢を突き立てたままの藤吉郎が、口の周りを真っ赤な鮮血で染めながら、狂ったように高笑いを上げたのだ。

 

「藤吉郎、殿……?」

「なんだこの矢は! 蚊に刺されたかと思ったぞ!」

 藤吉郎は、血まみれの口元を乱暴に拭い、後ろを振り返ってニヤリと不敵に笑い放った。 


「かすり傷だ! こんなもん、いくさの誉れにもならねえ! お前ら、俺に構わず前へ出ろ! 一気にあの柵をぶっ壊せェッ!!」

 その凄まじい気迫と、血まみれになりながらも倒れない大将の姿に、一瞬怯んだ兵たちの目に再び炎が点火された。 


「おおおおおっ!! 藤吉郎様に続けェーっ!!」

 大将の負傷という絶望すらも燃料に変え、木下組の兵たちは獣のような咆哮を上げて、ついに城の防衛線である柵へと殺到していった。

「す、すげえ……」

 俺はただ呆然と、その光景を見送ることしかできなかった。 


 だが。

 怒涛のように兵たちが藤吉郎の横を通り過ぎた瞬間。

 藤吉郎の顔から、あの不敵な笑みがスッと消え去った。 


「……ごふっ」

 限界だった。

 彼の体から完全に力が抜け、白目を剥いて、泥の斜面へと仰向けに倒れ込んでいく。


「藤吉郎様ッ!!」

 俺は慌てて駆け寄り、地面に叩きつけられる寸前のその体を、己の巨体で力一杯抱きとめた。


 軽い。だが、抱きとめた腕には、彼の脇腹から溢れ出す生温かい血の感触がべっとりと伝わってくる。呼吸は浅く、顔面は死人のように蒼白だった。


「おい! しっかりしろ! 死ぬな、死ぬんじゃねえぞ!」

 俺は血まみれの藤吉郎を抱きかかえたまま、パニックになりながら叫んだ。


 兵を鼓舞するためだけに、己の致命傷すら隠して笑い飛ばした大将の背中。

 周囲には、柵に取り付いて激しい攻防を繰り広げる味方の怒声と、絶え間なく降り注ぐ矢の音が響き渡っている。


 俺の手の中にある、徐々に冷たくなっていく上司の重み。それが、俺に戦場の残酷な現実を、容赦なく突きつけていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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内臓損傷+内出血+吐血じゃまず戦国時代の医療じゃ助からんけどなぁ
人肌で暖めるんやろ!もち肌もすけ布団!
藤吉郎!?大丈夫なんか!?致命傷なのでは!?えっえっえっ!? あんたは天下の豊臣秀吉だぞ!? つづきどうなるんだ!?気になりすぎる!!!
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