第84話 阿坂の防壁と、百発百中の狙撃手
南伊勢の入り口にそびえ立つ北畠家の防衛拠点、阿坂城。
小一郎様からのありがたい白米の差し入れでなんとか体力を回復させた俺たちは、ぬかるんだ山道をさらに進み、ついにその城の麓へとたどり着いた。
だが、木々の隙間からその全貌を見上げた俺の口からは、ただただ絶望の溜息しか漏れなかった。
「……嘘だろ。あんなところ、どうやって登るんだよ」
思わず独り言がこぼれる。
標高はずいぶんと高い。首が痛くなるほど見上げた山の頂に、その城はへばりつくように築かれていた。
ただの急峻な山肌を削って何段もの平らな土台を作り、そこに粗末だが強固な木の柵や土壁を迷路のように張り巡らせているのだ。
こちらが攻め上るための道といえば、人が三人並んで歩くのがやっとの、細く曲がりくねった泥まみれの獣道が一本だけ。
道の両脇には身を隠すための木々が鬱蒼と茂っているが、逆に言えば、上から丸太や石を転がされたり、火を放たれたりすれば一溜まりもない。
大軍による数の暴力が一切通用しない、絵に描いたような地獄の山城だった。
「先鋒の木下組、かかれぇーっ!!」
俺が山の凶悪さに呆然としていると、後方の本陣から陣太鼓の音と、藤吉郎の容赦ない進軍の号令が響き渡った。
先陣を任された木下組のうち、一番槍の手柄を立てようと血気盛んな別の隊が、俺たち堀尾組の横をすり抜けて猛然と斜面を駆け上がっていく。
「続け! 一気に柵を取り払え! 一番乗りは俺の隊がもらうぞ!」
派手な前立ての兜を被り、采配を振り回して大声で兵を鼓舞しているのは、木下組で足軽大将を務める男だ。その声に呼応し、数十人の兵が怒声と共に山の斜面へと足を踏み入れた。
――その直後だった。
ヒュンッ!
風を切り裂くような、鋭く甲高い音が山の頂から降ってきた。
「がっ……!?」
先頭で采配を振っていた足軽大将が、不自然なほど短い悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちた。
何が起きたのか一瞬分からなかった。だが、泥の斜面を転げ落ちてきた彼の大仰な兜の錣と、首を守る喉輪の間の――ほんの指二本分ほどの僅かな隙間に、白羽の矢が深々と突き刺さっているのが見えた。
「た、大将ーっ!!」
「怯むな! 大将がやられたぞ! 俺に続け、大盾を前に出せ!」
すぐさま、副官である男が部隊の指揮を引き継ごうと前に出た。そして、足軽たちに指示を出そうと大きく腕を振り上げた、次の瞬間。
ヒュンッ! ドスッ!
「ぎゃあああっ!」
今度は、組頭が腕を上げたことで鎧の隙間から一瞬だけ露出した『脇の下』を、二本目の矢が正確に貫いていた。
急所を射抜かれた組頭は、口から大量の血を吐き出しながら、先ほどの足軽大将と同じように斜面を転がり落ちていく。
「な、なんだ今の矢は……!?」
俺は慌てて近くの大岩の裏に飛び込み、身を縮めた。
弓矢というのは普通、大勢の兵が空に向かって一斉に放ち、雨のように降らせることで敵を面で制圧するためのものだ。あんな高い場所から、一本一本を狙いすまして当てるような兵器ではない。
だが、今上から降ってきている矢は違う。
まるで意志を持った死神のように、前線で声を出して指揮を執る者や、目立つ鎧を着た大将クラスだけを的確に選び出し、鎧で守られていない急所だけを恐ろしい精度で射抜いているのだ。
「ひぃっ! 上からだ! 盾を上に構えろ!」
指揮官を立て続けに二人も失い、完全にパニックに陥った隊の足軽たちが、慌てて頭上に分厚い木の盾を掲げた。
だが、ヒュンッ、ヒュンッ! と間髪入れずに飛来した矢は、盾と盾の合間を縫うように正確に射込まれ、盾を支えていた兵の太ももや足の甲を容赦なく貫いた。
「ぎゃあああっ! 足が、足がぁっ!」
膝から崩れ落ちた足軽たちが、泥だらけの急斜面を悲鳴を上げながら転がり落ちていく。
わずか数刻の間に、一番槍を争って突撃した部隊の指揮系統は完全に崩壊し、狭い山道は手足を射抜かれて呻く味方の兵で溢れ返ってしまった。
「若! 危ねぇぞ! そのまま隠れてろ!!」
三太夫や但馬たち俺の直属の部下たちも、分厚い竹束や大盾を掲げながら、俺のいる岩陰へと次々に転がり込んできた。
カンッ! という鋭い音と共に、但馬の掲げていた大盾に一本の矢が突き刺さる。分厚い木の板を半分以上貫通するほどの凄まじい威力だ。
「なんだあの威力と精度は! 火縄銃よりタチが悪いぞ!」
「敵将の大宮景連です!」
岩陰にへばりつきながら、但馬が血走った目で叫んだ。
