第76話 無駄遣いと、強烈な愛妻家
死の淵を彷徨った京での激闘と、胃に穴が開きそうだった二条城の突貫工事から帰還して数日。
俺は岐阜の自邸の奥座敷で、特注の最高級蕎麦殻枕に頭を沈め、南蛮渡来の毛織物(羅紗)の肌掛けに包まりながら、至福の惰眠を貪っていた。
(あぁ……極楽だ。やっぱり俺には、戦場よりもこの快適グッズに囲まれたニート生活が一番合ってる……)
「茂助様ァァ!!」
ドンッ!! と、背後の障子が親の仇のように激しく開け放たれた。
振り返ると、事務・経理担当の勘兵衛が、血走った目で分厚い帳簿と大量の請求書を握りしめ、鬼の形相で立っていた。
「どうした勘兵衛。そんなに慌てて。せっかくの休日だぞ、もっと心にゆとりを……」
「ゆとりなどありませぬ! 我が堀尾組の財政が、完全に火の車でございます!」
「……はい?」
勘兵衛は、ドサリと俺の目の前に請求書の束を突きつけた。
「此度の上洛戦国と京での御働きにより、お館様から有難い加増と恩賞の沙汰をいただいたばかりだというのに……茂助様の無駄遣いが過ぎるのです!」
「む、無駄遣いって、人聞きの悪い……」
「京へ上る前からの『最高級綿入りの特注半纏』や『南蛮毛織物』のツケ! さらに、帰還して早々に買い漁った特上の茶器に、絹のふかふか座布団、極めつけは今焚いている高級な白檀の香木だとォ!?」
勘兵衛はバンバンと帳簿を叩きながら、さらに青筋を立ててまくし立てた。
「それだけではありません! 京での長期滞在における食費です! なんですかこの請求の山は! 高級な湯豆腐に、干し鮑や鯛の塩焼き、高価な京菓子、さらには一流の料理人を招いての食事会!? 戦に出向いて、公家のような贅沢をしてどうするんですか!」
「ま、待てよ! あの地獄を耐え抜いたんだぞ!? 京の美味いもんでも食ってストレス発散しないと、俺の精神が崩壊しちゃうだろ! それに、給料も上がってボーナスも出たんだから少しくらい……」
「ご褒美で家が傾いてどうするんですか! 加増分など、とっくに京のツケで消し飛びました! 武家の体面を保つための屋敷の修繕費や、部下たちを養う金は残さねばなりません。ゆえに今日から茂助様の食費と生活費を極限まで削りますぞ!」
勘兵衛は嵐のように言い捨てると、帳簿を抱えて去っていった。
俺は高級座布団の上で、一人真っ白に燃え尽きていた。天下の織田軍で出世し、給料も上がったというのに、自業自得のグルメと散財で首が回らない。己の欲望の恐ろしさここに極まれりだ。
***
その日の夕餉。
この時代はまだ一日二食が基本だ。腹を空かせて膳の前に座った俺は、出されたものを見て思わずため息をついた。
「……桔梗。これは」
「はい、旦那様。勘兵衛殿より『極限の倹約を』と申し付かりましたゆえ」
お膳の上にあるのは、粟や稗、刻んだ大根葉をたっぷりと混ぜ込み、米の割合を限界まで減らした強飯がポツンと盛られ、具の入っていない薄い塩汁、そして申し訳程度の沢庵が二切れだけだった。
つい先日まで京料理やすっぽん鍋を腹いっぱい食っていたのが嘘のような、絵に描いたような質素な食卓である。
「武家の妻として、夫の窮地を支えるのは当然の務め。……私も、旦那様と共にこの強飯と沢庵で耐え忍びます」
桔梗は真剣な顔で頷いている。
そもそも俺が京で美味いものを食いまくり、裏で快適な睡眠グッズを買い漁ったせいでこうなっている手前、彼女の健気な姿勢に文句を言うわけにもいかない。
「……すまん。ありがとうな」と力なく笑い、俺はボソボソとした強飯をかじり始めた。
「――ご免」
俺が悲しく沢庵をボリボリかじっていると、玄関の方から静かな、しかし凛とした声が聞こえた。
三太夫が取り次ぎに出て、すぐに奥へ戻ってくる。
「若! 明智光秀様がお見えですぜぇ!」
「は? 光秀様が?」
「急なお客様ですね。旦那様、私は奥へ下がります」
桔梗が武家の妻の作法に則り、スッと立ち上がって奥の間へと姿を消そうとした。
「いやいや、いいよ桔梗。せっかく光秀様が来たんだから、ちょっと紹介するよ」
「えっ? ですが、殿方の集まりに女が顔を出すなど……」
「固いこと言うなって。ほら、こっち来て」
戸惑う桔梗を、俺は現代人の感覚で「同僚に嫁を紹介する」ような軽いノリで引き留め、共に客間へと向かった。
