第72話 魔王の引き抜き拒否と、デスマーチの足音
三好軍の襲撃を凌ぎ切った本圀寺の奥の間。
焼け焦げた柱から微かに煙の臭いが漂う仮の広間には、息をするのもためらわれるほどの緊迫感が満ちていた。
上座には、室町幕府第十五代将軍・足利義昭様。
その対面には、大雪の山脈を不眠不休で駆け抜け、わずか二日で京に現れた織田信長様が、平伏している。
そして俺は、木下藤吉郎や竹中半兵衛といった直属の上司たちのさらに後ろで、泥と煤にまみれた姿のまま、同じく床に額を擦りつけていた。
「……信長よ。大雪の中、よくぞ駆けつけてくれた。此度の働き、大儀であった」
義昭様が、どこか上擦った声で口を開いた。
「余は安心したぞ。して……先ほども申した通り、その方に一つ頼みがある」
義昭様の視線が、平伏している俺の背中に突き刺さるのを感じた。俺は全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのを止められなかった。
「そこに控えておる堀尾茂助。以前にも伝えた通り、あやつは余の良き話し相手でな。ぜひとも余の家臣として召し抱え、常に側近くに置きたいのだ。そして、あやつが語る摩訶不思議な英雄たちの物語を、本にして世に出させるつもりじゃ! ……よいな?」
出た。最悪の爆弾発言だ。
以前、俺が上洛の道中や将軍の仮住まいで適当に語った前世のアニメやゲームの話にドハマりした義昭様が、俺を専属の物書きとして引き抜こうとしていた、あの話である。
年末からずっと思い悩み、決断を保留し続けていたあの案件が、よりによって一番知られてはいけない魔王の御前で蒸し返されてしまったのだ。
(頼む……! 頼むから許してくれ! ここで俺が裏でコソコソ引き抜き話に乗り気だったことがバレたら、文字通り首が飛ぶ……! いや、ワンちゃん将軍の言うことだから、素直に許してくれるか!?)
俺は泥に額を押し付けながら、心の中で必死に祈った。
だが、この魔王の目の前で、そんな勝手な引き抜きがすんなり通るわけがない。案の定、俺の斜め前で平伏している藤吉郎の背中からは、どす黒い殺気がチリチリと漏れ出している。
「…………」
信長様は、静かに顔を上げた。
その表情に怒りや不遜な色はなく、極めて真摯な顔つきだった。
「……上様。もったいなき御言葉にございますが、その儀、平らにご容赦願いとう存じます」
「な、なにゆえだ! お主にとって、たかが家臣一人ではないか! 余はどうしてもあやつの物語の続きが聞きたいのだぞ!」
「この堀尾茂助は、風雅の嗜みも教養の欠片もない、無学で粗野な男にございます」
信長様は、静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で言い放った。
「見栄えはすこぶる悪く、品性も卑しい。己の保身のためならば這いつくばることもためらわぬ、臆病で意地汚き泥這いにございます。そのような者を上様の側近に据え、あまつさえ書物を編ませるなど、幕府の御威光に泥を塗るようなもの」
俺は床に額をこすりつけながら、(いくらなんでも言い過ぎじゃないですか……)と内心で涙を流した。
「なれど……」
信長様は言葉を切り、初めて俺の方をチラリと見下ろして、不敵に唇の端を吊り上げた。
「どれほど無様であろうと、なりふり構わず泥に塗れ、結果をもぎ取る。その泥臭き執念こそが、この乱世を切り開く我が織田には不可欠なのです。見栄えの良いだけの飾り物など当家には無用。この意地汚き泥這いは、織田にとって欠かすことのできぬ手足にございます」
信長様の低く響く声が、俺の全身を縛り付けるように降り注いだ。
「上様があの荒唐無稽な物語をお聞きになりたいとあらば、いつでもこの茂助をお貸し出しいたしましょう。しかし、当家の手足……いや、手足の指ゆえ、例え上様と言えどもお渡しすることはできませぬ」
(ひぃぃぃぃっ!!)
俺は心の中で絶叫した。
一見すると「お前はうちに必要な人間だ」という最大級の評価に聞こえるかもしれない。だが、俺からすればこれは「お前は一生うちの都合の良い手足だから、絶対に手放さないぞ」という、逃げようとする下っ端にかける最悪の呪いでしかない!
「し、しかし……余は此奴と……」
義昭様が未練がましく食い下がろうとした、その時だ。
「――上様」
信長様は深く頭を下げ、その真意を包み隠すように丁寧な口調で言葉を継いだ。
「当家の手足を差し出さぬ代わり……と申してはなんですが。以前、上様より打診のあった『副将軍』の職。……この信長が、謹んでお受けいたしましょう」
「……なっ!?」
義昭様が、目を見開いて息を呑んだ。
明智光秀や細川藤孝ら幕臣、そして周囲に控えていた織田の武将たちも、一斉にハッと顔を上げた。
「ま、まことか信長! そちが、副将軍となってくれると申すか!」
「ええ。将軍家の威光を天下に示すため、この信長が天下の副将軍として幕政を支えましょう。……これで、茂助の件はどうかご容赦を」
義昭様は、先ほどまでの不満など完全に吹き飛び、満面の笑みで「うむ、うむ! 頼もしいぞ!」と何度も頷いた。
(副将軍……?)
