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第78話 前田犬千代のぼやきと、面倒な甥っ子


 藤吉郎の館で弥七こと中村一氏とタダ酒を酌み交わしてから数日後。俺は岐阜の自邸で、再び自業自得の金欠による極限の倹約生活へと引き戻されていた。


 初夏を思わせる暖かな昼下がり。

 俺は、小袖でも袴でもない、木綿の古着をゆったりと筒状に縫い直した休日の正装、俺が勝手に『戦国ジャージ』と呼んでいるリラックスウェアに身を包み、縁側で干物のように寝転がっていた。


 腹が減っていると、動く気力も湧かない。ただ流れる雲を眺めながら、いかにしてカロリーを消費せずに息をするかだけを考えていた。


「おう茂助! 生きてるか!」

 不意に、庭の垣根越しに聞き慣れた大声が響いた。

 ビクッと身を起こすと、勝手口から大柄な武将がズカズカと入ってくるところだった。


(……誰だ、この立派な侍? 声は聞き覚えがあるけど……えっ?)

 落ち着いた色合いのきちんとした小袖と袴を身につけ、髪も綺麗に撫でつけられた、どこからどう見ても立派でまともな武士の姿だ。

 俺は目を瞬かせ、顔を二度見して、慌てて起き上がった。


「い、犬千代様!?」

 よく見れば、その顔は紛れもなく前田犬千代である。だが、いつも目を引いていた派手な着流しや奇抜な傾奇者かぶきものの装束は影も形もなかった。


「見た目が落ち着きすぎて、一瞬誰だか分かりませんでしたよ!」

「うるせえ。俺だっていつまでも派手な傾奇者じゃいられねえんだよ。一応、赤母衣衆あかほろしゅうの筆頭だからな」

 犬千代は照れくさそうに頭を掻くと、ドンッ! と縁側に二つのものを置いた。


 一つは、たっぷりと酒が入ったであろう大きな徳利とっくり

 そしてもう一つは、笹の葉に包まれた、赤身と脂身が見事な層をなす「猪肉ししにく」の塊だった。


「京では、お疲れだったな! お前があの地獄を乗り切ったって聞いてな。ねぎらいに来てやったぜ!」

「……ッ!!」

 俺は光の速さで縁側から飛び降り、犬千代の足元に深く平伏した。


「神よ……! 前田大明神様……!!」

「うおっ!? なんだよ急に! キモいな!」

「色々あって、我が家は今、極限の金欠なんですよ! ずっと鳥の餌みたいな飯と沢庵しか食ってなかったこの腹に、その肉と酒は文字通り命の綱です!」

「お、おう……加増もされたってのに、お前何やってんだ……」

 ドン引きする犬千代を尻目に、俺はすぐさま三太夫を呼んで七輪に火を起こさせた。


 ジュワァァァッ……!

 網の上に猪肉を乗せると、食欲を狂わせる脂の焼ける音と香ばしい匂いが庭いっぱいに広がった。

「うおおお! 美味いですっ!!」

 焼きたての肉を塩だけで食らい、強い濁り酒で流し込む。細胞の隅々にまでタンパク質とアルコールが染み渡っていくのが分かった。

「ガハハ! 遠慮すんな、たらふく食え!」

 犬千代も胡座あぐらをかいて、美味そうに肉をつついている。


 ***


「犬千代様は、京都では何をしてたんですか?」

 腹も膨れ、酒が回ってきた頃。俺はふと気になって尋ねた。

 俺が本圀寺で死にかけていた時も、二条城で石を運んでいた時も、最前線を張るはずの犬千代の姿は見かけなかったからだ。

 犬千代は、手にした盃をじっと見つめ、ふぅと重いため息を吐いた。


「俺は赤母衣衆の筆頭として、お館様に付き従って、摂津とかで三好の残党とやりあってたんだ。……だがな、岐阜へ帰ってきた途端、お館様からとんでもねえめいを下されちまった」

「命令、ですか?」

 先ほどまでの陽気な笑みは消え、犬千代の横顔には濃い影が落ちていた。


「……この俺が『前田家の家督を継げ』ってよ」

 俺は、噛みかけていた肉を飲み込んだ。

(あれ? 前田の家って、確か一番上のお兄さんが当主じゃなかったっけ?)

 以前、藤吉郎からそんな話をチラッと聞いた気がする。


「それは……また急な話ですね。お兄様が当主なんでしたっけ」

「ああ。兄者は昔から体が弱くてな。武働きができねえからって、お館様はそれが不満だったんだ。……だが兄者は、自分の養子である『利益とします』に前田の家を譲るつもりで、ずっと大事に育ててきたんだぞ」

 犬千代は、ギリッと奥歯を噛み締めた。


「それなのに、お館様は『前田の当主は、武功のある犬千代がふさわしい。兄と養子には城を明け渡させよ』と仰った。……俺は、血の繋がった大好きな兄者の家を、主命という名目で力ずくで乗っ取っちまったんだ」

(マジかよ……)

