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第83話 南伊勢侵攻と、優しい弟小一郎

 織田信長を総大将とする数万の大軍が、南伊勢へと侵攻を開始した。

 目標は、伊勢国を代々支配してきた名門・北畠きたばたけ家である。


 思えば、一、二年ほど前、俺たちが美濃の攻略や上洛の準備で死ぬほど忙しかった頃に、お館様は、滝川一益たきがわ かずます様を大将として送り込み、北伊勢の勢力をボコボコにして平定をあらかた済ませていた。


 俺たち木下組は北伊勢の戦には直接参加していなかったため、俺は今回の出陣にあたっても、「伊勢攻めなんて、滝川様がやったことの続きみたいなもんだろ。お館様の数万の大軍で押し潰せば楽勝なんじゃないか」と完全に高を括っていた。


 どうせ平たい道を大軍でゾロゾロ歩いて、敵の城を遠巻きに囲んで降伏を待つだけのお気楽なピクニックだろうと、タカをくくっていたのだ。

 だが、俺のその浅はかな予想は、伊勢の地を踏んだ初日に脆くも崩れ去った。


「……はぁっ、はぁっ……クソ、なんだこの道は。冗談じゃねえぞ」

 鬱蒼と生い茂る木々の間を縫うように続く、獣道のような急斜面。俺は泥に足を取られそうになりながら、恨み言を吐き捨てた。


 伊勢湾沿いに平野が広がる北伊勢と違い、ここ南伊勢には険しい山々が幾重にも連なっている。代々この地を支配してきた北畠家は、この厄介極まりない地形全体を要塞化し、地の利を最大限に生かした徹底抗戦の構えを見せているという。


 我ら木下組は、その織田本軍の先鋒として、北畠家の重要拠点の一つである『阿坂城あざかじょう』へと向かう山道を進んでいた。

 そして、この日の行軍は、すでに地獄の様相を呈していた。


 秋の長雨をたっぷりと吸い込んだ伊勢の赤土は、ねっとりとした粘土のように草鞋わらじに絡みついてくる。ただでさえ重量のある冷たい具足ぐそくを着込んでいるというのに、一歩足を踏み出すごとに、大地から足を引っ張られているような重さを感じた。


 おまけに、俺の愛馬であるずんぐりむっくりの馬『軽トラ』は、「こんな急な泥坂を歩くのは御免だ」とばかりに早々にストライキを起こし、今は最後尾で荷馬と一緒に大人しく引かれてきている。

 おかげで、三百の兵を預かる部隊長である俺が、自らの足で泥まみれになりながら過酷な山登りをするハメになっていたのだ。


「遅ぇぞ! もっと前へ出ろ! 先陣の誉れだ! 遅れるな!」

 不意に、前方から耳をつんざくような怒声が降ってきた。

 鬱蒼とした斜面の上、木々の隙間から見え隠れするのは、泥まみれの山道だというのに自ら馬を乗り回し、血走った目で兵の尻を叩いている俺たちの上司てまある木下藤吉郎の姿だった。 


「おいおい……あいつ、完全に頭のネジが飛んでるわ」

 俺は少し離れた後方からその姿を見上げ、深くため息をついた。 

 藤吉郎のあの異常な焦りは、俺にも痛いほど分かっていた。上洛してからの大立ち回り、そして二条城築城。俺たちの木下組は、裏方として文句のつけようのない大仕事を成し遂げ、織田家中での発言権を確かに強めた。


 だが、柴田勝家や佐久間信盛といった古参の重臣たちは、未だに藤吉郎のことを「口の達者な成り上がりの猿」と見下している。あいつらに真の意味で実力を認めさせるに、ここで圧倒的な一番手柄を立て、誰も文句を言えない地位を確立する。

 その凄まじい野心とプレッシャーが、今の藤吉郎を完全に周りが見えない戦闘狂に変えてしまっていた。


「周囲の警戒も薄いまま、あんな速度で山道を突っ走ったら……敵の伏兵に横っ腹を突かれるぞ。俺でもわかる……」

「……仰る通りです」

 俺のボヤキを聞きつけた副将の但馬たじまが、顔を強張らせて深く頷いた。


「功を焦るあまり、藤吉郎様は完全に前しか見えておられない。我らまであの無謀な進軍に付き合えば、陣形が間延びして各個撃破のまとになりまする。ここは慎重に進むべきかと……!」

「……だよな。もう駄目だ。限界。うちはここで止まる。小休止だ」

 俺はたまらず手を上げ、自分の預かる三百の部隊に停止の合図を出した。 


 陣形がどうこう以前に、俺自身の体力がもう限界だったのだ。あんな狂った上司のペースに付き合っていたら、敵と戦う前に過労死するか、足を踏み外して谷底へ落ちるかの二択である。


「皆の者! 休め! その場で息を整えよ!」

 但馬が声を張ると、息も絶え絶えだった俺の部下たちが、一斉に安堵の表情を浮かべ、ドサリドサリと道端の倒木や岩肌に腰を下ろしていく。

 俺も手近な倒木にどっかりと座り込み、腰に下げていたずっしりと重い麻袋を解いた。


 出陣の朝、妻の桔梗ききょうから「下半身と顎の鍛錬に」と満面の笑みで渡された陣中食だ。袋の中には、石のように硬く炒られた大豆と、黒ずんで板のようになった鹿の干し肉がぎっしりと詰まっていた。


