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第82話 南伊勢への触れ、次なる戦場と猿の覚悟

 南伊勢の北畠きたばたけ攻めに向けて、水面下で進められていた軍備がいよいよ佳境を迎えていたある日の夕暮れ。


「茂助様! 大急ぎの報せでございます!」

 慌ただしい足音とともに、屋敷の庭先に一人の若武者が駆け込んできた。

 かつて俺の使い走りであり、桶狭間の地獄を共に潜り抜けた弟分。今や木下組の中で出世を果たした中村一氏――通称、弥七だ。


「おう、弥七か。どうした、そんなに急いで」

 俺が縁側で茶を啜りながら尋ねると、弥七は息を切らしながらも、目をギラギラと輝かせた。

「お館様より、正式な陣触れが下りました! 我ら木下組は先陣として、七日後の早朝には清洲を発たねばなりません。……つきましては、藤吉郎様が軍議のため、茂助様を至急お呼びです!」

「……ついに来たか」

 俺は手にしていた湯呑みを置き、静かに息を吐いた。


 北畠って名門の剣豪大名ってのがいると、半兵衛から聞いている。確か、伊勢の山奥の面倒くさい場所に引きこもって、地の利を生かしてとことん織田家に徹底抗戦する気満々の厄介な連中らしい。

 それにしても、七日後に出陣とは相変わらず狂った短さだ。だが、明日出ろと言われないだけマシに思えてくるのだから、俺の頭もすっかりこの理不尽な日々に毒されてしまっている。


