第71話 魔王の帰還と、凍りつく移籍話
全身の骨が軋むような激痛と、鼻腔にこびりついた強烈な血と泥の匂いで、俺は目を覚ました。
「……ん……」
重い瞼をこじ開けると、見慣れない薄暗い板張りの天井があった。
本圀寺の一角にある、負傷兵を収容するための仮ごしらえの陣屋らしい。周囲からは、苦痛に呻く男たちの低い声が絶え間なく聞こえてくる。
「気がつかれましたか、茂助様」
傍らから、ひどく掠れた声がした。
首だけを動かして視線を向けると、経理の勘兵衛が、泥と血にまみれた包帯を腕に巻きつけた姿で座っていた。その顔はげっそりと痩せこけ、目の下には深い隈が刻まれている。
「……俺は、どれくらい寝てた?」
「丸一日と少し、といったところです。木下藤吉郎様と竹中半兵衛様の援軍が到着し、三好の軍勢が桂川の向こうへ退却してから、すでに二度目の夜が明けております」
勘兵衛は、手元にあった欠けた湯呑みを俺の口元に運んでくれた。程良い温度の白湯が、干からびた喉の奥へと染み渡っていく。
生きて、朝を迎えることができた。
その事実をゆっくりと脳髄で咀嚼しながら、俺は重い体を起こした。筋肉が引き裂かれるような痛みが走るが、手足は動く。致命傷はない。
「みんなは、無事か……?」
俺の問いに、陣屋の隅で丸くなっていた男たちが、ゆっくりと顔を上げた。
真っ二つに割れた木盾の代わりに、壁に背を預けて座り込んでいる但馬。
大太刀の手入れも忘れ、虚ろな目で宙を見つめている三太夫。
そして、俺の弟である氏光は、血と脂がべったりとこびりついた自分の両手を、ただ黙って見つめ続けていた。
「兄上……」
氏光が、絞り出すような声で呟いた。
「俺は……周りのやつが、武功を立てたと喜んでいて、戦とはそういう華々しいものだと。……ですが、あの夜は違った。あれは、武功でも戦でもない……ただの、命の取り合いでした」
あの陽気で血の気ばかりが多かった若武者の声に、覇気は一切なかった。
三太夫も、いつもの狂ったような笑い声を上げない。
彼らもまた、理解したのだ。綺麗な一騎打ちも、名乗りを上げての華麗な討ち死にもない。ただ極寒の泥の中で死体を踏み台にし、糞尿と臓物の臭いに吐き気を催しながら、ただ「死にたくない」という一心で槍を突き出す。それが、生き残るための「本物の戦場」の姿なのだと。
「……生き残ったんだ。それだけで十分だろ」
俺は短い言葉だけを返し、重い腰を上げた。
「茂助様、まだお体は……」
「外の空気が吸いたい。歩ける奴はついてこい」
冷たい風が吹き込む陣屋の外へ出ると、本圀寺の境内は異様な空気に包まれていた。
あちこちで焚き火が焚かれ、生き残った兵たちが無言で戦後処理に追われている。俺たちは重い足を引きずりながら、自分たちが死守した裏門の近くへと向かった。
そこでは、布で口元を覆いながら、泥と雪に埋もれた無数の死体や破壊された瓦礫を、無言で荷車へと運び乗せている者たちがいた。
ふと、死体の腕を無造作に掴んで荷車に放り込んでいた小柄な少年と、目が合った。
以前、鴨川の河原で助け、逆に路地裏で俺の命を救ってくれた少年、捨吉だった。
彼は泥と血で真っ黒になった俺の姿を見ると、一瞬だけ驚いたように手を止め、それから……小さく、だが力強く頷いてみせた。
『生きていてよかった』。声には出さないが、そんな労いのメッセージが伝わってくるようだった。
「……ああ、お前もな」
俺は誰にも聞こえない声で呟いた。
武功だの名誉だのと騒ぐ武士たちよりも、血と泥にまみれて死体を片付ける彼らの方が、よほどこの戦場の真実に近い場所にいる気がした。俺は、自分たちの生存の証であるその血生臭い光景から、そっと目を逸らした。
「おう、茂助。生きてたか」
背後から、聞き慣れた野太い声が降ってきた。
振り向くと、木下藤吉郎と竹中半兵衛の二人が立っていた。俺たちが防衛戦を繰り広げていた夜明け前、京周辺の小勢を糾合して援軍に駆けつけてくれた、俺の直属の上司たちだ。