「……痛ぇ」

 ガリッ、ゴリッ。

 嫌な音を立てて豆を噛み砕く。古い革草履でも噛んでいるような干し肉の弾力に、顎の関節が悲鳴を上げた。

 ふっくらと炊かれた白米が食いたい。ただでさえ藤吉郎のせいで胃が痛いのに、なんで俺は戦場に着く前から顎の筋肉まで痛めつけられなきゃならないんだ。


「……茂助殿。お疲れ様です」

 ひたすら豆と格闘していると、不意に背後から、ひどく疲れ切った声がした。

 振り返ると、木下小一郎が一人で立っていた。藤吉郎の弟であり、木下組の兵糧や裏方の実務を一身に背負う最大の苦労人。その袴は俺と同じように膝下まで赤泥に染まり、顔色は土気色だった。 


「小一郎殿!? どうしました、わざわざこんなとこまで」

 俺が慌てて立ち上がろうとすると、小一郎は力なく首を振り、「どうぞそのままで」と俺の隣の倒木に腰を下ろした。


「……兄を、必死に止めてきたところです。これ以上、周囲の警戒もせずに部隊を急がせれば、陣形が間延びして危険だと」

「半兵衛殿は何をしてるんです? あの天才軍師が理詰めで止めれば、さすがの藤吉郎殿も聞く耳を持つでしょうに」

 俺が尋ねると、小一郎は深く、深いため息をついて泥だらけの手で顔を覆った。


「半兵衛殿も『山岳戦において突出は伏兵の餌食になる』と厳しく諫めました。ですが、今の兄は『相手は籠城して引きこもってるだけだ! 半兵衛は戦の勢いというものが分かっていない! 遅れを取れば古参どもに笑われるぞ!』と一蹴して……。半兵衛殿は今、兄の無茶な進軍でバラバラに崩れかけた後続の陣形をなんとか繋ぎ止めようと、裏で必死に駆け回って采配を振るってくれています」


(……あの天才の言うことまで無視してるのか。マジで最悪じゃねえか)

 俺は絶句した。

 いくらなんでも気負いすぎている。上司が手柄に目が眩んでブレーキをぶっ壊しているのだから、下で働く人間にとってはたまったものではない。 


「茂助殿……私は、恐ろしいのです」

 小一郎は、震える声を絞り出した。

「今の兄は、何かに取り憑かれたように手柄を求めている。前へ前へと突き進むその姿は、確かに兵を鼓舞し、圧倒的な勢いを生み出します。ですが……自分が痛手を負うことすら恐れていないあの異常な無謀さは、いつか必ず、取り返しのつかない事態を招くのではないかと……」

 弟だからこそ分かる、兄の危うさ。


 小一郎の言葉には、理屈ではない、血の繋がった家族としての深い恐怖が滲んでいた。

 彼は懐に手を入れると、竹の皮に包まれた小さな包みを取り出し、俺に差し出した。 


「どうぞ。私の手ずから握ったものです」

 開かれた皮の中には、ふっくらと炊き上げられた『真っ白な握り飯』が二つ、綺麗に並んでいた。

「は、白米……!」

 俺は震える手でそれを受け取った。


 一口かじると、米の柔らかな甘みと適度な塩気が、泥まみれで疲労しきった体にじんわりと染み渡っていく。桔梗の呪いの豆とは雲泥の差だ。咀嚼するだけで涙が出そうになる。 


「美味い……生き返りました。でも小一郎様、俺にこんな貴重なものを……」

「兄の狂気に引きずられず、こうして部隊を止め、冷静に兵を休ませてくれるのは、今の木下組には茂助殿しかいませんから」

 小一郎は、俺の顔を真っ直ぐに見つめて静かに言った。


「兄があの調子では、いずれ必ず綻びが出ます。敵は地の利を知り尽くした北畠の軍勢。理不尽な命令ばかり押し付けて申し訳ありませんが、どうか……兵の命と、兄の背中を、助けてやってください」

 手柄に狂う兄の姿に最悪の事態を予感し、いざという時の部隊の命綱を託しに来たのだ。


「……頭を上げてください、小一郎様。俺の方こそ、あなたの細やかな気遣いにはいつも救われています」

 俺は残りの白米を飲み下し、真っ直ぐに小一郎を見返した。

 小難しい軍略の話はいらない。現場で泥にまみれ、上司の尻拭いをする裏方同士だからこそ通じるものがある。


「俺たちは、あの猿……いや、藤吉郎様の無茶振りに振り回される者同士です。これからも、一緒に愚痴を言い合いながら……いざという時は、俺がなんとかこいつらをまとめて、生きて家に帰れるようにしますよ」

「ふふっ……ええ。心強いお言葉です」

 小一郎は、この伊勢の山に入ってから初めて、微かに安堵の笑みをこぼした。


 手柄に狂う上司と、それに振り回される俺たち裏方。

 あの狂った背中を追いかけていけば、遠からずロクな目に遭わないことだけは確かだ。だが、この常識人で優しい弟の前で、俺だけが勝手に逃げ出すわけにもいかない。

 俺はゆっくりと立ち上がり、袴についた泥を払い落とした。


「……さあ、皆の者! そろそろ腰を上げろ! ゆっくりでいい、確実についてこい!」

 俺が声を張り上げると、十分な休息を取った兵たちが「おうっ!」と力強く応えた。


 泥だらけの甲冑は相変わらず重く、顎の痛みもまだ引かない。だが、胃の奥に収まった白米の温かさと、小一郎様との間に結ばれた静かな絆が、俺に少しだけ前に進む活力をくれていた。



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― 新着の感想 ―
この時の秀吉配下はあたおかで回りが見えない 仙石久秀とか居るからなぁ煽られてそうだ
史実だと秀吉唯一の重傷を負う阿坂城攻め コレだけ功に焦って注意力散漫なら当然よな
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