第80話 天才軍師と、空飛ぶ茂助
南伊勢の北畠攻めの噂が城内で現実味を帯びて囁かれ始めた頃。俺は、ふと時間が空いたのをこれ幸いと、竹中半兵衛の屋敷を訪ねていた。
「よく来てくれましたね、茂助殿。……墨俣で出会ったあの日の約束、忘れてはいませんよね?」
書斎に通されるなり、半兵衛殿は静かな笑みを浮かべて身を乗り出してきた。相変わらず体が細く、少し血色は悪いが、その切れ長な目には天才特有の鋭い知性が光っている。
「……え、忘れてませんよ。えーっと、俺が飛ばした紙飛行機の話でしたっけ。そうだ! それを説明に来たんですよ」
腹が減りすぎて、たかりに来たとは決して言えない。
俺は「あー」と頭を掻きながら、手持ち無沙汰に机の端にあった書き損じの和紙を一枚手に取った。
「いや、詳しくって言われても、俺もただの子供の遊びとして知ってるだけなんですけどね。見ててください」
俺は和紙を縦に半分に折り、角を合わせ、キュッキュッと折り目をつけていく。物の数秒で、流線型の『紙飛行機』が完成した。
「羽を平らにして前に押し出すと、下から風がふわっと持ち上げてくれるんですよ。詳しい理屈はよく分かんないんですけど、風の上を滑る感じで」
俺がスッと手首を返して紙飛行機を飛ばすと、それは書斎の空間を美しい放物線を描いて滑空し、襖の前にストンと落ちた。
「……風が、持ち上げる、ですか」
半兵衛殿は落ちた紙飛行機を拾い上げ、穴が開くほど見つめている。
「あと、あの時言っていた気球ってやつ。俺、子供の頃に乗ったことあるんですよねー。家族旅行で」
気球から見た、山々の壮大な景色は今もまぶたに張り付いている。
「……は?」
半兵衛殿の動きが、ピタッと止まった。
「乗った……? 貴殿が、空を飛んだんですか?」
「はい。まあ、俺には、なんで飛ぶのかサッパリですし、飛んだと言うよりかは、浮いたって感じですね」
俺は当時の記憶を思い出しながら、適当に手でジェスチャーをした。
「人が乗るカゴの上にすっげえデカい袋があって、その下でボーボー火を焚いてるだけなんです。焚き火の煙って、上に向かって昇っていくじゃないですか? あれと同じで、袋の中に熱い空気をパンパンに溜め込むと、空気が勝手に上に行こうとして、カゴごとフワ〜って空に浮き上がるんですよ。不思議ですよねー」
書斎の空気が、凍りついたように静まり返った。
半兵衛殿は、紙飛行機を持ったまま、瞬き一つせずに虚空を見つめている。
「……人が、空に浮く。熱気は上に昇る……そうか、その理屈を利用すれば……」
半兵衛殿の目が、恐ろしいほどの熱を帯びて光り始めた。
「夜の闇に紛れて巨大な袋を空へ放ち、それに文や火種を括り付けて敵陣の背後に落とす……いや、実際に人が乗れるのなら、上空から敵の陣立てや山の地形を正確に測量できる……っ」
ブツブツと呟き始めた天才軍師の顔は、新しい兵器の概念を与えられた学者のような、異常な熱を孕んでいた。
(やべっ。これ、俺の適当な説明のせいで、とんでもない新兵器開発の責任者に任命されるフラグじゃないか?)
