第150話:春の知らせ。最前線で知る未来
正月の岐阜での元服式と、親父や嫁に絞られたあのドタバタの休暇から数ヶ月が過ぎた。
季節は巡り、春。
だが、俺が舞い戻った北近江の最前線、横山城の泥沼には、春の訪れを楽しむような余裕は微塵もない。浅井軍との終わりの見えない小競り合いと、藤吉郎の怒声に追われながら土砂を運ぶ地獄の日々が続いていた。
「兄上! 岐阜の屋敷から、早馬で書状が届きましたぞ!」
陣屋の隅で泥だらけの籠手を外していると、俺の配下としてすっかり前線に馴染んできた弟の氏光が、一通の書状を手にして駆け込んできた。
「岐阜から? なんだよ、また親父の長ったらしい武士道説教の手紙か……?」
俺はため息をつきながら書状を受け取った。だが、表書きを見ると、差出人は親父ではなく、妻の桔梗だった。
「桔梗からか。俺に手紙なんて珍しいな……ん?」
封を切り、文面に目を通し始めた俺の表情が、次第に強張っていく。
『――ここ数日、ひどく体調を崩し、日課の素振りすらできず床に伏せっておりました』
そこまで読んだ瞬間、俺の心臓がドクンと跳ねた。
あの無尽蔵のスタミナを誇る桔梗が、床に伏せっている!?
現代なら抗生物質で治るような風邪でも、この時代ではあっさりと命を奪う。まさか結核とか悪い病にかかったのではないか。俺の手は、かすかに震え始めた。
「兄上……? いかがなされました? 義姉上に何か……」
氏光や、傍らにいた三太夫、勘兵衛らが、俺の尋常ではない顔色を見て青ざめる。
「ま、待て……続きが……」
俺は息を呑みながら、震える目で次の行を追った。
『町医者を呼び立てて診せましたところ、病ではございませんでした。……私の中に、旦那様との子がおります。身妊とのことです』
「…………」
俺は、あまりの衝撃に言葉を失い、書状を持ったまま石像のように固まった。
「も、茂助様!? 顔面蒼白ですが、まさか奥方様に不……!?」
「兄上! しっかりしてください!」
焦る氏光たちが俺の肩を揺さぶる。
俺はゆっくりと顔を上げ、放心状態のまま、かすれた声で呟いた。
「……できた、らしい」
「は?」
「桔梗の腹の中に……俺の、子供が……」
その瞬間、陣屋の空気が一瞬だけピタリと止まり――。
「おおおおおおおっ!! 誠でございますか!!」
「兄上! おめでとうございます!! ついに堀尾の跡取りが!!」
「やったぞ! これでうちの組も安泰だ!」
氏光をはじめ、三太夫や勘兵衛たち荒くれ者どもが、一斉に歓声を上げてバンザイを叫び始めた。
だが、周囲の喧騒とは裏腹に、俺の心臓は凄まじい早鐘を打っていた。冷や汗がどっと吹き出し、膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
(子供が、できた……? 俺の?)
嬉しい? いや、違う。怖い。恐ろしい。
俺は現代日本で、自分の面倒すらろくに見られなかったただのニートだ。そんな俺が親になる?
俺は泰晴にでっち上げられた偽物だ。偽物の俺から生まれる子は、一体誰の子なんだ?
ぐるぐると暗い思考が渦巻く中、俺の脳裏に、この時代で直面してきた凄惨な記憶がフラッシュバックした。
宇佐山城の防衛戦で、信長という魔王の盾となり、無数の矢や槍を浴びて血だるまになって死んでいった森可成の姿。
比叡山の焼き討ちで、俺の目の前で燃え盛る業火に飲まれ、二度と会えなくなってしまった真の僧・蓮心の笑顔。
昨日まで生きて、笑って、言葉を交わしていた人間が、今日にはあっけなくただの肉塊や灰に変わってしまう。それが、この戦国という狂った時代だ。
そんな簡単に命が使い捨てられる地獄に、俺は新しい命を呼び込んじまったのか?
(もし、俺が明日死んだら……?)
俺が死ねば、桔梗は未亡人になる。
残された子供は、父親の顔も知らないまま、血で血を洗う争いの中に放り出される。城が落ちれば、赤子ごと無慈悲に撫で斬りにされるような世界なのだ。
これまで俺は、「死にたくない」「痛いのは嫌だ」という生存本能だけで逃げ回ってきた。いざとなれば「俺はこの時代の人間じゃないから」と言い訳をして、どこかで責任から目を背けていた。
だが、子供ができれば、もう逃げられない。俺は完全に、この過酷な戦国時代に根を下ろすことになる。
(無理だ……俺なんかに、守りきれるわけがない……!)
圧倒的な死の恐怖と、命を背負う重圧に押し潰されそうになりながら、俺は震える手でもう一度、桔梗の手紙に目を落とした。
『武門の女として、己の体の変化にも気づかずお恥ずかしい限りです。旦那様が戦場からお戻りになる頃には、必ずや元気な赤子を産んでみせます。どうかご武運を』
不器用で、強がりで、それでも新しい命を宿した喜びに満ちた文字。
それを見つめているうちに、俺の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
怖い。逃げ出したい。
でも。
(これは、俺の家族なんだ)
親のカードで生きていた現代から放り出され、他人の名前を名乗り、泥水すすって、みっともなく生き延びてきた俺の、たった一つの真実。俺と桔梗の血を分けた、本物の繋がりだ。
森可成も、蓮心も、こんな狂った世の中で、何かを守ろうとして命を散らしていった。
俺だけが「怖いから」と逃げ続けるわけにはいかない。
俺が死ねば、あの子はどうなる? それだけは、絶対に嫌だ。絶対に許せない。
「兄上……? いかがなされました……?」
氏光が心配そうに覗き込んでくる。
俺は、袖で乱暴に涙を拭った。この涙は、感動だけじゃない。己の不甲斐なさへの情けなさと、圧倒的な恐怖、そして――それを上回るほどの、執念の涙だ。
「氏光……俺、親父になるんだな」
「はい! 立派なご嫡男が生まれることを願っております!」
「……ああ。そうだな」
胸の奥底で、臆病に逃げ回っていただけの俺の生存本能が、『守る者』としてのどす黒く、しかし強靭な覚悟へと変質していくのを感じた。
俺は立ち上がり、陣屋にいる配下たちを鋭く見回した。
「氏光! 三太夫、勘兵衛!」
「「「はっ!」」」
「いいか、お前ら! 俺は絶対に死なん! お前らも絶対に死なせん! 何が何でも生き汚く生き延びて、全員で俺の子供の顔を拝みに帰るぞ!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
終わりの見えない横山城の最前線。
泥と血にまみれたこの地獄の底から見上げた春の空は、どこまでも青く澄んでいた。
偽物の俺が初めて得た、本当の命。生まれてくる我が子を、明日死ぬかもしれない恐怖に怯えず、薙刀なんか振らなくても笑って暮らせる世界にするため、俺はもう一度、戦国の泥を強く踏みしめた。
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