第68話 正月気分の終焉と、最悪のタワーディフェンス
その日、京の町は、うっすらと雪化粧に覆われていた。
「うめえ……。やっぱり正月は、温かい汁と餅に限るな……」
本圀寺の片隅にある詰め所で、俺は、支給された白味噌の雑煮をすすりながら至福の息を吐いていた。
大晦日の夜警こそ凍え死ぬかと思ったが、年が明けてからの数日間は、拍子抜けするほど平穏だった。
半兵衛殿が「三好の残党が奇襲してくる」なんて不吉な予言をしていたが、やはり天才軍師の考えすぎだったのだ。
こんなクソ寒い雪の正月に、わざわざ海を渡って戦争を仕掛けてくる狂人などいるわけがない。あっちの連中だって人間だ。今は四国のコタツでみかんでも食いながら、「打倒・織田は春になってからにしようぜ」とダラダラしているに決まっている。
(信長様も大軍を連れて岐阜に帰ったし、あのブラック上司の藤吉郎も新年の挨拶回りで出払ってる。……最高だ。俺は今、最高にハイな正月を満喫している!)
将軍・足利義昭様から持ちかけられた「公家の養子になって幕臣になれ」という、胃の痛くなる引き抜き話も、とりあえず保留という名の現実逃避をしている。
「兄上! 雑煮のおかわり、もらってきましたぞ!」
弟の氏光が、湯気を立てるお椀を両手に持ってニコニコと戻ってきた。
「おう、サンキュー。いやあ、本圀寺の陣中食は将軍様のお膝元だけあって、出汁が上品で美味いな」
「吉晴殿。食べ過ぎて腹を下しては護衛の任務に支障が出ますぞ。ほどほどに……」
真面目な但馬が横から小言を言うが、俺は気にせず餅を頬張った。
庭では、三太夫が「正月太りを防ぐためだァ!」と笑いながら大太刀の素振りをしている。部屋の隅では、事務方の勘兵衛が算木の木札をカチャカチャと並べ替えながら、帳面に小筆を走らせていた。
(平和だ……。岐阜のマイホームに帰れなかったのは残念だが、少なくとも今は安全圏だ。このまま松の内まで、絶対に寝正月を決め込んでやる……)
俺が二杯目の雑煮に口をつけようとした、その時だった。
――ボォォォォォォォォッ!!
突如として、腹の底を揺らすような低い音が、雪の降る京の空気を切り裂いた。
「……は?」
法螺貝の音だ。しかも、一つや二つではない。四方八方から、幾重にも重なった不気味な音が響き渡ってくる。
「敵襲ゥゥゥッ!! 三好三人衆の軍勢、およそ一万!! すでに桂川を越え、本圀寺を完全に包囲しております!!」
血相を変えた伝令の兵が、詰め所に転がり込んできた。
ガシャンッ!
俺の手からお椀が滑り落ち、上品な出汁の雑煮が畳にぶち撒けられた。
「……はあああ!?」
俺の悲鳴が、部屋の中に響き渡った。
(一万!? 包囲!? いやいやいや、ちょっと待て! 世間はまだギリギリ正月休みだろうが! なんでこんなタイミングで、一万もの大軍が攻めてくるんだよ!?)
俺のポンコツ脳は、パニックを引き起こしていた。
半兵衛殿の予言が、一文字の狂いもなく的中してしまったのだ。あの優男、マジで敵の思考回路を読み切ってやがった!