「あ、あの! 半兵衛殿! 俺が知ってるのはマジでこれだけですからね! 人が乗れるようなでっかい布をどうやって縫うかとか、火事にならない火の調整とか、実現するにはめっちゃ難しい技術が要りますから! 俺には絶対作れませんよ!?」
俺が必死に予防線を張ると、半兵衛殿はハッと我に返り、クスッと笑って紙飛行機を懐にしまった。
「ご案じなく。貴殿のその重い腰を上げるのが至難の業だということは、よく分かっていますから。……しかし、見事です。貴殿の自由な発想は、常に私の凝り固まった戦術の枠を壊してくれる。この理屈、私が大事に預からせていただきます」
半兵衛殿が満足そうにお茶を啜ったところで、俺はホッと息をつき、ずっと気になっていた別の話題を切り出した。
「ところで半兵衛殿。今日は一つ、俺の方からも教えてほしいことがあって来たんです」
「ん? 何でしょう?」
「うちのボス……お館様のことです。本圀寺で俺の引き抜き話を潰すため……いや、義昭様を安心させるために、お館様は義昭様から『副将軍』の職を受けるって言いましたよね?」
俺の言葉に、半兵衛殿は静かに頷いた。
「でも、あんな地獄の突貫工事で城を建ててあげたのに、お館様は結局、何の役職も貰わないまま岐阜へ帰ってきちゃいました。……なんでですかね? 普通、あんな大出世のポスト、喜んで貰うもんじゃないんですか?」
「お館様は、誰の下にもつくおつもりなどないからです。将軍を擁立したのはあくまで大義名分。幕府という古い組織の枠組みに組み込まれることを嫌われたのでしょう」
「でも、約束したものを履行しないのは、武士としての体面は大丈夫なんですか? 将軍様の面子も潰しませんか?」
半兵衛殿は面白そうに唇の端を吊り上げた。
「ええ、だからこそ、お館様は『受けない』とは一言も仰っていない。そそくさと岐阜に帰ってこられたのも、時間稼ぎのためですよ」
「時間稼ぎ?」
「以前、義昭様は『管領』か『副将軍』のどちらかをと打診されました。お館様があえて『副将軍』を選ばれた理由が分かりますか?」
「えっと……名前がかっこいいから?」
「違います」
半兵衛殿は、かぶせ気味に突っ込むと筆の柄で机の上をコツッと叩いた。
「管領は幕府内の役職ゆえ、準備にそこまで時間が掛かりません。対して副将軍は、朝廷からの『宣下』が必要となる。……つまり、儀式に向けて帝や公家衆へ根回しを行ったり、細かな日程調整をしたりと、途方もない手間と時間がかかるのです」
「あっ!」
俺は思わず声を上げた。
つまり……『朝廷の超VIPたちとのスケジュール調整が難航してましてー』という大義名分を盾にして、無限に就任を先延ばしにできるってことか!
「その通りです。お館様は将軍の面子を直接潰すことなく、『朝廷の都合』を理由にのらりくらりと就任を先延ばしにして、実質的に幕府の権威だけを手足として利用している。あの場での受諾は、義昭様を黙らせつつ、逃げ道まで用意された完璧な一手だったのですよ」
「……っ」
俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
天下人クラスの栄誉すら窮屈な鎖としてあっさり捨て、朝廷という最強のスケジュール調整の壁すらも計算に入れて、義昭様を完全に手玉に取る。うちのボスの底知れぬ野心と合理主義に、改めて恐怖を覚えた。
「お館様は、底なしの化け物ですよ、本当に……」
「ええ。我々はその化け物の腹の中で、こうして必死に生き残る算段をしているわけです」
半兵衛殿はふぅと息を吐き、そして懐から先ほどの『紙飛行機』を取り出して、指先で弄んだ。
「権威という名の重力に縛られず、己の力だけで空を切り裂いて飛ぶか。……お館様は、まるでこの紙飛行機のようですね」
天才軍師のその呟きは、感嘆とも、畏れともつかない響きを持っていた。
(……俺は、地面を這いつくばってでも生きていたいけどな)
どこまでも高く飛ぼうとする主君と、それを見上げる軍師。俺は彼らの見ている景色の途方もなさに眩暈を覚えながら、出されたお茶を無言ですするのだった。
けほっ。
半兵衛が、ふと口元を押さえた。咳というには小さすぎる、息の乱れのようなものだった。
白い指が一瞬、唇に触れ、それだけだった。俺が「大丈夫ですか」と口を開きかけると、半兵衛殿はもう微笑んで、紙飛行機をそっと机の上に置いた。
「茂助殿、お茶が冷めますよ」と静かに言って、また庭へ目を戻した。俺はそれ以上、何も聞けなかった。
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