第67話 大晦日の京都、決断の先延ばしと天才軍師の予言
今年も、残すところあと何日か。
京の底冷えは、雪国である越前や美濃の寒さとはまったく違う、底意地の悪い質の悪さを持っていた。吐く息は真っ白に染まり、槍を握る手足の感覚はとうの昔に麻痺して、自分が生きているのか死んでいるのかすら曖昧になりそうだった。
「おっしゃあ! 全軍、出立の準備を急げ! 岐阜へ引き上げるぞ!!」
陣中に響き渡る号令とともに、織田軍の主力部隊が次々と荷をまとめ、東へ向かって出立していく。
上洛という大事業を成し遂げ、将軍・足利義昭様を無事に京へ据え、ついに畿内の平定を完了させた我が主君・織田信長様は、一旦、本拠地である岐阜への帰還を決めたのだ。
数万もの大軍を、物価が異常に高く、兵糧の現地調達もままならない都に駐留させ続ければ、あっという間に織田家の財政が底を突く。
それに、美濃や尾張といった自国の領国経営をいつまでも放置するわけにもいかない。用が済んだらさっさと撤収する。
(やった……! やっと帰れる! 長かった上洛の強制イベントもこれでクリアだ!)
俺は、鼻水をすすりながらも、ウキウキで自分の荷物をまとめていた。陣幕を畳む手も普段の三倍は早い。
正直なところ、今の俺は、精神的にひどく追い詰められていた。
ここ数日、俺の頭の中は、将軍様から直々に持ちかけられた「高辻家という公家の養子になり、箔をつけてから将軍の直臣になれ」という、とんでもない引き抜き話のことでぐちゃぐちゃだったのだ。
(幕臣……。日ノ本の頂点である将軍様の直属の部下。響きは最高にカッコいいし、戦場の最前線に出なくて済むホワイトライフが待ってるかもしれない。でも……)
先日、朝廷でかなり偉い立場にあるはずの山科様の屋敷が今にも倒れそうなボロ屋だったのを見て、俺は強烈な不安に襲われていた。
戦乱の世において、武力を持たない公家は土地を奪われまくって極貧のどん底に喘いでいるらしい。俺が養子に入る予定の高辻家も、間違いなくヤバい財政状況のはずだ。
いや、そもそも公家が貧乏なだけじゃない。よくよく考えれば、将軍様自体が、三好とかいう三人衆に京を追われ、信長様の武力と財力に全乗っかりしてようやく都に帰ってこられただけの、名前だけ将軍みたいな状態なのだ。
そんなところに転職して、俺はいったい誰から給料をもらうというのか。
(今、俺は織田家からの給料をもらってる。ブラック企業とはいえ、確実に米が振り込まれる成長著しい企業だ。でも、もし俺が公家の養子になって幕臣になっちまったら、この権利はどうなる? もし将軍様から十分な給料が出なかったら、俺の部下たちは路頭に迷うぞ……。と言うか、部下たちは連れていけるのか?)
だが、だからといって「やっぱ辞めます」とキッパリ断る勇気なんて俺にあるはずがない。相手は天下の将軍様だ。不敬罪になってどんな罰を受けるか分かったものではない。
さらに最悪なのは、この話が上司の藤吉郎にバレることだ。他社への移籍を水面下で進めていると知られれば、あの猿野郎のことだ、あることないこと言って裏切り者として問答無用で首を刎ねられる。
(どっちのルートを選んでも地獄の究極の二択……! ええい、決められるかこんなもん! だからこそ、ここが逃げ時なんだ!)
俺は荷物をギュッと縛り上げた。
(しれっと岐阜に帰って、物理的に距離を置けば、将軍様に返答を急かされることもない! 面倒な選択肢は、とりあえず保留して先延ばしにするに限る!)
