第147話:元服式の名代と、魔王の突然変異
横山城に、身を切るような冷たい木枯らしが吹き始めた頃。
陣屋で俺と半兵衛がチクチクと気球の布を縫い合わせていると、ドカッと乱暴に襖が開いた。
「おい茂助! 裁縫遊びはそこまでにしとけ!」
上司の木下藤吉郎が、ドスドスと足音を立てて入ってくる。その後ろには、いつも通り涼しい顔をした弟の小一郎が控えていた。
「遊びじゃありませんよ。これはいつか空を飛ぶための……」
「飛ぶかバカ! そんなもんより、重大な任務だ。今すぐ小一郎と一緒に、岐阜城へ向かえ」
「岐阜へ? 何かあったんですか」
俺が布を置くと、藤吉郎は腕を組み、忌々しそうに小谷城の方角を睨んだ。
「お館様の嫡男である奇妙丸様、次男の茶筅丸様、三男の三七郎様が揃って元服式を執り行われる。織田家の跡取りたちが正式に大人になる、超がつくほどの重要な儀式だ。だが、浅井がきな臭い動きをしていて、どうしても俺は最前線を離れられねえ」
「なるほど。だから俺と小一郎様が、藤吉郎様の名代としてお祝いに行くわけですね」
「そういうこった。小一郎がいれば挨拶や進物は完璧だが、万が一の道中の護衛と、うちの組のハッタリとしてお前のデカい図体が必要だ。……いいか、粗相だけは絶対にするなよ!」
藤吉郎が恩着せがましく胸を張った、その時だ。
後ろで涼しい顔をして控えていた小一郎が、やれやれとため息をついて口を開いた。
「浅井がきな臭い動き? はて。 ……兄上。それは建前で、本当はおね義姉上に顔を合わせるのが恐ろしいだけでは?」
「なっ!? ち、ちげえよ! 俺は純粋に、戦のために……!」
「京に滞在していた折、羽を伸ばして遊女を囲っていたことがおね義姉上の耳に入り、たいそう激怒されていると耳に挟みましたが。今、岐阜に帰れば、浅井の夜襲よりも恐ろしい目に遭うから帰りたくない……違いますか?」
小一郎の容赦ない追及に、藤吉郎は顔を真っ赤にして盛大に狼狽した。
「ばっ、馬鹿野郎! 小一郎、お前それ以上言うな! いいからお前ら、とっとと岐阜へ行け!」
(……なんだよ、立派なこと言ってただの浮気バレからの嫁逃げじゃねえか!)
俺は内心で激しくツッコミを入れながらも、心の中では歓喜のファンファーレが鳴り響いていた。
岐阜へ帰れる! 上司の自業自得とはいえ、泥まみれの最前線を離れて、嫁の桔梗がいる自分の屋敷に帰れるのだ!
「承知いたしました! 藤吉郎様のご威光に泥を塗らぬよう、立派に名代を務め上げてみせます!」
「……お前、岐阜に帰れるのが嬉しいだけだろ。まあいい、さっさと行け」
俺の分かりやすい態度に呆れながらも、藤吉郎は手をひらひらと振って送り出してくれた。
数日後、岐阜城。
久しぶりに戻ってきた織田の本拠地は、正月を控えたお祭りムードと、若君たちの元服を祝う熱気でむせ返るような賑わいを見せていた。
灰の匂いも、血の臭いもない。町民たちが笑顔で歩き回り、商人たちが活気のある声を上げている。
「平和ですねえ、茂助殿。なんだか、横山城の泥沼が嘘のようです」
隣を歩く小一郎が、ホッと息をつきながら城下の景色を見渡した。
「本当ですね。でも、俺たちが向こうで泥水すすってるからこそ、この平和があるんだって思うと、ちょっとは報われた気がしますよ」
「ええ。兄上には悪いですが、少しだけこの空気を満喫させてもらいましょう」
俺たちは身なりを整え、厳かな空気に包まれた岐阜城の大広間へと通された。
居並ぶ重臣たちの中には、明智光秀や柴田勝家などの顔もある。俺たちはあくまで藤吉郎の『代理』なので、末席で大人しく平伏していた。
やがて、上座に魔王・織田信長が現れた。
比叡山を焼き討ちにしたあの時と同じ、底知れぬ漆黒の瞳。だが、今日ばかりはその顔に、ほんのわずかながら父親としての柔らかい光が宿っているように見えた。
そして、織田家の筆頭家老である林秀貞が、威儀を正して進み出た。
ん? 林って誰だよ……。こんなやついたか?
