第70話 凍てつく夜の攻防と、払暁の瓢箪
第一波の敵が引いてから、不気味な静寂が訪れた。
だが、安堵している暇はない。雪の舞う本圀寺の裏門で、俺は絶望に浸りかけた脳を無理やり叩き起こし、泥にまみれた足で立ち上がった。
「動け! 休んでる暇はないぞ!!」
俺は血と泥にまみれた兵たちを怒鳴りつけた。
「敵が陣形を立て直して戻ってくるまで、長くないはずだ。その間にやれることを全部やるぞ! まずは負傷者を奥へ下げろ。動ける奴は、門の周りに突き刺さってる使える矢を一本残らず集めろ! 撃ち返す弾薬がないなら、敵の武器を再利用するんだ!」
俺の指示で、疲労困憊の兵たちが重い足を引きずって動き出す。
そこへ、表門の様子を探りに行かせていた事務方の勘兵衛が、血相を変えて戻ってきた。
「茂助様! 表門の状況を見てまいりました!」
「どうだった! 弾薬か、手の空いてる兵は少しでも回してもらえそうか!?」
「絶望的です!」
勘兵衛は首を激しく横に振った。
「表門には敵の主力およそ数千が張り付き、光秀様ご自身が槍を振るって最前線で血路を凌いでいる有様。裏門に回せる兵も、鉄砲の弾薬も、一発たりともありません。むしろこちらより危機的な状況です……!」
完全に孤立無援。俺たち二百人だけで、この死体の山を朝まで守り抜くしかないのだ。
「……上等だ。弾がないなら、地の利で叩き潰すまでだ」
俺は周囲を見渡し、門のすぐ脇にある番所を指差した。
「おい! あの番所の壁と屋根に置いてある石を全部引っぺがせ! それから、井戸から水を汲んできて、入り口に積んだ死体の山と地面にぶち撒けろ!!」
「み、水をですか!?」
「この極寒だぞ、水を撒けば数十分でカチカチに凍りつく! 死体も泥も強固な氷の要塞になるし、敵の足元は滑ってまともに踏み込めなくなるはずだ! 急げ!!」
兵たちは俺の異様な指示に一瞬戸惑ったが、すぐに番所の解体と水撒きに取り掛かった。
屋根から剥がした重い瓦や石材を、門の内側の足場に積み上げていく。入り口に築かれたおぞましい肉の防壁には容赦なく冷水がかけられ、京の底冷えする雪風に晒されて、見る間に赤黒い氷の城壁へと変貌していった。
倫理も理屈も何もない。ただ生き残るための、極限の悪あがきだった。
***
そして、数時間が経過した頃。
ゴォォォォォッ……という低い地鳴りのような足音と共に、三好軍の第二波が暗闇の中から姿を現した。
「……来たぞ。構えろ!」
俺の合図で、残されたわずかな鉄砲隊が火縄に息を吹きかける。
だが、松明の明かりに照らし出された敵の姿を見て、俺は息を呑んだ。
敵は、前回のように丸太を抱えて無策に突っ込んできたりはしなかった。
最前列の兵たちが掲げていたのは、分厚く束ねた竹束だった。鉄砲の鉛玉を防ぐための、戦国時代における最強の移動防盾だ。
さらにその後方からは、先端に鉤のついた長い棒を持った兵たちが続いている。俺たちが築いた死体の壁を引っ掛けて崩し、キルゾーンの通り道をこじ開けるつもりなのだ。
「撃てェッ!!」
ズドンッ! と数発の火縄銃が火を噴くが、鉛玉は分厚い竹束に深々とめり込むだけで、敵の足を止めることはできなかった。
「これど鉄砲は通じぬ! 鉤隊、前へ!」
敵の指揮官の号令で、鉤棒を持った兵たちが門の隙間から死体の壁に鉤を引っ掛け、強引に引きずり下ろそうとする。
「させねえよ! 上だ、落とせェェッ!!」
俺の怒声と共に、門の脇の塀に登っていた氏光たちが、番所から引っぺがした木片や石塊を、門に群がる敵の頭上へ向けて雨あられと投げ落とした。
「グゲェッ!?」
「がはっ……! 上から、石が!」