 俺は内心で息を呑んだ。 


 病弱で戦に出られないというだけで、身内同士で強引にトップをすげ替える。うちのボスはあまりにも血も涙もない。


「……お辛いですね」

「俺は戦に出るのは嫌いじゃねえし、赤母衣衆として出世するのは本望だ。だがな、親族を蹴落としてまで当主の座に座りたかったわけじゃねえ……」

 犬千代は盃の酒を一気に煽り、空の盃をドンッと縁側に置いた。


「しかも、その追い出される形になった甥っ子の利益ってのが、昔の俺以上にかぶいてる暴れん坊でよ。俺に反発して、前田の家を出て浪人になるって息巻いてる始末だ。……頭が痛えよ、本当に」

「まあ、突然叔父さんに家を乗っ取られた形になれば、若い子は反発もしますよ。犬千代様だって、昔は相当なヤンキーだったでしょ?」

「やんきー……? うるせえ。俺はあそこまで理不尽な馬鹿じゃなかったぞ」


(……てか、今もまだヤンキー抜けてない気がするけどな)

 心の中でそっとツッコミを入れつつ、俺は空になった犬千代の盃に酒を注いだ。


「でも、犬千代様。お館様の命令なんて絶対じゃないですか。『嫌です』って言って断れるわけないでしょう」

「……」

「それに、前田の当主になったら、これから先、お館様から最前線で死ぬほどこき使われるんですよ?」

 俺は七輪で焦げかけた肉をひっくり返しながら、呆れたように言った。


「お兄様は、そんな胃に穴が開きそうな過酷な重圧から解放されたんです。むしろ、一番の貧乏くじを引いて泥を被ったのは犬千代様の方で、兄上をストレス地獄から救ってあげたんです。家を乗っ取っただなんて、気に病むことないですよ」

 その言葉に、犬千代は目を丸くして俺を見た。


「……貧乏くじ、だと? お前、武家の誉れである当主の座を捕まえて、なんて言い草だ」

「事実でしょう? これから四六時中、あの理不尽なお館様のプレッシャーに晒されて、胃を痛めるのは犬千代様なんですから」

 俺が肩をすくめると、犬千代はしばらくポカンとした顔をした後――やがて、肩を揺らして吹き出した。


「ククッ……アハハハハ! 違いねえ! 全くだ!」

 犬千代は腹を抱えて笑い、俺の背中をバンと叩いた。

「俺は、兄者から家を奪ったんじゃない。お館様の無茶振りを一身に背負う貧乏くじを引かされただけか! ……ハハッ、お前と話してると、深刻に悩んでたのが馬鹿らしくなってくるぜ」


「そうですよ。どうせいつ死ぬか分からないんですから、少しでも気楽にいきましょう」

「当主になっちまって胃を痛める馬鹿と、裏で帳簿叩いて金欠で飢えてる馬鹿。……どっちも、とんでもない主君を持っちまったもんだ!」

「まったくだ。お館様の無茶振りに文句を言える奉行所でもあれば、訴えてやりたいくらいですよ」

 俺たちは顔を見合わせ、そして同時に吹き出した。


「ガハハハ! 違いねえ! もしお館様を訴える奉行所があったら、俺が真っ先に駆け込んでやるぜ!」

「俺もです! せめて週に一日は休ませろって一揆を起こしてやりますよ!」

 それからは、家の暗い話は一切しなかった。


 城下の飯屋でどこが美味いか、どこの商人の娘が器量良しか、あの武将の兜のデザインはダサい……などなど、ただの男同士の馬鹿話だ。

 縁側に寝転がり、腹を抱えて笑い合う。


 そこには、天下布武を掲げる織田軍の重圧も、出世に伴う複雑な家督騒動もなかった。ただ、気の置けない同僚との、平和でくだらない時間が流れているだけだった。


「……ふぅ。食った食った。笑いすぎて腹が痛てえ」

 夕暮れ時。

 すっかり空になった徳利と皿を見て、犬千代が大きく伸びをした。


「茂助。お前とこうして馬鹿話してると、なんかすげえスッキリするぜ。……家のことは、俺が一番の貧乏くじ引いてやるって腹括るわ」

「そりゃどうも。俺は犬千代様の差し入れのおかげで、餓死せずに済んでスッキリしましたよ」

「ガハハ! そりゃ良かった! 今度は可成のおっさんも誘って、また飲みに来るぜ!」

 犬千代は、「じゃあな!」と軽く手を挙げて、夕日に染まる岐阜の城下へと帰っていった。


 その広く逞しい背中を見送りながら、俺はふと、心の中の重いおりが少しだけ軽くなっていることに気づいた。

 理不尽な主君の命令、終わらない戦、いつ命を落とすか分からない極限の世界。


 それでも、こうして愚痴をこぼし合い、共に笑い飛ばせる同僚がいる。それだけで、この狂った戦国ブラック環境でも、もう少しだけ頑張れそうな気がしたのだ。


「……さて。明日からはまた、沢庵生活の続きか」

 俺は苦笑しながら、七輪の片付けを始めるのだった。

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ひとりだけ贅沢しているが、嫁にはなんと申し開きするのだろうか?
あっ…近い将来森可成は…
いやーー 面白い 一気読みしました あれ?奥方の食べる分は残ってる?
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