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第151話:十七ヶ条の意見書と、義昭の手紙


 桔梗の妊娠という一筋の希望を胸に、俺はただひたすらに横山城での過酷な任務に耐え続けていた。


 すべては生きて帰り、生まれてくる我が子を抱き上げるためだ。泥にまみれようが、藤吉郎に怒鳴られようが、今の俺にはそれを笑って受け流せるだけの確かな芯があった。


季節は巡り秋。


 肌寒い風が北近江に吹き抜けるようになった頃、京の都から、日本中を震撼させる特大のニュースが飛び込んできた。


「茂助殿。……どうやら、お館様は本気のようですよ」

 陣屋の隅で兵糧の計算をしていた俺のもとへ、小一郎と半兵衛が、深刻な顔をしてやってきた。

 小一郎の手には、一枚の書状が握られている。


「本気って、何がですか? また浅井への総攻撃でも仕掛けるんですか?」

「いえ。矛先は浅井ではありません。……京の都におわす、室町幕府第十五代将軍・足利義昭公です」


 足利義昭。

 その名前を聞いた瞬間、俺の胸の奥がチクリと痛んだ。


 立派な御所のふかふかの畳の上で、俺の適当なアニメやゲームの話に誰よりも目を輝かせ、無邪気に大笑いしてくれた、あの気さくで不器用な将軍様。


 比叡山の焼き討ちの直後、二条城で「もう二度と顔を見せるな」と決別して以来、お館様との関係が急速に悪化しているとは聞いていたが、ついに決定的な何かが起きたらしい。


「お館様が、義昭公に対して『十七ヶ条の意見書』と呼ばれる書状を突きつけられました。これはその写しです」

 半兵衛が、その書状を俺の前に広げた。 


「十七ヶ条の意見書? えっと、要するに幕府への業務改善要求みたいなもんですか?」

「……ぎょうむかいぜん? 兎にも角にも、生易しいものではありませんよ。これは……天下に対する、公然たる将軍への大糾弾だいきゅうだんです」

 半兵衛は、ひどく冷ややかな目でその文面を見つめた。


「『朝廷への忠義を蔑ろにしている』『諸大名へ勝手に手紙を送り、天下を乱している』『民が飢えているのに、幕府は金銀や米を溜め込んでいる』……。果ては『悪しき取り巻きの意見ばかり聞き、天下の主としての器量がない』と」

 俺は唖然とした。


 将軍といえば、腐ってもこの国のトップだ。そのトップに対して、一介の大名である信長が、「お前は政治家として無能だ」「強欲で民を見捨てている」と、全国の大名にばら撒くような形で痛烈に批判したのだ。


 現代の会社で言えば、社長の不正や無能ぶりを、実権を握る専務が全社員と取引先に向けてSNSで大暴露したようなものだ。


「直接的な宣戦布告とまではいきませんが、内容は苛烈を極めます。将軍に宛てる書状としては、あまりにも無礼」

 小一郎が、扇子をパチンと閉じて言った。


「お館様は、天下の権威である将軍を、完膚なきまでに叩き潰すおつもりです。義昭公の権威はこれで地に落ちました。もはや、お館様は義昭公を天下の主として認めていないも同然。……両者の関係が修復されることは、二度とないでしょう」

 俺は背筋が寒くなった。


 義昭様は、プライドが高い。武士としての力はないが、足利とかいう名門の血を引く将軍としての誇りだけを支えに生きてきた人だ。それを、こんな形で世間に晒し者にされて、黙っているはずがない。


その日の夜。


 薄暗い陣屋で俺が一人、炭火に当たっていると、見知らぬみすぼらしい旅の僧が、スッと陣幕の入り口に現れた。


「……堀尾吉晴殿でござるな」

「あ、はい。そうですけど……」

「京より、密書にござる」

 僧は、懐から小さく折り畳まれた文を俺に押し付けると、返事も待たずに闇の中へ消えていった。


 京からの密書。

 俺は嫌な予感に心臓をバクバクさせながら、周囲に誰もいないことを確認し、震える手でその文を開いた。


『――茂助。息災か』

 その最初の2文字を見た瞬間、俺の視界が滲んだ。


 二条城で「二度と顔を見せるな」と冷たく突き放したはずの将軍が、俺のような下っ端武将を、あの時のように茂助と呼んでくれている。


『二度と余の前に顔を見せるなと言い放っておきながら、こうして文を送る無様を笑ってくれ。

 あの十七ヶ条を見たか。余は、天下に恥を晒された。信長にとって、余は将軍ではない。ただの操り人形、不要になればいつでも捨てられる木偶でくだったのだ。将軍としての誇りまで奪われ、ただ生き長らえるだけの命に、何の意味があろうか』