そこには、京から信長様に随行して岐阜へやってきていた明智光秀が、静かに座って待っていた。
光秀は、通された客間や、手入れの行き届いた庭をぐるりと見渡して、静かに頷いた。
「茂助殿。流石は、織田家のなかでも躍進著しい木下藤吉郎殿の与力として、大いに御活躍中の貴方にふさわしい。質実剛健にして見事なお屋敷ですな。お館様の威光を示すため、武家の体面をしっかりと保っておられる」
またいつものが始まった。
「は、はあ。ありがとうございます。光秀様、今日はどんしたんですか? あ、こちらは俺の妻の桔梗です」
「お初にお目にかかります。堀尾茂助が妻、桔梗と申します」
桔梗が三つ指をついて深く頭を下げると、光秀も「これはご丁寧に」と丁寧に頭を下げた。
「岐阜での政務の合間に、共に京の地獄を乗り越えた茂助殿の顔が見たくなりましてな。……む?」
光秀の視線が、ふと、客間のふすま越しに見える奥の板間で止まった。
そこには、俺と桔梗が食べていた質素すぎる夕餉の膳が、片付けられる間もなくポツンと残されていたのだ。
米粒すらまばらな雑穀の強飯に、具のない塩汁と、沢庵。
俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
(うわっ、最悪だ! 将軍様の側近で、エリートの光秀様に、あんな貧乏くさい食事を見られるなんて! せっかく加増されたのに、散財して金欠になってるなんてバレたら、絶対に呆れられる!)
俺が必死に誤魔化す言葉を探していた、その時だ。
光秀は、ハッとしたように目を大きく見開き、立派な客間と、貧相な夕餉、そして桔梗を交互に見つめた。そして、何かとてつもなく尊いものを見るような、潤んだ瞳で静かに頷いた。
「そうか……。腹を満たさずとも、名を満たす。武士の鑑だ。まさにそれを見せつけられた思いです」
「えっ?」
「此度のお働きで随分と加増されたと聞いておりましたが、貴方は屋敷の体面を保つことには銭を惜しまず、己の私腹を満たすことには一切の銭を使われない。……そして何より、奥方様です」
光秀は、桔梗へと視線を向け、どこか懐かしむような、熱を帯びた瞳になった。
「これほどまでの清貧を強いられながらも、一切の不満を顔に出さず、夫の志を共に支えておられる。……実を申せば、そのお姿を見て、私の妻である熙子のことを思い出しておりました」
「光秀様の、奥様ですか?」
「ええ」
光秀は、普段の冷静沈着な顔を崩し、ふっと破顔した。
「私が越前で浪人の身としてひどく困窮していた頃……客人を招くための宴の銭すら用意できなかった私のため、熙子は自らの美しい黒髪を切り、それを売って宴の支度を整えてくれたのです。ああっ、熙子……! あの時の妻の慈愛と覚悟、私は生涯忘れることはありませぬ! ゆえに私は、側など一生持たず、熙子ただ一人を命懸けで守り抜くと心に誓っております!」
(えっ……なにこのエリート、急に特大のノロケぶっ込んできたんだけど!?)
あまりの熱量に俺がドン引きしていると、光秀は「おっと」と咳払いをして、再びいつもの真面目な顔に戻った。
「つい、妻の話になると熱くなってしまいましたな。……茂助殿も、良き奥方を持たれましたな。夫の清貧を共に笑って支える女の強さ、何よりも尊いものです。お互い、妻を生涯大事にいたしましょう」
光秀は、一人で深く、深く納得したように頷いた。
「お二人のその崇高な『夫婦の絆』、しかと胸に刻ませていただきました。本日はこれにて」
それだけ言い残すと、光秀は満足げな笑みを浮かべ、静かに身を翻して帰っていった。
遠ざかる愛妻家エリートの背中を呆然と見送った後、俺は空中にさまよっていた右手をそっと下ろした。
(……まあ、ただの散財で金欠になってるってバレて軽蔑されるよりは、都合がいいか。……というか、光秀様の嫁ガチ勢っぷりが凄すぎて全部持っていかれたな)
明智光秀からの好感度と尊敬が、またしても理不尽にストップ高を記録してしまった。
とはいえ、腹が減っている現実は変わらない。俺は静かに奥の部屋へ戻ると、高級な白檀の香りが漂う空間で、妻と共に沢庵をボリボリとかじり直すのだった。
武士は食わねど高楊枝
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