「あの男、弓の名手との噂でしたが……まさかこれほどの腕とは! 山の上の高い櫓から、こちらの指揮官の動きを完全に狙い撃ちにしております!」
俺は岩の隙間から、そっと山頂の方を見上げた。
遠すぎて顔までは見えないが、城の一番高い防壁の向こう側に、身の丈ほどもある長弓を構えた武将の影が小さく見えた。
無駄のない流れるような動作で弦が引き絞られ、放たれる。そのたびに、斜面を登ろうとした味方が、まるで糸を切られた操り人形のように次々と倒れていく。
神業としか言いようがない。あんな高い遠い場所から、はるか下を動く人間の首の隙間を射抜くなんて。
「若! ここに留まっていたら詰むぜぇ! 俺が大盾で的となり、敵の矢を逸らしている隙に、押し上げましょうや!」
三太夫が、大盾を構えながらギラギラとした目で進言してくる。
「馬鹿野郎! あんな化け物みたいな弓の前に飛び出したら、囮になる前に全員眉間を撃ち抜かれて死ぬわ!」
俺は三太夫の兜を思い切り叩き、怒鳴りつけた。
「いいか、絶対に顔を出すな! 大盾と竹束を岩のように固めて、一歩も動くな! 矢が尽きるか、日が暮れるまでここで亀になるぞ!」
俺が本気で死にたくないという一心で怒鳴りつけると、副将の但馬がワナワナと肩を震わせ、その泥だらけの場で平伏した。
「……おおおっ! この戦功を争う局面にありながら、己の手柄よりも預かった三百の兵の命を第一に重んじられるとは……! 吉晴殿の慈悲深きご采配、この但馬、五体に染み渡りましたぞ!」
「またそれか! いいから頭を下げとけ! 死ぬぞ!」
俺が情けない悲鳴を上げている間にも、事務方の勘兵衛が岩陰で必死に算盤を弾いていた。
「若の仰る通りです! あの神弓の前に兵を出せば、怪我人の治療費、破損した武具の修繕費、そして見舞金と、我が堀尾組の財政は一瞬で破綻します! ここは徹底した待機が最も理にかなっております!」
お前はなんでこんな死の雨が降っている中で、呑気に金の計算ができるんだよ。
ともかく、俺の命令により、堀尾組の三百は完全に岩陰や盾の裏に引きこもった。
だが、問題は俺たちだけではない。
先鋒である俺たち木下組の前衛がこの急斜面で完全に足止めを食らっているため、その背後に続く織田軍全体の進軍が、完全にストップしてしまっているのだ。
やがて、後方の本陣から、汗だくになった伝令の武者たちが次々と斜面を駆け上がってきた。
彼らが大声で読み上げるのは、後方で渋滞に巻き込まれている織田家の古参武将たちからの、容赦のない怒声の数々だった。
『柴田様より伝令! 先鋒は何をモタモタしているのだ、たかが山城一つに刻をかけすぎである! とのお言葉!』
『佐久間様より伝令! 猿には先陣は荷が重すぎたのではないか。道を開けよ、我らが代わってやる、と鼻で笑っておられます!』
岩陰に隠れている俺の耳にも、その冷酷な言葉がはっきりと届いた。
背筋が凍る思いだった。
現場の状況も知らない安全な後方から、好き勝手なことばかり言いやがって。だったらお前らが前に出て、あの百発百中の化け物の矢面に立ってみろと言いたくなる。
だが、織田家という完全な実力主義の組織において、そんな現場の言い訳は一切通用しない。
命じられた結果を出せなければ、無能の烙印を押されてすべてを失うだけだ。
「……マズいですよ、兄上。このままでは……」
俺の隣で竹束に隠れていた氏光が、顔面を蒼白にして後方の山道を見下ろした。
俺もそっと視線を向ける。斜面の少し下――木下組の旗印が立つ場所に、馬に乗った木下藤吉郎の姿があった。
京の都での大出世を経て、「成り上がりの猿」という古参からの蔑称を完全に跳ね返すために、この伊勢攻めに己のすべてを懸けていた男。
遠目からでも分かった。
藤吉郎は、手にした采配を、ギリ、ギリッと音が鳴りそうなほど強く握りしめている。
その肩は小刻みに震え、目は血走り、口元は凄惨な形相に歪んでいた。
上からの絶対的な死の恐怖と、後ろからの苛烈な重圧。その二つの巨大な壁に挟まれ、彼の精神は今、限界まで膨れ上がって破裂寸前だった。
(……あいつ、完全にプッツン来てるぞ。何かとんでもない無茶をしでかす気だ)
俺の生存本能が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。だが、岩陰で縮こまる俺にできることなど何もない。
俺は、泥まみれの手で俺に白米を握ってくれた小一郎のひどく疲れた顔を思い浮かべながら、ひたすら大盾の裏で身を丸めて震えることしかできなかった。




