第81話 長良川の篝火と、水入らずの鵜飼見物
夏から秋へと季節が移り変わる中、美濃・岐阜の城下は、南伊勢・北畠攻めに向けた物資調達で慌ただしさを極めていた。
だが、そんな中で久しぶりに、ポッカリと空白の時間ができていた。
上司の藤吉郎がお館様との軍議で出払っており、小一郎からの急ぎの書類仕事も片付いたためだ。
「たまには、みんなで羽を伸ばすのも悪くないな」
俺は、自腹を切って妻の桔梗と家臣たちを長良川の川岸へと連れ出していた。
目的は、岐阜の夏の風物詩「鵜飼」の見物である。
涼しい川風が吹き抜ける岸辺に床几を並べ、屋台で買った鮎の塩焼きや酒を広げる。
日々の血生臭い戦場や、埃まみれの土木作業から完全に解放された、極上のスローライフ空間だ。
「旦那様、見事な篝火ですね。川のせせらぎと相まって、心が洗われるようです」
俺の隣に座る桔梗が、普段の稽古着ではなく、涼しげな薄手の着物姿でふわりと微笑んだ。
その穏やかな横顔を見ているだけで、日頃のブラック労働の疲れがスッと抜けていく気がする。
「ああ。お館様がわざわざ保護してるだけあって、なかなかの見物だよな。……ほら、桔梗も鮎を食え。焼きたてで美味いぞ」
「はい、ありがとうございます。……ふふっ、美味しい」
上品に鮎を口に運ぶ桔梗に、俺もつられて頬が緩む。
ふと視線を前に向けると、弟の氏光と、三太夫、勘兵衛、但馬の四人が、川岸ギリギリまで身を乗り出して鵜舟を見つめていた。
「おおーっ! 兄上、見ましたか! 今、あの黒い鳥が大きな鮎を丸呑みにしましたぞ!」
京での本圀寺の死闘など、数々の激戦をくぐり抜けてすっかり顔つきが逞しくなった氏光だが、今夜ばかりは年相応の少年のように目をキラキラさせてはしゃいでいる。
「氏光殿、落ちますぞ! ……おおっ、あちらの舟でも! 見事な手並みだ!」
真面目な但馬も、今日ばかりは仕事を忘れて見物に見入っていた。
赤々と燃える篝火が、川底の鮎を驚かせて動きを鈍らせる。そこへ、首を紐で縛られた数羽の鵜が水中に飛び込み、次々と鮎を捕らえては水面に浮上してくる。
鵜匠は、鵜が魚を飲み込もうとするのを手綱で巧みに操り、舟に引き上げては、その喉から鮎を吐き出させていた。
「……あいつら、俺たちみたいによく働く鳥だな」
俺がポツリとこぼすと、酒の入った瓢箪を傾けていた三太夫が、ガハハと笑った。
「違いねえ! ご褒美の小魚をもらって、また水に飛び込む姿なんか、まんま俺たちみたいだ! まあ、俺たちの主は、こんなに美味い鮎と酒をたらふく奢ってくれるがな!」
「三太夫、飲みすぎるなよ。……茂助様、これほど立派な鮎を全員分となると、かなりの出費になりますが……本当によろしいので?」
勘兵衛が、指で算盤を弾く真似をしながら心配そうに聞いてくる。
「いいんだよ。節約生活で多少余裕ができたろ。それにお前らが毎日命懸けで働いてくれてるおかげで、今の俺があるんだ。美味いもん食って、笑える時に笑っとけ」
俺がそう言うと、家臣たちは照れくさそうに顔を見合わせ、それから「ご馳走様です!」と嬉しそうに鮎にかぶりついた。
宴が進むにつれ、酒も回り始め、家臣たちの口からは自然とこれまでの思い出話がこぼれ始めた。
「しかし、こうして長良川を眺めていると、墨俣の頃を思い出しますな」
勘兵衛が、しみじみと杯を傾けながら川面を見つめた。
「あの時は、この川の上流から切り出した木材を流して、七日にして砦を組み上げた。美濃攻めの一番の功労者は、間違いなく茂助様のあの奇策と稲葉山城の搦手の攻略でした」
「おうよ! あの時は俺たちも無我夢中だったが、『激流の中、筏に自らの身体を括りつけて退路を断つ』って発想には度肝を抜かれたぜ!」
三太夫が鮎の骨を器用に吐き出しながら同意する。
(いや、あれは筏から落ちるのが怖くて、ロクに考えることもせずに括りつけてしまっただけで……)
俺は内心でツッコミを入れつつも、苦笑いで酒を飲んだ。
「それに、京への上洛戦! あれも凄まじかった!」
但馬が熱を帯びた声で身を乗り出した。
「箕作城での夜襲の折、吉晴殿が自ら全軍の先頭に立ち、無数の松明を掲げて敵の戦意を根こそぎ奪い取ったあの『光の行軍』! 敵も味方も、吉晴殿の恐るべき心理戦に震え上がったものです!」
(あれは、怖いから明るくしただけで、道に迷って最前線に躍り出てしまっただけなんだがな……)
「極めつけは、京の都に入った時のことだ!」
三太夫が酒瓶をドンと置いて立ち上がった。
「お館様の大事な荷車が野壺に落ちた時、俺たちが目を離した隙に、若は自らその肥溜めに飛び込んで荷を救い出した! 将軍様の御前で天下の美名を轟かせた直後に、部下の失態を被ってウンコにまみれる。その自己犠牲の精神、まさに武士の鑑!」
「うむ! 泥にまみれてもなお光り輝く、吉晴殿の御威光……不肖但馬、あの日ほど心打たれた日はございませぬ!」