「分かった。すぐに向かう」

 俺は立ち上がり、屋敷の奥へ声をかけた。

桔梗ききょう! 藤吉郎殿に呼ばれたから、ちょっと館まで行ってくる。そのまま陣屋に入るから、しばらく帰れないぞ!」

 すると、奥から桔梗がずっしりと重い麻袋を抱えて走ってきた。


「はい! 伊勢は山深く、足場の悪い難所が多いと伺っております。……下半身を鍛えるには絶好の修練場ですわね!」

「……は?」

「毎晩の四股踏みの成果を、存分に発揮してきてくださいませ。そして、陣中食にはこれをお持ちください」

 桔梗は顔を輝かせて、持っていた重い麻袋を俺に押し付けてきた。


「なんだこれ。随分と重いな」

「炒り大豆と、干した硬い鹿肉ですわ! 強飯ばかりでは筋肉が落ちてしまいます。固い豆と肉をしっかり噛んで、顎と首の筋力も鍛え抜いてくださいませ!」

「……顎まで鍛える必要あるか?」

「当たり前です! 兜の重さに耐えるには首の筋肉が不可欠。無事に帰還されましたら、さらに負荷をかけるために大きな石臼をご用意してお待ちしておりますからね!」

 ……こいつ、俺が戦場に行くのを、山ごもりの荒行に出るくらいにしか思っていない。


 俺は引きつった笑みを浮かべ、大豆と干し肉の袋を受け取った。

「お、おう。……行ってくる」

 出陣の悲壮感など欠片もない妻に見送られ、俺は外で待機していた三太夫や但馬たち護衛を連れて、足早に藤吉郎の館へと向かった。


 ***


「遅せえぞ茂助! 早くこっちに来て、この絵図面を見ろ!」

 藤吉郎の館の奥座敷には、ピリピリとした戦場の空気がすでに充満していた。

 机の上には南伊勢の険しい山々の地形図が広げられ、小一郎様と半兵衛様が真剣な顔で木簡と睨み合っている。


「七日後には全軍の先陣を切って山へ入る。茂助、お前には三百の兵を預ける。木下組の左翼を担い、敵の砦の横っ腹を食い破る役目だ」

「三百……ですか」

 俺は図面を覗き込みながら、小さくため息をついた。


 上洛戦の時は二百五十、京での本圀寺の変では二百を率いた。そして今回は三百。

 俺のような歴史音痴で戦嫌いの凡人に、三百人もの命を預けて最前線の山奥に突っ込ませるのだから、織田家というところは本当にどうかしている。


「どうした、不服か?」

「不服っていうか、相変わらず胃が痛くなる数だなって思いまして」

 俺が本音をこぼすと、藤吉郎はふと手を止め、絵図面の上にドンッと両手をついた。

 そして、ひどく低く、熱を帯びた声で口を開いた。


「……いいか、茂助。お前も分かってると思うが、この伊勢攻めは、俺たち木下組にとって最大の正念場だ」

 俺は藤吉郎の顔を見た。

 その目は、いつものお調子者の猿の目ではなかった。飢えた獣のような、ギラギラとした野心の炎が燃え盛っている。 


「近江での攻城、本圀寺での大立ち回り、そして二条城築城。俺たちは見事にやり遂げ、お館様の期待に応に応えた。……だが、織田家の古参の連中、柴田や佐久間のオッサンたちは、未だに俺のことを『成り上がりの猿』と見下してやがる」

「いや、もう十二分に、『織田に木下あり』ってなってると思いますけどね」

 俺が呆れ気味に口を挟むと、藤吉郎はギリッと奥歯を噛み締めて首を横に振った。


「まだまだだ。戦場いくさばで泥にまみれて、俺たちだけで武功を立てなきゃダメなんだよ。京の都での仕事に引き続いて、この伊勢の過酷な山岳戦……。ここで先陣として誰よりも目覚ましい働きを見せ、北畠の堅陣を打ち砕いてみせれば、もう誰も俺たちを舐めることはできねえ」

 藤吉郎は、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「それに、俺が誰も文句の言えねえ地位につけば、お前ら俺の家臣たちも、もう他の連中から成り上がりの家来なんて馬鹿にされることはなくなる。俺は、俺を信じてついてきてくれたお前らに、いつまでも肩身の狭い思いはさせたくねえんだよ」

 ドンッ! と、藤吉郎の拳が机を叩いた。


「ここが勝負だ。俺は絶対に、この先陣で一番手柄をもぎ取ってみせる。……だから茂助。俺の信頼するお前の三百で、敵の軍勢にに風穴を開けてくれ」

 そこには、かつてないほどのプレッシャーと、「絶対に失敗できない」という異常なまでの覚悟があった。

(……少し、気負いすぎてるな)

 俺ですら、内心でそう思った。


 農民から這い上がり、織田家の偉いオッサンたちに肩を並べようとする男の、とてつもない執念。すでに十分すぎるほど出世しているのに、この猿の頭の中には、とにかく一番手柄を立てて成り上がるという道しかないのだ。俺ならとっくに今の地位で満足して昼寝しているところだが。

 ……ただ、己の野心だけでなく、俺たち下っ端のメンツまで背負い込もうとするあたりが、この猿の妙に憎めないところでもある。


「……分かりましたよ、藤吉郎様」

 俺は小さく息を吐き、地図上の自分の担当する山道を指でなぞった。

(それにしても、道なき道を進むのは骨が折れそうだ。誰か案内してくれるような奴がいたら良いんだけどな。そういえば、戦国時代なのに忍者見てないな)


「俺は手柄なんてどうでもいいですけど、あんたがここで無様に負けたら、俺たちまで巻き添えで首が飛びますからね。……預かった三百は、一人も無駄死にさせずに、きっちり仕事を果たしてみせますよ」

「ガハハ! 言ってくれるじゃねえか! 頼りにしてるぞ、鬼の茂助!」

 藤吉郎はいつものように笑って、俺の背中をバンバンと叩いた。


 だが、その笑い声の裏にある重圧を、俺は確かに感じ取っていた。

 三百の命と、猿の大将の途方もない野心を背負って。

 俺の次なる戦、南伊勢の過酷な山岳戦が、今、静かに幕を開けようとしていた。




 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
甲賀は六角と敵対した関係でやや険悪、伊賀は中立寄りだから金を払えば味方にはなる。後年信雄のアホがやらかして敵対するけど。風魔は関東。茂助が知ってそうなニンジャ情勢
この鹿肉がラッキーアイテムかな?鉛玉止めて、鬼には弾が効かないとか?
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