第77話 出世した男、弥七との一献
俺の自業自得の金欠による極限の倹約生活が続く中、木下藤吉郎の館へ顔を出す用事があった。
(あぁ……腹減った。藤吉郎のところに行けば、もしかしたら茶菓子か、運が良ければ飯くらい出るかもしれない……!)
そんな浅ましい期待を胸に、俺は岐阜城下にある木下邸の門をくぐった。
かつては城下の隅にあった木下邸だが、今や藤吉郎は織田家の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いの大出世頭である。上洛戦や二条城の普請で大功を立てたことで、屋敷は大きく増築され、忙しそうに行き交う家臣や小者たちの数も、昔とは比べ物にならないほど増えていた。
「おーい、茂助! 遅かったじゃねえか!」
奥の座敷へ通されると、すでに上機嫌の藤吉郎が酒杯を傾けていた。そしてその横には、見慣れぬ立派な身なりの若武者が、姿勢良く控えている。
「え、そんな遅かったですか? ……ところで、そちらのお方は?」
俺が首を傾げると、その絹の小袖を着た若武者が、パッと顔を輝かせて立ち上がった。
「茂助様! 俺ですよ、俺! 弥七です!」
「……は?」
俺は目を丸くした。
弥七といえば、俺が木下組の使い走りだった頃、あの絶望的な桶狭間の戦いで共に死線を潜り抜けた、あの小汚い鼻垂れ小僧の弥七か!?
言われてみれば面影はあるが、あの頃のボロボロの衣服と泥だらけの顔はどこへやら。今や立派に月代を剃り、腰には見事な太刀を帯びた、堂々たる『武士』の顔つきになっている。
「弥七……お前、随分と立派になって……!」
「へへっ! 実は、今までの働きを藤吉郎様にお認めいただきまして。ちゃんとした『名字』と『諱』をいただいたんです」
弥七は、エッヘンと胸を張った。
「藤吉郎様のご出身地である尾張国・中村郷の『中村』を名乗ることをお許しいただき、俺は『中村一氏』と名乗ることになりました!」
「おおー! 中村一氏! 主君の故郷の名前を貰うなんて、とんでもない大出世じゃないか!」
(まさか、あの鼻垂れ小僧で、足軽だった弥七がここまで登り詰めるとは……。本当に実力主義だな)
「ガハハ! そうだろ! こいつは頭の回転も速いし、何より裏方の段取りが抜群に上手ぇからな。桶狭間の頃から、お前の下でしごかれたお陰だぜ、茂助」
藤吉郎が上機嫌で酒を注ぐ。
「というわけで、今日は一氏の昇進祝いも兼ねた一献だ! 茂助、打ち合わせの前に、お前も遠慮なく飲め! 極上の酒と、美味い肴をたんまり用意してあるぞ!」
「……ッ!!」
俺の目に、熱い涙が込み上げた。
ここ数日、勘兵衛の厳しい監視の下、鳥のエサのような雑穀飯と沢庵ばかりをかじっていた俺の胃袋にとって、目の前に並べられた鯛の塩焼きや、鴨肉のあぶり、そしてなみなみと注がれた清酒は、まさに天上のご馳走だった。
「いただきますっ!!」
俺は「武士は食わねど」の体面を屋敷に置き忘れ、恥も外聞もなく貪るように肴にかじりつき、美味い酒を喉の奥へと流し込んだ。
***
「いやぁ……あの頃は、本当に毎日が生きるか死ぬかでしたよね」
宴もたけなわとなり、藤吉郎が「ちょっと便所」と席を外した隙に、俺と弥七こと一氏は二人きりで盃を交わしていた。
「桶狭間の嵐の中、今川の大軍のど真ん中に、泥まみれになって斜面を転がり落ちて……」
「そうそう! お前なんか、敵の顔を見た瞬間に腰を抜かして泣きべそかいてたもんな」
立派な身なりになっても、一氏の笑い顔は、あの頃の弥七のままだった。
「でも、俺はあのどん底の死線で、茂助様から色んなことを教わりました。……極限の状況で、どうやって道を切り開くか。いざという時、どうやって腹を括るか」
「おいおい、そんなだいそれたもんじゃねーよ」
一氏は静かに盃を見つめ、そして深く頭を下げた。
「あの地獄で、茂助様が一番先頭を切って敵陣に飛び込み、俺たちに背中を見せてくれたこと、俺は絶対に忘れません」
「……えっ?」
「敵の大軍を前に震える俺たちを奮い立たせるように、茂助様は一切の躊躇なく、単身で敵の真っ只中へ突っ込んでいった。……あのお姿を見て、俺は人の上に立つ者の『覚悟』というものを学ぶことができたんです」
一氏は、真っ直ぐな尊敬の眼差しで俺を見た。
「ま、まぁ先輩だし背中を見せないとな」
(本当は、藤吉郎に叩き落とされて敵陣のど真ん中に落下しちゃったのは内緒にしとくか)
「あのどん底の日々があったからこそ、俺は今、こうして侍として藤吉郎様をお支えすることができています。……茂助様。本当に、ありがとうございました」
「……よせよ。お前が自分の力で掴み取った出世だろ。胸を張れよ、中村一氏殿」
俺が照れ隠しに笑って盃を合わせると、一氏も嬉しそうに目を細めて盃を飲み干した。
(それにしても……)
俺は、美味い鴨肉を噛み締めながら、ふと感慨に耽った。
少し前まで、足軽に毛が生えたような下働きだった男が、今や一軍の将として立派に名乗りを上げている。
藤吉郎の出世スピードも異常だが、それに引き上げられるようにして、織田家という組織全体が、とてつもない熱量と速度で膨張し続けている。
昨日までの農民が今日の侍になり、明日の大将になる。それが、この狂った戦国時代であり、織田信長という魔王の求心力なのだ。
(俺はただ、安全な後方で快適なニート生活を送りたいだけなんだけどな……)
誰も彼もが野心を燃やし、上を目指して駆け上がっていく中、俺一人だけが全力で現状維持を目指している。
この凄まじい上昇気流の中で、いつまで俺は今のポジションにしがみついていられるだろうか。いや、下手すれば一氏と一緒に、もっと面倒くさい重役にまで引き上げられてしまうのではないか。
「茂助様? どうされました、箸が止まっておりますよ。お口に合いませんでしたか?」
「ん? ああ、いや。この先のことを考えたら、少し胃が痛くなって……いや、鴨肉が美味すぎて感動してただけだ」
俺は不安な未来を振り払い、残りの酒を一気に煽った。
先のことは分からない。だが今は、立派に出世したかつての弟分と、この美味いタダ酒の味を、心ゆくまで堪能することにしよう。
俺と一氏は、帰ってきた藤吉郎と共に、夜が更けるまで下積み時代の馬鹿話に花を咲かせるのだった。
弥七くんは、第一部以来の登場です。