「藤吉郎様……半兵衛様……。ありがとうごさいました。正直、もう駄目かと思いました」
俺が深く頭を下げると、藤吉郎は腕を組み、泥だらけになった俺たちを労うように深く頷いた。
「礼を言うのはこっちの方だ。俺たちが方々から兵をまとめている間、お前らが寺を死守してくれたおかげで、将軍様を守ることができた。よく持ち堪えたな」
「ええ。少数の兵で大軍を封じるため、地形と……あらゆるものを活かして徹底した防衛線を敷いた。見事な采配でしたよ、茂助殿」
半兵衛の言葉に、皮肉は一切混ざっていなかった。
彼は純粋に、俺たちの泥に塗れた生存への執念を冷静に評価していた。
「……死にたくなかっただけです。俺たちは、ただ生きて帰りたかっただけで……」
俺が自嘲気味に呟いた、その時だった。
――本圀寺の表門の方角から、突如として激しいどよめきが沸き起こった。
「なんだ、騒がしいな。三好の残党でもいたか?」
藤吉郎が眉をひそめ、腰の刀に手をかけた。
だが、表門から駆け込んできた伝令の兵は、顔面を蒼白に引きつらせ、幽霊でも見たかのように全身をガタガタと震わせていた。
「申し上げます……! た、只今、表門より……お館様が、ご到着なされました……!!」
……は?
その言葉を聞いた瞬間、藤吉郎も半兵衛も、そして俺も、耳を疑った。
「おい、寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞ!」
藤吉郎が伝令の胸ぐらを掴み上げた。
「お館様が事変の報せを受け、岐阜を発たれたとしても、今の時期、美濃から京までの山道は大雪で完全に塞がっているはずだぞ! 大軍を率いてこの大雪の山越えをするなら、早くとも到着は五日後……いや、一週間はかかるはずだ!」
「そ、それが……!」
伝令の兵は、歯の根を鳴らしながら答えた。
「お館様は……大軍の歩みに合わせていては間に合わぬと、ほとんどの軍勢を雪山に置き去りにし……わずか十騎ほどの側近のみを連れて、雪の山道を不眠不休で駆け抜けられたとのこと……! 岐阜より京まで、わずか二日……文字通り、鬼神の如き強行軍にございます……!!」
その事実の異常性に、俺は背筋に氷柱をねじ込まれたような悪寒を覚えた。
真冬の、足が埋まるような大雪の峠道を、馬を乗り潰しながら不眠不休で駆け抜ける。一歩間違えれば、織田家の総大将である信長自身が雪山で遭難して死んでいたかもしれないのだ。
常軌を逸している。天下という目的のためなら、己の命すら盤上の駒の一つとして使い潰す、完全な狂気だ。
将軍の命を守るためとはいえ、あの冷徹な合理主義者である信長様が、そこまでのリスクを冒して単騎駆けに近い状態で飛び込んでくるなど、誰一人として予測していなかった。
「……お退きなされ!! お館様のお通りである!!」
怒声と共に、本圀寺の境内を埋め尽くしていた兵たちが、モーセの十戒のように真っ二つに割れ、左右に平伏した。
雪雲に覆われた鈍色の空の下。
静まり返った境内の奥から、一人の男が歩み出てきた。
織田信長様、その人だった。
その姿は、天下人という言葉から連想される煌びやかなものとは程遠かった。
身に纏った防寒用の外套は、雪と泥で汚れ、端は凍りついてボロボロに裂けている。頬はこけ、無精髭が伸び、その眼光は不眠による極度の疲労と、異常なまでの殺気でギラギラと燃え盛っていた。
ただ歩いているだけなのに、周囲の空気がそこだけ絶対零度に凍りついているかのような錯覚を覚える。
これが、わずか二日で雪の山脈を食い破ってきた魔王の姿。
信長様は歩みを止めず、境内を囲む破壊された防衛線を無言で視察し始めた。
そして、真っ直ぐに俺たちが死守した裏門の近くへとやってきた。
(来る……)
俺は血の気が引くのを感じながら、部下たちと共に冷たい泥の地面に額を擦りつけた。
信長様の足音が、すぐ目の前で止まる。
彼が見下ろしているのは、未だに片付けが終わっていない、裏門の凄惨な光景だ。そして、泥と血で真っ黒になった俺たちの姿だった。