これが、元ニートだった俺の導き出した、最も生存率の高い逃亡・現実逃避ルートだった。
それに、岐阜に帰れば妻の桔梗が待っている。
口を開けば「足腰の鍛錬が足りませぬ!」と薙刀を振り回す気の強い嫁だが、いつ命を落とすか分からない洛中の最前線にいると、無性に彼女が恋しくなる。
あの安全なマイホームに早く帰って、コタツで丸くなりながら、嫁の小言をBGMに泥のように眠りたい。ただそれだけが、今の俺の切実な願いだった。
「兄上! こちらの荷造りもすべて終わりましたぞ!」
実の弟であり、俺の配下として押し付けられた熱血若武者・氏光が、自分の身の丈ほどある長槍を布で包みながら、寒空の下で爽やかに笑いかけてきた。
「おう、ご苦労。お前も初陣からの上洛戦、怪我なく生き残れて何よりだ」
氏光も、一時期は危うい感じがしていたが、なんとか立ち直ったようだ。
「へへっ。京の都はビビりばかりで敵がいなくて退屈でしたがね。岐阜に帰ったら、また裏山の野盗でも狩って勘を取り戻しやすよ。若も一緒にどうです?」
相変わらず血の気の多い人斬り、三太夫がニタニタと舌なめずりをしている。その後ろでは、従兄弟で真面目すぎる護衛役の但馬が、俺の荷物まで大量に背負い込んでいた。
さらにその後ろから、事務担当の勘兵衛が、紙に何かを書きながらやってきた。
「茂助様。いくら録が増えたからと言っても、京都で贅沢し過ぎたので、帰りは節約旅ですぞ」
「ええーっ、せっかくの帰省なんだから、たまには茶屋で美味いもん食おうぜ。」
「なりませぬ! たまにはって、毎日毎日そうやって京で贅沢し過ぎたので、私はやりくりが大変なのです!」
勘兵衛の容赦ない経費削減のツッコミを受けながらも、俺の気分はどこまでも晴れやかだった。
物騒な戦闘狂と、堅物な護衛と、口うるさい経理、そして熱血すぎる弟。今や中間管理職となった俺たち堀尾組は、この過酷な戦国をそれなりに逞しく生き抜いている。
(面倒くさい奴等だけど、こいつらの生活を守るためにも、一旦今は岐阜に逃げ帰って、幕臣の話はウヤムヤにするのが一番だ!)
「まあまあ、ケチなこと言うなよ勘兵衛。さあ、俺たちもさっさと帰るぞ!」
俺が意気揚々と立ち上がった、その時だった。
「……おう茂助。どこ行くんだ?」
背後から、地獄の底から響くような声がした。
振り返ると、腕を組んだ木下藤吉郎が、一切笑っていない真っ黒な瞳で俺を見下ろしていた。
「えっ? いや、あの、全軍撤退の号令が出たので、俺たちも岐阜へ帰還の準備を……」
「はあ? てめえ、何寝ぼけたこと言ってんだ。俺たちは居残りだぞ」
……はい?
俺の脳内カレンダーが、音を立ててフリーズした。
「い、居残りって……信長様は帰られるんですよね? 柴田様たちも騎乗してますし……」
「お館様が帰るからって、全員帰れるわけねえだろ。将軍を都にポツンと残して、誰が警護と政務の引き継ぎをやるんだ。丹羽様や、村井様、そして俺の部隊は、このまま洛中に残って越年だ」
藤吉郎は、俺の肩にポンと手を置いた。その手は、氷のように冷たかった。
「お前、前に言ったよな? 『一生泥水すすって働きます』って。それでこんな忙しい時期ニ、俺を置いて岐阜のぬるま湯に帰ろうなんて、甘ったれたこと考えてねえよなァ?」
「ひっ……! い、いえ! 滅相もございません! 喜んで年末年始も働かせていただきます!!」
俺は条件反射で地面にデコを擦りつけた。
(うわあああ! やっぱりこの間、団子食ってサボった件、絶対許されてないじゃん!)
俺のささやかな冬休みと、政治的危機からの逃避行は、無慈悲な上司の一言によって完全に粉砕されたのだった。
勘兵衛が絶望して白目を剥いて倒れ込み、その横で三太夫が不気味に嗤っている。但馬は悲壮な覚悟を決め、氏光は一人で的外れに燃え上がっていた。
***
数日後。
「……『追伸。西陣織は高すぎて買えませんでした。そして猿野郎の理不尽な命令で正月は帰れなくなりました。風邪など引かぬよう、温かくしてお過ごしください』……っと」
俺は本陣である寺の薄暗い一角で、筆を走らせていた。
せめて桔梗に手紙だけでも送ろうと、俺の乏しい語彙力を総動員して近況と謝罪を書き連ねているのだ。
「溜息をつきながらの文とは、いささか風情に欠けますね、茂助殿」
ふと、頭上から穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、青白い顔をした優男――竹中半兵衛が、苦笑交じりに俺を見下ろしていた。彼もまた、藤吉郎の与力として京に残されている一人だ。
「半兵衛様……。風情なんてあるわけないでしょう。嫁への詫び状です。楽しみに待ってるのに、正月も帰れないなんて伝えたら、次帰った時に何を言われるか……」
俺が恨めしそうに言うと、半兵衛は腰を下ろし、ふっと表情を引き締めた。
「奥方様も、武将の妻なればご覚悟はありましょう。……それに、今はとても帰れるような状況ではありませんからね」
「え? 状況って?」
「三好の残党です。彼らは阿波に逃れましたが、決して都の奪還を諦めてはいない。お館様が主力の大軍を引き連れて岐阜へ帰還した今、この京の都は一時的に力の空白が生まれています。……私が三好の将なら、間違いなくこの好機を狙って奇襲をかけますね」
半兵衛の淡々とした、しかし冷徹な戦術分析に、俺は背筋がゾクッとした。
(奇襲……!?)