竹束は正面からの鉄砲には強いが、頭上からの重力による攻撃には無力だ。兜を叩き割られ、肩を砕かれた敵兵が次々と雪の中に崩れ落ちる。
「ひるむな! 壁を崩せ!」
だが、敵も必死だった。頭上から石を浴びながらも、鉤棒で死体の壁を強引に引き剥がそうとする。しかし、俺たちが撒いた水によって、死体と泥は凍りつき、一つの強固な壁と化していた。
「クソッ、引き剥がせねえ! 死体が凍りついてやがる!」
「滑る! 足元が凍って踏み込めねえ!!」
「今だ! 槍隊、隙間から突けェェッ!!」
足元を滑らせ、身動きが取れなくなった敵兵の隙間を縫って、味方の長槍が的確に急所を貫いていく。
一進一退の、泥沼の死闘。だが、戦況は徐々に俺たちを削り始めていた。
「石が尽きました!」
「敵の弓隊が狙ってきます! 盾を!」
ヒュンヒュンと飛び交う矢が、味方の手足を確実に削っていく。
但馬が「私の後ろへ!」と巨大な木盾を掲げて前に出るが、その盾にも無数の矢が突き刺さり、彼の太い腕は限界を迎えつつあった。
「オラァッ!!」
三太夫が咆哮と共に大太刀を振り回し、氷の壁の隙間から入り込もうとした敵を両断する。だが、その三太夫の肩や太ももにも、かすめた槍の傷からどす黒い血が止めどなく流れていた。
氏光の顔は泥と返り血で真っ黒になり、あの頃の爽やかな若武者の面影はない。勘兵衛も算木を捨て、落ちていた敵の折れた槍を拾って必死に前線を支えている。
夜が深まるにつれ、第三波、第四波と、敵は休むことなく波状攻撃を仕掛けてきた。
弾薬は完全に尽きた。投げる石もなくなった。俺たちの槍の穂先は肉を断ちすぎて刃こぼれし、ただの鈍器と化していた。
一人、また一人と、明智の兵たちが悲鳴を上げて泥の中に倒れていく。
体力の限界。極寒による凍傷。そして、終わりの見えない殺戮による精神の摩耗。
(死ぬ……本当に、死ぬ……!)
俺の指は凍りつき、槍を握る感覚すらとうに失われていた。
光秀は援軍が来ると言ったが、いつになるかは分からない。俺たちにとって、この果てしない夜を越えること自体が、もはや不可能な奇跡のように思えた。
そして最も暗く、最も冷たい時間。払暁前。
三好軍の最後にして最大の猛攻が始まった。
「なんとしても今のうちに裏門を破り、将軍の首を獲れェェェッ!!」
焦りを帯びた敵将の絶叫と共に、これまでとは桁違いの数の兵が、死に物狂いで門へ殺到してきた。
彼らはもはや竹束すら捨て、味方の死体を文字通り踏み台にして氷の壁を強引に乗り越えてくる。
「止めろォッ! 中へ入れるなァァッ!!」
俺はへし折れた槍の柄を振り回し、壁を乗り越えてきた敵兵の顔面を殴りつけた。
だが、多勢に無勢だ。
バキィッ! という音と共に、ついに但馬の木盾が真っ二つに叩き割られた。
「ぐはっ……! 吉晴、殿……申し訳、ありませぬ……」
但馬が血を吐いて膝をつく。
「但馬ァ!!」
それを合図にしたかのように、防衛線が完全に崩壊した。
凍りついた死体の壁を乗り越え、数十人の敵兵が裏門の内側へと雪崩れ込んでくる。
「ヒャハハ……まだまだ、斬り足りねえぜェ……!」
全身傷だらけの三太夫が笑いながら刀を振るうが、足元がおぼつかない。氏光も、数人に囲まれて防戦一方になっている。
俺の前にも、血走った目をした三好の兵が長槍を構えて迫ってきた。
(あ、終わった……)
俺は尻餅をついたまま、後ずさることもできず、ただ迫り来る槍の穂先を見つめた。
岐阜のマイホーム。桔梗の不器用な顔。あの理不尽なスクワットの筋肉痛すら、今となってはたまらなく愛おしい。
(……帰りたかったなぁ)
敵が、俺の喉元めがけて槍を突き出した。
俺が強く目を閉じた――その瞬間だった。
――ブォォォォォォォォォォォッ!!