「……茂助」
信長様の低く冷ややかな声が、俺の頭上に降ってきた。俺の心臓が、早鐘のように打ち鳴らした。
「へ、へはっ……!」
俺は震える声を振り絞り、泥に額をつけたまま返事をした。
「貴様、また泥に塗れておるのか」
信長様の言葉には、呆れとも、微かな面白がりともとれる響きが混ざっていた。
「申し訳、ありません……。敵が多すぎたので、生き残るために、なりふり構わず、は、這いつくばって門を守りました……」
武士としての名誉や誇りを重んじる者がこの見苦しい姿を見れば、「織田の恥さらし」として激怒するかもしれない。
だが、信長様は俺の弁明を遮るように、短く息を吐いた。
「見栄えの良い武功など無用。生き残り、門を守り抜いた。……それでよい」
信長様は、俺の頭上から絶対的な肯定の言葉を落とした。
「以前、貴様は乾いたゴミの山を、燃料として権六に差し出したことがあったな。使えるものは何でも使う。その意地汚さが、この窮地を救った。……貴様らのような泥に塗れた悪鬼がいたからこそ、将軍の首は繋がったのだ。よく持ち堪えた」
「……ははっ!! ありがたき幸せに存じます!!」
俺の背後で、氏光や勘兵衛たちが感極まったように声を張り上げた。
俺も心の底から安堵の息を吐き出そうとした、その時だった。
「おお! 信長ではないか!!」
極度の緊張感に包まれた空気をぶち壊すように、場違いなほど甲高く、能天気な声が境内に響き渡った。
本堂の方角から、数人の側近を伴って小走りに駆け寄ってきたのは、将軍・足利義昭様だった。
「大雪の中、よくぞ駆けつけてくれた! 余は安堵したぞ!」
義昭様は、泥と雪にまみれた信長様の凄絶な姿に一瞬怯んだものの、すぐに芝居がかった仕草で大げさに頷いてみせた。
信長様は表情一つ変えず、静かに頭を下げた。
「……上様がご無事で、何よりにございます」
「うむ! みな、よく戦ってくれた!」
義昭様は満足そうに周囲を見渡し――そして、泥に平伏している俺の姿を見つけた。
「おお、茂助! お前も無事であったか!」
義昭様は、満面の笑みで俺の方へと歩み寄り、信長様や藤吉郎たちがいる前で、周囲に響き渡る声で高らかに言い放った。
「近々、我が直臣となるお前が、このようなところで討ち死にしてはたまらぬからな! 無事で重畳、重畳! わはははは!」
ピタリ、と。
境内の時が、止まった。
雪の降る音すら消え失せたかのような、絶対的な静寂が落ちた。
「……ほう?」
信長様が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥に、先ほどまでの労いとは全く質の違う、底なしの暗い炎が宿るのを、俺ははっきりと見た。
「……上様の直臣、だと?」
極寒の冷たい空気が、境内に這うように広がっていく。
義昭様だけが「うむ!」と上機嫌に頷いているが、俺の背後からは、信長様以上に恐ろしい気配が膨れ上がっていた。
「……おい茂助。俺はお前から言い出すまで待ってだたんだぞ」
直属の上司である木下藤吉郎が、地獄の底から響くような声で呟いた。
「てめえ、俺の裏で、将軍家への出仕を進めてやがって……」
「も、茂助様……!?」
何も知らされていなかった勘兵衛が、信じられないものを見るような目で俺を睨みつけている。
「まさか、我らを見捨て……当家を捨てるおつもりだったのですか……!?」
「兄上、それは誠にございますか!?」
信長様の冷酷な視線。
藤吉郎の殺意に満ちた眼光。
半兵衛の胡乱な目。
そして、部下たちの「裏切られた」という絶望と怒りの視線。
そのすべてが、一斉に泥に平伏している俺の背中に突き刺さった。
(終わった……)
俺は、泥に顔を押し付けたまま、静かに目を閉じた。
命懸けで死線を潜り抜け、ようやく生き残ったというのに。
(俺の戦国ライフ、物理的にも、社会的にも……完全に終わったァァァ!!)




