第75話 ハイテンションな帰還と、見透かされた強がり
長かった京での過酷な日々を終え、俺たち堀尾組はようやく本国である美濃・岐阜へと帰り着いた。
「若。ここは俺たちに任せて、早くもどってくだせえ。奥方も首を長くしてお待ちでしょうぜ」
荷の解体を指示していた三太夫に言われ、俺は我が家へと向かった。
岐阜の自邸。俺が岐阜攻めの功で拝領した、南向きで日当たり良好な分不相応な立派な屋敷だ。
門の前に立ち、俺は両手で自分の頬を「パンッ!」と強く叩いた。
(よし、気合入れろ俺! 極度の睡眠不足でミイラみたいな顔になってるけど、桔梗に心配かけちゃ駄目だ。天下の織田軍で最前線を張る男らしく、堂々と凱旋するんだ!)
俺は無理やり口角を引き上げ、120%の作り笑いを浮かべると、勢いよく引き戸を開け放った。
「おう! 戻ったぞ桔梗! いやー、京の都は最高だったぜ! 仕事もサクッと終わらせてきたしな! ガハハハ!」
カラ元気全開で土間に足を踏み入れると、奥から妻の桔梗がパタパタと小走りで出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
三つ指をついて頭を下げる桔梗。俺は「おうおう、苦しゅうない」と胸を張って草鞋を脱いだ。
桔梗がスッと立ち上がり、俺の荷や刀を受け取る。
その時、彼女の視線が、俺の泥と埃に塗れた手足や、どす黒い隈ができた目の下でピタリと止まった。
「……随分と、お疲れのようですが」
「あー、ははは! まあちょっと道中長かったからな! でも全然平気! 俺クラスになるとこれくらい朝飯前よ! さあ、飯でも食うか!」
俺が胸を張って笑うと、桔梗は少しだけ目を伏せ、「……湯の支度をさせております。お召し替えを」とだけ言って、甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
縁側に用意された大きなたらいで「行水」をする。
「私がお流しします。戦の穢れ、完全に落とさねば。……シッ! ハッ!」
「い、痛い痛い! ……じゃなくて! あー、効くねえ! 京のなまった体にその力強い摩擦が最高だぜ!」
背中の皮が剥けそうなスパルタ摩擦に泣きそうになりながらも、俺は必死に強がった。
行水を終えると、部屋には夕餉が用意されていた。
「旦那様。精をつけていただかねば」
ドンッ、と置かれたのは、マグマのように煮えたぎる鍋。丸ごとのニンニクと、見覚えのある甲羅のようなものが沈んでいる。
「……桔梗。これ、何を作らせたんだ?」
「旦那様がお痩せになっておられたゆえ、『すっぽん』を仕留めてまいりました! さあ、食は戦です!」
(俺の胃は今、おかゆとか雑炊を求めてるんだが!?)
内心で絶叫しつつも、俺は「うおお! 気の利く嫁だぜ! ガツンと食ってやる!」とテンション高く叫び、涙目で泥臭いすっぽんにかじりついた。
***
その夜。
ふかふかの煎餅布団に横たわった俺は、泥のように深い眠りに落ちていた。
どれくらい眠っただろうか。
――ガタンッ。
ふと、家の外で何かが倒れるような、小さな物音がした。
野良犬が裏の木桶を引っくり返したか、風で戸板が鳴っただけの、ありふれた音。
「――っ!!」
だが、俺の体は弾かれたように跳ね起きていた。
心臓が、早鐘のように激しく打ち鳴らされている。額からは滝のような冷や汗が噴き出し、呼吸が浅く、荒くなっていた。
『敵襲ゥゥッ!! 三好の軍勢じゃァァッ!!』
『門を死守しろ! ここを抜かれれば公方様の首が飛ぶぞ!!』
暗闇の中で、俺の耳の奥にあの夜の怒号が蘇っていた。
本圀寺の裏門。降りしきる雪。松明の炎に照らされた、敵兵たちのギラギラとした狂気の目。顔に飛び散った生温かい血の感触。
「はぁっ……はぁっ……!」
ここは京じゃない。頭では分かっているのに、体の震えが止まらない。俺は暗闇の中で、手近にあった刀を無意識に握りしめ、見えない敵に向かって構えていた。
「……旦那様」
背後から静かな声がして、行灯に火が灯された。
ハッとして振り返ると、桔梗が心配そうな顔でこちらを見つめていた。
(しまった、起こしちゃったか!)