但馬が男泣きしながら杯を空ける。
(三太夫か但馬があの場にいたら、お前らに飛び込ませてたわ……思い出しただけで吐きそう……)
「そして、本圀寺での戦い!」
今度は氏光が、目を輝かせて語り始めた。
「三好の軍勢に囲まれた絶体絶命の窮地。兄上の軍略により、裏門を死守することができ、お館様や将軍様からもお褒めの言葉を頂いたことで、堀尾家の名も天下に轟きましたぞ!」
(本当は逃げようとしていたなんて、言えないよな。)
次々と語られる、俺の勘違い武勇伝。
だが、それを熱っぽく語る彼らの顔は、どれも真剣で、どこか誇らしげだった。
俺はこめかみを押さえて苦笑しながらも、ふと気づいた。
俺の行動の裏側はどうあれ、結果として俺たちは、あの地獄のような戦場を誰一人欠けることなく生き延びて、今ここで酒を飲んでいる。
あの修羅場を一緒に乗り越えてきたという事実だけは、揺るぎない本物なのだ。
「……お前ら、昔話はいいから酒を飲め」
俺が照れ隠しにそう言うと、四人は「はっ! いただきます!」と笑って杯を合わせた。
「……本当に、皆様は旦那様のことがお好きなのですね」
俺の隣でその様子を静かに見守っていた桔梗が、優しく目を細めた。
「うるさくてごめんな。でも、あいつらがいてくれるから、俺もなんとかやっていけてるんだ」
「ええ。……まるで、大きな家族のようですね」
家族。
その言葉が、スッと胸の奥に落ちてきた。
現代から一人でこの戦国時代に放り込まれ、最初はただ生き延びることだけで必死だった。
だが今は、俺には隣で微笑んでくれる妻がいて、ちょっと頭は悪いけど頼りになる部下たちがいて、守るべき弟がいる。
「桔梗」
「はい?」
「お前と初めて会った時のこと、覚えてるか?」
俺が不意に尋ねると、桔梗は少しだけ目を丸くし、それからクスリと笑って頬を染めた。
「もちろんです。清洲の父の屋敷で……私が女の身で薙刀を振るい、世を呪っていた時。旦那様は『性別関係なく、みんな何かに縛られてる』と、私の心を軽くしてくださいました」
「あー……そんなことも言ったな」
「それに……下男たちが動かせずに困っていた庭石を、旦那様は一人で軽々と持ち上げられました。あの圧倒的な力強さと、気さくな笑顔……私が旦那様に惹かれた、大切な思い出です」
俺は冷や汗をかきながら、桔梗の美化された思い出に苦笑いした。
だが、あの日、見栄を張って重い石を持ち上げたおかげで、今のこの平和な時間があるのだとすれば、あの時の筋肉痛も決して無駄ではなかった。
「上洛戦の時も、お前が俺の背当てに手縫いの鉄板を仕込んでくれたおかげで、矢を防げて命拾いした。お前には感謝してもしきれないよ」
「とんでもございません。旦那様がご無事で帰られることこそが、私の何よりの喜びです」
桔梗のその真っ直ぐな言葉に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
ここが俺の居場所なのだと、確かな実感が湧いてきた。
だが、川面を見つめたまま、桔梗が少しだけ不安そうに声を落とした。
「……次の伊勢の戦も、長引くかもしれませんね」
武家の妻として、出陣する夫を引き止めるようなことは決して言わない。だが、その声の微かな震えが、彼女の隠しきれない本音を物語っていた。
南伊勢を治める北畠家は、名門中の名門らしく、剣豪大名としても知られる強敵らしい。生半可な戦にはならないだろう。
俺は、桔梗の膝の上に置かれた小さな手を、そっと自分の手で包み込んだ。
「大丈夫だ。俺は絶対に無理はしないし、あいつらにも無茶はさせない。一番安全な場所から、全員揃って必ず帰ってくるさ」
「……はい。お待ちしております」
桔梗は、安心したように俺の手に自分の手を重ね、柔らかく微笑んだ。
「おーい! 兄上、義姉上! あっちからもっと大きな鵜舟が来ますぞ!」
少し離れた場所から、氏光が口の周りに塩をつけたまんま大きく手を振っている。
その後ろで、三太夫が「若、俺の酒も飲んでくだせえ!」と冗談を言い、但馬に「馬鹿者、氏光殿にはまだ酒は早い!」と怒られ、勘兵衛が「鮎の追加はこれで最後にしてくださいよ」と呆れている。
「ほら、お前らももっと食え! 鮎ならまだあるぞ!」
俺が声を張ると、「おおっ!」という元気な歓声が夏の夜空に響き渡った。
夏の夜風に揺れる篝火と、俺の家族たちの陽気な笑い声。
血生臭い戦国時代にあって、この穏やかで何気ないひとときは、何物にも代えがたい宝物だ。
俺は、香ばしい鮎の身を齧りながら、心の中で強く誓う。
伊勢の戦場がどんな地獄だろうと、絶対に生き残る。この穏やかな夜を、来年もまた、この家族全員で笑いながら迎えるために。
長良川の川音は優しく、束の間の平和な夜は、温かい空気の中でゆっくりと更けていった。