「兄上!!」
庭で素振りをしていた氏光が、目をキラキラさせて飛び込んできた。
「正月早々、我ら堀尾家の武勇を示す絶好の機会! 血がたぎりまする!」
こいつちょっと前まで泣き事言ってたのに、どうなってんだ。
「ヒャハハハッ! 雑煮の餅もいいが、やっぱり新年の初食いは敵の生首に限るぜェ!」
三太夫が大太刀を肩に担ぎ、狂ったように笑い始める。
「吉晴殿! ただちに武装を! この但馬が、命に代えてもお守りいたします!」
こいつら、どうしてどいつもこいつも戦闘狂なんだ。
俺の足はガクガクと震えていた。
「ま、待てお前ら、落ち着け! ここ、仮にも将軍様の御所だぞ!? 敵は一万って言ってたよな? こっちの守備隊は何人いるんだ!?」
「およそ二千といったところでしょうか! お館様が岐阜へ帰還されたため、圧倒的な数的不利でございます!」
勘兵衛が算木を弾き飛ばす勢いで机を叩き、絶望的な数字を出してきた。
「二千対一万!? ふざけんな、完全な無理ゲーじゃねえか!! しかもここ、ただのお寺だぞ!? 深い水堀もなければ、強固な石垣もないんだぞ!?」
俺は頭を抱えた。
「に、逃げるぞ! とりあえずどっかから脱出して、岐阜へ向かって……」
「なりませぬ!!」
但馬が、血走った目で俺の腕をガシッと掴んだ。
「我ら織田家の留守居役が、公方様を見捨てて逃げたとあれば、たとえ生き延びてもお館様に一族郎党皆殺しにされますぞ! 当家の誇りを守るため、ここは死守するしかありません!!」
「んなこと言ってる場合か! 一万相手に死んだら誇りももクソもねえだろうが!!」
俺が但馬と揉み合っていると、詰め所の外から怒号と金属音が聞こえ始めた。
すでに敵の先鋒が、寺に激しい攻撃を仕掛け始めているのだ。
(クソッ……この血の気の多い馬鹿どもは、放っておいたら絶対に一番激戦区に突っ込んでいく! そんなところに行ったら、真っ先に弓矢の雨を浴びて死ぬに決まってる!)
俺の元引きこもり特有の保身の直感が、猛烈な勢いで回転し始めた。
どうする? どうすればこの戦闘狂と堅物経理を、表門の死地から遠ざけつつ、一番安全な場所に引きこもらせることができる?
その時、俺の脳裏に究極の大義名分が閃いた。
「おい待て! お前ら、よく聞けェッ!!」
俺はわざとらしく声を張り上げ、寺の奥の方角を指差した。
「表門の防衛は他の部隊に任せろ! いいか、敵は一万だ、まともにやり合えばいずれ表門は突破される! 俺たち堀尾組の最優先任務は、いざという時に『将軍様を安全に逃がすための退路』を確保することだ! 一番目立たない『裏門』を固めて、脱出ルートを作るぞ!!」
俺の言葉に、部下たちの顔色が変わった。
「なっ……! なるほど、公方様の御命を最優先とし、退路を開く……!」
勘兵衛がポンと手を打った。
「さすがは兄上! 公方様の盾となり、血路を切り開くのですね! 武者震いが止まりませぬ!」
「チッ、派手なドンパチはお預けかよ。だがまあ、裏から逃げる時に邪魔する奴がいたら、俺が片っ端から両断してやるぜ!」
「吉晴殿のその深謀遠慮、但馬、感服いたしました! 何に代えても我らの退路をお守りしましょう!」
よし、完璧に誤魔化せた!
万が一寺が制圧されたら、そのまま裏門から岐阜へ向かって全力で逃げる!
「よし、お前ら! 急いで裏門へ向かうぞ! 絶対にそこを離れるなよ!」
俺は部下たちを引き連れ、寺の裏手にある裏門の方へと全力でダッシュした。
裏門の手前の物陰に転がり込み、積まれた資材の後ろに身を潜めて「ふう、これで一安心だ」と息を吐いた、その時だった。
「おお! 此処におられましたか、茂助殿!!」
寺の回廊の奥から、一人の武将が駆け寄ってきた。
高級な鎧を着込み、切羽詰まった表情を浮かべているが、その顔には俺を見た瞬間にパッと安堵の色が広がった。
明智光秀だった。
「み、光秀様!? なんでこんな寺の奥の裏門なんかに……!?」
「何を仰る! 敵の主眼は表門にあれど、本圀寺の構造上、最も防御が薄く、火を放たれやすい最大の急所はこの『裏門』です! 誰かがここを死守せねばと駆けつけましたが……まさか、すでに茂助殿が布陣を終えておられるとは!」
……は?