三好軍のものではない、まったく別の高く澄んだ『法螺貝』の音が、夜明け前の京の空に響き渡った。
「な、なんだ!?」
俺を刺そうとしていた敵兵の動きが、ピタリと止まる。
地響きのような馬蹄の音と、無数の足音が、門の外から――三好軍の『背後』から急速に近づいてくるのが聞こえた。
「敵襲ゥゥゥッ!! 背後より大軍! 池田勝正ら摂津衆! そして、……千成瓢箪の馬印!! 織田方の援軍です!!」
三好軍の陣形の後方から、恐慌状態に陥った悲鳴が上がった。
「馬鹿な!? 京の周辺にいる織田方の味方する部隊は皆、小勢に分散しており、各個撃破を恐れて動けぬはずだ! なぜこれほどの軍勢が、こんな短時間で夜討ちをかけてこられるのだ……!?」
敵将の絶望に満ちた叫びが響く。
俺は泥だらけの顔を上げ、呆然とその馬印の名を聞いた。
千成瓢箪。
それは俺の上司、木下藤吉郎の馬印だ。
あの猿野郎と半兵衛の二人は、この雪の夜闇の中を駆け回り、摂津衆や縮み上がっていた諸将を瞬く間に説き伏せ、一夜にして数千の軍勢へとまとめ上げてみせたのに違いない。
俺たちが、この極寒の裏門で血反吐を吐きながら時間を稼いでいる間に、彼らは京の勢力図をひっくり返す包囲網を敷き終えていたのだ。
「敵は浮き足立っている! 三好の残党をここで一網打尽にせよォォッ!!」
外から、藤吉郎の野太い号令が響き、直後に怒濤の突撃音が巻き起こる。
背後を完全に突かれた三好軍は、統制を失ってパニックに陥った。裏門に殺到していた敵兵たちは、俺たちにトドメを刺すことなど完全に忘れ、蜘蛛の子を散らすように背を向けて逃げ出し始めた。
「退け! 退けェェェッ! 包囲されるぞ!!」
喧騒が、潮が引くように遠ざかっていく。
東の空が白々と明け始め、凍てつく雪空に薄っすらと朝の光が差し込み始めていた。
「……終わっ、た……?」
俺は、へし折れた槍の柄を握りしめたまま、呆然と門の外を見つめた。
敵の姿はもうない。残されているのは、俺たちが築き上げた死体と氷の壁と、夥しい血の跡だけだった。
「兄上……!」
血と泥にまみれた氏光が、槍を杖にしてふらふらと歩み寄り、そのまま泥の中にへたり込んだ。
「やりました……我ら、夜を……越えましたぞ……!」
その言葉を聞いた瞬間、周囲で辛うじて立っていた明智の兵たちが、糸が切れたように次々と雪の中に崩れ落ちていった。誰も歓声など上げない。ただ、生きて夜を明かせたという事実を噛み締め、安堵の涙を流しながら泥に突っ伏している。
盾を割られた但馬も、傷だらけの三太夫も、折れた槍を杖にする勘兵衛も、全員が生きていた。ボロボロで、今にも死にそうだが、それでも息をしている。
「……ああ」
俺は濁った息を吐き出し、仰向けに雪の上に倒れ込んだ。
この果てしない地獄の夜が、ようやく明けたのだ。
冷たい雪が頬に落ちて溶ける。
俺は全身の痛みと極度の疲労に意識を委ねながら、ぼんやりと空を見上げた。
(帰ろう。……今度こそ、絶対に岐阜に帰る)
あの不器用な嫁が待つ家に。
俺は目を閉じ、泥と血と硝煙の臭いに包まれたまま、泥のように深い眠りへと落ちていった。