俺には、将軍とつく限りそれがかなり偉い役職なのはわかる。しかし、信長様が副将軍になることで、何がどうなるかはわからない。
俺にとって重要なのは、ただ一つ。俺が散々思い悩んでいた、お公家様になって安全な物書きへの転職話が、今、この魔王の鶴の一声によって問答無用で消滅させられたという事実だけだ……!
(終わった……そりゃ、少し悩んではいたけど、俺の安らかな人生への蜘蛛の糸、ここで完全に切られた……!)
俺は泥に額を擦りつけながら、心の底から絶望の血の涙を流していた。
「とは言え、上様」
信長様は、義昭様の歓喜を押し留めるように声を張った。
「悠長に朝廷からの副将軍の宣下を待っている状況にはございませぬ。まずは上様の安全を盤石にするのが先決。此度の襲撃で明白となりましたが……この本圀寺は、御所とするにはあまりにも防御が弱すぎる」
「む……確かに、それは余も痛感したところだ。では、いかがする?」
「上様の御所を新造いたします。場所は、かつて故・義輝公の御所があった二条の武衛陣跡地。あそこにある真如堂には替地を与えて立ち退かせ、敷地を北東へ大きく拡張します」
信長様は、戦の爪痕が残る境内の外を見据えた。
「およそ四町(約四百メートル)四方の敷地に、深い水堀、高く堅牢な石垣、そして三重の『天守』を備えた、天下に類を見ぬ真の城郭を築きましょう」
「おお! 亡き兄上の跡地を再興し、余のために新たな城を築いてくれるか! して、完成はいつ頃になる? 半年後か、一年後か?」
「およそ七十日」
信長様は、平然と言い放った。
「旧御所の土台を活かし、工期はわずか七十日。春が来る前に、必ず大枠を完成させまする」
「…………は?」
義昭様の顔から、笑みがスッと消えた。
俺も、自分の耳を疑った。
七十日? いくら跡地の土台があるとはいえ、かなり広い敷地に堀を掘り、石垣を積み……というか、さっき『てんしゅ』って言ったか?
「て、てんしゅって……あの、大阪城みたいな、お城のてっぺんにそびえ立ってるでっかい建物のことだよな……?」
極限のパニックに陥った俺の口から、無意識に前世の乏しい知識がポロリとこぼれ落ちていた。
「……大坂城?」
俺の呟きを耳ざとく拾い上げた義昭様が、怪訝そうな顔で首を傾げた。
「大坂の石山本願寺なら知っておるが……大坂に城などあったかのう?」
「おい茂助、てめえ御前で急に何を血迷ってやがる!」
将軍様と魔王の御前で、自分の部下が唐突に意味不明な戯言を口走ったことに青ざめた藤吉郎が、小声で怒鳴りながら俺の頭を思い切り引っぱたいた。
(痛っ! あれ? 誰も大阪城を知らない?)
俺には皆がなぜポカンとしているのかさっぱり分からなかったが、今はそれどころではない。
そんな本格的な城郭を建てるのに、たったの二ヶ月半でやれだと!? 現代の知識を持つ俺からしても、気が狂っているとしか思えない途方もない大工事だぞ!
「この新城は、幕府と我が織田家の威信を天下に示すための大事業。総奉行はこの信長自身が務め、陣頭指揮を執る!」
信長様の声が、広間に雷鳴のように響き渡った。
「畿内および近国の大名たちに動員をかけよ! 京都の内外から幾万の人足を集め、一気に築き上げる! そして貞勝、長秀、藤吉郎! 前へ出よ!」
「ははっ!」
信長様の声に、俺の直属の上司を含む三人の武将が弾かれたように進み出て平伏した。
「貴様ら三名を大工奉行に命ずる。死に物狂いで采配を振るえ。……期日に一日でも遅れれば、貴様らの首が飛ぶと思え」
「承知仕りました! 命に代えましても二条新御所を築き上げてご覧に入れまする!」
藤吉郎は力強く宣言し――そのまま、顔だけを俺の方へ向け、ニチャァと悪魔のように笑った。
「……おい茂助。てめえのコソコソした移籍話のせいで、俺の寿命が縮みかけたんだ。……分かってんだろうな?」
「ひっ……!」
「お前には、俺が担当する区画の資材の調達と人足の段取りを任せる。俺の手足となって死ぬ気で現場を回せ。休む暇なんて一秒たりともねえからな」
その瞬間、俺の目の前が真っ暗になった。
夢の幕臣生活が潰えた直後、激戦の疲労を癒す間もなく突きつけられたのは、逃げ場のない最悪の突貫工事の開幕宣言だった。
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