俺はポカンと口を開けた。
光秀は、俺の後ろで、将軍の逃げ道を確保するためにという名目で連れてきた、凄まじい殺気を放って武器を構える三太夫や氏光を見て、深く深く頷いた。
「敵が一万の軍勢で攻め寄せる中、誰もが表門の防衛に気を取られる。しかし、茂助殿は一瞬でこの寺の最大の死角を見抜き、誰に命じられるでもなく、ご自身の部下を率いて最も危険な裏門に回られたのですな……!」
「い、いや、違います光秀様! 俺たちはただ、いざという時の将軍様の『退路』を確保しようと……!」
俺が慌てて訂正しようとすると、光秀はさらに感極まったように目を見開いた。
「なんと見事な戦術眼! そう、敵も百も承知なのです。この裏門こそが上様の逃げ道になり得る最大の弱点だと! だからこそ、敵の別働隊は真っ先にここに火を放ち、上様の首を狙って雪崩れ込んでくる『死地』となる!」
「え……!」
「もしここが破られれば上様の命は尽き、上洛を果たした織田家の威信が地に落ちることを意味する。……さすがは、織田家で頭角を現す俊英。あなたのその決死の覚悟が、織田と幕府の双方を救う盾となるでしょう!」
光秀が、ガシッと俺の両肩を掴んだ。その瞳は、冷静な実務家としての深い信頼と感動に満ちていた。
俺の悲痛な叫びは、ドゴォォォォン!! という耳を劈くような轟音にかき消された。
すぐ真横にある裏門の木の門が、丸太を持った三好の兵たちによって外から激しく打ち付けられているのだ。
「敵襲ゥゥッ!! 裏門にも三好の兵が回ってきました!! その数、およそ五百以上!!」
「おのれ、やはり急所を狙ってきたか!」
光秀が刀を抜き放ち、俺を振り返った。
「茂助殿! 私は表門の指揮に戻らねばなりませぬ。数日耐えれば、近隣から援軍がやってきます。なんとしても持ち堪えねばならない! この裏門の防衛……貴殿に託します!」
「はあ!? ちょっと待て、俺たち数人だけで五百人相手にどうやって――」
「お案じなさるな! ここに私の手勢『二百』を置いていきます! 茂助殿の采配と、その勇猛な部下たちがいれば、必ずやこの急所を死守できると信じておりますぞ!」
光秀はそう言い残すと、二百の兵を俺の元に残し、颯爽と表門の方へ走り去ってしまった。
「さあ! 我らも堀尾様に続け!!」
光秀が置いていった二百の兵たちが、俺の後ろ姿を見て一斉に武器を構え、熱狂的な雄叫びを上げた。
「兄上! 光秀様より大任を任されましたな! 堀尾の武勇、天下に示す時!」
「ヒャハハハ! 裏門から来るコソ泥ども、我らで全員ミンチにしてやるぜェ!!」
メキメキッ……!!
外からの凄まじい体当たりで、裏門が内側に向かって大きくたわんだ。蝶番が悲鳴を上げ、今にも外れそうだ。
「突破されたら退路も命も終わりだ、とにかく扉を押さえろォォォッ!!」
俺は半狂乱になりながら、弾け飛びそうになる木の扉に体ごと突進した。
氏光も、三太夫も、但馬も、勘兵衛も、そして二百の兵たちも一斉に扉に群がり、外から押し破ろうとする三好の兵たちと、文字通り扉の押し合いが始まった。
「押し返せェェェ!! 絶対に開けさせるなァァァ!!」
ミシミシと軋む木の間から、敵の殺気と雪の冷たさが吹き込んでくる。
かくして、俺は二百の兵を率いて、絶対に開けてはならない絶望のタワーディフェンスを強いられることになってしまったのだった。