俺は慌てて刀を下ろし、いつもの引きつった笑顔を顔に貼り付けた。
「お、おう桔梗! 起こして悪かったな! いやー、ちょっと夜中に目が覚めちゃってさ。なまくらにならないように、軽く素振りでもしようかと思って! はははっ、俺ってば熱心だろ?」
ペラペラと軽口を叩いて誤魔化そうとする俺。
だが、俺の握る刀の先は、カタカタと情けない音を立てて震え続けていた。
桔梗は、俺のその震える手元をじっと見つめ――やがて、静かに立ち上がり、俺の元へと歩み寄ってきた。
「おいおい、なんだよ。まさか『目が覚めたのなら四股を踏みましょう!』とか言い出すんじゃないだろうな? 今日はもう勘弁して……」
言いかけた俺の言葉は、途切れた。
桔梗が俺の手からそっと刀を抜き取り、床に置いたからだ。
そして彼女は、冷や汗まみれで強張っている俺の背中に、そっと両手を回し、ゆっくりとさすり始めた。
「……桔梗?」
「もう、よろしいのです」
暗闇の中、桔梗の声はどこまでも穏やかで、優しかった。
「無理に笑わなくても、よろしいのです。強いお姿など、見せなくともよいのです」
「……何言ってんだよ。俺は元気いっぱいだぜ。京の戦だって……」
「京でどれほど恐ろしい目に遭われたか。どれほど理不尽で重いものを背負わされたか。私には計り知れませぬ」
桔梗の温かい手が、強張った俺の背中の筋肉を少しずつ解きほぐしていく。
「帰ってこられた時、旦那様がご自身の頬を叩いて、無理に作り笑いを浮かべておられたこと、分かっておりました」
「えっ……」
「旦那様は、不器用でお優しい方ですから。私に心配をかけまいと、必死に『鬼』を演じておられたのですね」
桔梗は、俺の背中にそっと額を押し当てた。
「ですが……ここは、旦那様のお家です。強がる必要など、どこにもございません」
「…………」
「こうして私のもとへ、生きてお戻りになった。……今は、それだけで十分でございます。よう、生きてお帰りなさいました」
その言葉が耳に届いた瞬間。
俺の中で必死に張り詰めていた見えない糸が、ふっとほどけた。
京での死闘の恐怖も、無理に作り上げていたハイテンションの仮面も、すべてがこの不器用で温かい両手によって浄化されていくような気がした。
「……ああ、駄目だ。全部バレてたか」
俺は震えの治まった手で、自分の顔を覆った。
耳の奥で鳴り響いていた戦場の幻聴は、いつの間にか消え去っていた。
「……怖かった。マジで死ぬかと思ったし、毎日石運ばされて逃げ出したかった。……もう、あんな地獄はご免だ」
絞り出すようにこぼれ落ちた、俺の情けない本音。
だが、桔梗はそれを笑うことも咎めることもなく、ただ強く、背中を抱きしめ返してくれた。
「……ただいま、桔梗」
「はい。お帰りなさいませ、旦那様」
過酷な狂気の世界から、俺は確かに、俺の日常へと帰り着いていた。
明日からは、強がるのはやめて、少しだけゆっくり休もう。俺は再び目を閉じ、今度こそ、幻に急かされることのない安らかな眠りへと身を委ねた。