 文字は所々震え、滲んでいた。偉い人は自分で手紙は書かないはずだが、これは直筆かもしれないと思った。


 天下人という神輿に乗せられ、気づけば梯子を外され、誰にも本音を言えないまま孤独の底に突き落とされた男の、悲痛な叫びに聴こえた。


『茂助、もはや後戻りはできぬ。

 余は、織田信長を討つ。全国の大名に、余を助けよと御内書ごないしょを放った。間もなく、天下が動く。

 ……本当は、もう一度お前と、ただの友として笑い合いたかった。お前が語る、あの金色の髪の武将や青き狸の物語の続きを、あの部屋でいつまでも聞いていたかったのだ。

 だが、余は足利の将軍として、誇り高く死なねばならぬ。お前はお前の選んだ場で、守るべきものを守り抜け。さらばだ、我が友よ』

 最後は、乱れた筆跡でそう締めくくられていた。

 俺は、手紙を持ったまま、声にならない嗚咽を漏らした。


「……金色の武将はな、最終的に宇宙一強くなるんだよ。青い狸は、未来に帰っちまうんだ……。まだ、最後まで話してねえじゃねえかよ……」

 あの時、二条城で蜘蛛の糸のように差し伸べられた手を、俺は拒絶した。


将軍という孤独な檻に友を一人取り残し、俺は自分の意志で泥の中へと戻ったのだ。

 将軍の誇りなんて、どうでもいいじゃないか。あんな魔王に喧嘩を売ったら、どうなるか分かってるだろうに。


 今すぐ京にすっ飛んでいって、「意地なんか張らずに逃げましょう」と首根っこを掴んで引っ張り出したい。あの時のように、一緒に安全な部屋に引きこもって、適当なアニメの話をして「それは誠か!」と笑い合いたい。


 俺の心は、義昭様の元へ駆けつけようと激しく叫んでいた。

 だが。

 俺の足は、一歩も動かなかった。


(……桔梗)

 俺の脳裏に、大きくなり始めた腹をさすりながら、俺の帰りを待つ嫁の姿が浮かんだ。


 俺が今、お館様を裏切って義昭様の側につけば、どうなるか。

 間違いなく俺は死ぬ。そして、桔梗も、生まれてくる俺の子供も、魔王の報復によって惨殺される。堀尾の実家も、氏光も、俺を頼ってきた部下たちも、全員が地獄に落ちる。


「……ごめんなさい、義昭様」

 俺は、顔をくしゃくしゃにして泣きながら、義昭様からの手紙を細かく引き裂き、目の前の炭火にくべた。


 チリチリと音を立てて、この時代で唯一心を許せたオタク友達からの最後の手紙が灰になっていく。

 俺は友を見捨てた。


 薄情で、臆病で、卑怯な男だ。

 だが、父親になる俺は、何があっても自分の家族を優先しなければならない。友を見殺しにするという罪悪感を、一生背負って生きていくしかないのだ。


 燃え尽きた灰を見つめながら、俺は陣屋の幕を開け、夜空を見上げた。

 冷たい風が、肌を刺す。

 義昭様が「天下が動く」と言っていた。


 将軍の密書を受け取った全国の大名たちが、あの魔王を討つために一斉に立ち上がる。

 歴史の知識がない俺にも、その絶望的な巨大な波の気配だけは、肌が粟立つほどに感じられた。


 家族を守るための本当の戦いが、すぐそこまで迫っていた。俺は奥歯を強く噛み締め、真っ暗な北近江の空をただ静かに睨みつけていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
その書状信長に見せればお手柄だったのに
義昭自体には信長包囲網を敷いた自覚が薄そう 周りが主導して動いていたのが透けて見えるのが、将軍としての未熟さを表現しているようで結構好きです。
うーんとっといたら国宝かもな書状が灰に。涙
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