「い、いやいや、いくらなんでも正月に戦争なんかしないでしょう。向こうだってコタツで餅食って休みたいはずですし……。わざわざこんな底冷えする時期に海を渡ってくるバカなんて……」
「茂助殿」
半兵衛の細い目が、スッと開かれた。その奥には、数多の戦場を盤面のように見下ろしてきた天才軍師の冷たい光が宿っていた。
「兵法において、敵の嫌がることをするのが最上の策です。誰もが気を抜き、餅を食って休みたい正月……それこそが、奇襲の成功率を最も高める絶好の機なのです。……まぁ、三好には私がいませんけどね」
「…………」
俺は言葉に詰まった。
半兵衛の言うことは理にかなっている。だが、俺の事なかれ主義の脳みそは、全力で現実逃避を試みていた。
「まあ、案ずることはありません。我らもそのための居残りですから。茂助殿の隊は将軍座所の本圀寺の警備に当てられる予定ですので、万一の時は、茂助殿の働きに期待しておりますよ。それに、織田には私がいますから」
半兵衛は俺の強張った顔を見て、俺を安心させるためかふっといつもの穏やかな笑みに戻った。
「奥方様への文、私が手配する早馬のついでに届けさせておきましょう」
「あ、ありがとうございます……助かります」
俺は手紙を丸め、半兵衛に託した。妻に会えない寂しさよりも、半兵衛の不吉な予言が、鉛のように胃を重くしていた。
***
そして迎えた、大晦日の夜。
俺は、将軍・足利義昭様の仮御所となっている『本圀寺』の門前で、冷え切った手を焚き火にかざしていた。
夜空を見上げると、チラホラと白い雪が舞い始めている。
「兄上……寒いです……足の指がもげそうです……」
隣で槍を抱える氏光が、ガチガチと歯の根を鳴らしている。
「我慢しろ。俺だって寒いんだよ。なんで大晦日に外で夜警なんかやらなきゃならねえんだ……」
俺たちは、藤吉郎の命令で本圀寺の周辺警備に駆り出されていた。
カチカチの干し飯を流し込みながら、俺の頭の中は今もぐちゃぐちゃだった。
領地も金もない空っぽかもしれない幕府に転職して、極貧公家として将軍に仕えるべきか。
それともこのまま織田家に残り、藤吉郎のもとで正月返上の極寒の夜警をさせられ、一生泥水すすって死ぬまでブラック労働を続けるべきか。
決断を保留にして岐阜に逃げる計画は失敗に終わり、こうして京に残っている以上、いつ将軍様に呼び出されて返答を迫られるか分からない。どちらを選んでも胃が痛くなる究極の二択を前に、俺はただ焚き火の炎を見つめるしかなかった。
「おい、若」
三太夫が、焚き火に薪をくべながら声を潜めた。
「さっき、門の前を通った町衆がヒソヒソ話してるのを聞いたんだがよ。なんか、阿波に逃げた三好の連中が、海を渡ってこっちに向かってるって噂だぜ……?」
「げっ……」
俺は、昼間の半兵衛の言葉を思い出し、嫌な汗をかいた。
「……馬鹿野郎、ただの噂だろ。こんな雪の降るクソ寒い大晦日に、わざわざ海を渡ってくる物好きがいるわけねえだろ。あいつらも人間だぞ」
俺は努めて強気に言い放ち、部下たちを安心させるように笑ってみせた。
(そうだ。ここは将軍様の膝元だぞ。今の日本で一番偉いVIPの住まいで、明智光秀とか有能な幕臣も揃ってる。言ってみれば、今の日ノ本で一番安全な『セーフエリア』のど真ん中だ)
俺は焚き火の暖かさに少しだけまぶたを重くしながら、迫り来る新年に、ささやかな平和ボケした希望を抱いていた。
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