「――これより、奇妙丸様、茶筅丸様、三七郎様の元服の儀を執り行う!」
林秀貞の進行のもと、三人の若君が静かに進み出た。
俺は織田家の子息たちをこんなに間近で見るのは初めてだったが、烏帽子を被り、立派な直垂に身を包んだその姿は、すでに一人前の『武将』の顔付きになっていた。
信長の低く威厳に満ちた声が響く。
「奇妙丸よ。本日より、名を『信重』と改める」
織田家の広大な領地と軍事力をすべて受け継ぐ宿命を背負った青年の誕生だった。
続いて、進行役の林秀貞の声が広間に高らかに響き渡る。
「次男・茶筅丸様は、伊勢の国司・北畠家を継ぎ、これより『北畠具豊』と名乗られる! 同じく三男・三七郎様は、伊勢の神戸家を継ぎ、『神戸信孝』と名乗られる!」
次男と三男への名乗りと儀式が滞りなく進み、広間は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。
その後の祝宴の席。
小一郎が見事な手腕で他所の武将たちへの挨拶や進物の引き渡しをこなし、俺はその後ろでひたすら愛想笑いを浮かべて頷くという、完璧なコンビネーションを発揮していた。
「木下藤吉郎が名代、小一郎殿、ならびに堀尾茂助殿であるな」
不意に、涼やかな声が降ってきた。
顔を上げると、元服したばかりの嫡男・織田信重が、側近を連れて俺たちの前に立っていた。
「ははっ! 信重様におかれましては、本日のご元服、誠におめでとうございまする!」
小一郎が流れるように平伏し、俺も慌ててそれに倣う。
「大儀である。藤吉郎には、最前線での苦労を労うよう伝えてくれ」
「はっ。兄も、信重様の晴れ姿を拝見できず、ひどく残念がっておりました」
「よい。北近江での木下組の働き、戦目付からの報告で余も目を通しておる」
信重はそこで言葉を切り、スッと俺の方へ視線を向けた。
「そちが、堀尾茂助か」
「は、はっ! いかにも」
「宇佐山の防衛戦や比叡山での働き、耳にしておる。父上も『あれは泥に塗れ、決して見栄えはよくないが、必ず結果を持ち帰る不屈の男だ』と褒めておられたぞ」
信重はそう言うと、ふっと花が咲くような、極めて爽やかで裏表のない笑顔を見せた。
「余も近いうちに、初陣として戦場へ立つことになろう。その時は、そちたちのような叩き上げの者たちから、戦の何たるかを学ばせてもらいたい。これからも織田のため、頼りにしているぞ」
それは、若さゆえの真っ直ぐな誠実さと、上の者としての気品に溢れた、完璧な名将の振る舞いだった。
「……ははっ! もったいなきお言葉でございます!」
俺が深く頭を下げると、信重は満足げに頷き、次の武将たちの席へと歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は内心で凄まじい勢いでツッコミを入れていた。
(……いやいやいや! めちゃくちゃイイ子じゃねえか!!)
俺は顔を上げ、遠く上座で酒杯を傾けているお館様――織田信長をチラリと盗み見た。
怒らせれば神仏の山だろうが何だろうが全焼させる、あの理不尽と恐怖の権化みたいな魔王。その遺伝子から、どうしてあんな『爽やかで礼儀正しい好青年』が育つんだ。
(本当に信長様の子なのか……!? 鳶が鷹を生むどころじゃない、魔王から勇者が生まれたような突然変異だろ! DNAどうなってんだ!?)
俺が心の中でパニックになっていると、小一郎がクスクスと笑いながら袖を引いた。
「驚きましたか、茂助殿。信重様は、お館様とは対照的に、とても温和で実直な御気性であらせられるのです。柴田様や佐久間様といった古参の重臣たちも、こぞって信重様の器量を絶賛しておりますよ」
「なるほど……。お館様の恐怖政治でピリピリしてる家臣たちからすれば、あの爽やかさは砂漠のオアシスみたいなもんなんですね」
「ええ。ですが……あちらの御二方は、少々風向きが違うようですが」
小一郎の視線の先を追うと、そこには少し離れた席に座る、次男の北畠具豊と三男の神戸信孝の姿があった。
二人は並んで座っているものの、あからさまに視線を合わさず、周囲の家臣を巻き込んで冷たい火花を散らしている。
「……なぁ、小一郎様。あっちの二人、なんか空気ピリピリしてないか?」
「ええ。実は三男の信孝様の方が数日早くお生まれになったのですが、母上の身分の違いで、具豊様が次男、信孝様が三男とされてしまったのです。しかも、一方は国司の名門たる北畠家を継ぎ、もう一方は土豪の神戸家。それゆえ、昔からお互いに強い対抗心を抱いておられまして」
「なるほど、そりゃ拗れるわけだわ」
そう言いながら、2人を観察する。
次男である具豊はどこか上の空で、自分の烏帽子を気にするような落ち着きのない仕草を繰り返している。
一方で三男の信孝は、じっと鋭い目で長男・信重の後ろ姿を睨みつけ、酒杯を握る手にギチギチと力を込めていた。
俺はバチバチと睨み合う二人と、爽やかな信重、そして上座の魔王を見比べた。
「なんだか……いびつな兄弟ですね。仲良くすればいいのに」
俺が素直な感想を呟くと、小一郎が扇子で口元を隠し、誰にも聞こえないように声を潜めて言った。
「……お館様という、時代が生んだ巨大な怪物の器量。あの御三方は、それを極端に三等分して引き継いでしまわれたのかもしれませんね」
「三等分、ですか?」
「ええ。長男の信重様は、お館様がお持ちの真っ直ぐな『才』の部分を。次男の具豊様は、かつて大うつけと呼ばれ、誰も理解できなかった時代の『うつけ』の側面を。そして三男の信孝様は、敵を容赦なく叩き潰す、あの冷徹な『狂気』の側面を」
小一郎の静かで鋭い分析に、俺はハッと息を呑んだ。
俺は前世の歴史知識なんてさっぱり持っていないし、彼らが将来どうなるかなんて知る由もない。
だが、この時代で這いつくばって生きてきた嗅覚が、小一郎の言葉に猛烈な危険信号を鳴らしていた。
それぞれが強烈なエゴと欠落を抱え、互いに腹の底で睨み合っている異様な兄弟関係。こんなものが、将来平和に治まるわけがない。
(なんだこの家族……絶対いつか、身内同士で血みどろの喧嘩始めるだろ、これ)
歴史音痴の俺でも分かるほどの、時限爆弾のような危うさ。俺は背筋が寒くなり、そっと視線を逸らした。雲の上の後継者争いなんて、俺のような下っ端が関わっていい領域ではない。
「……まあ、あくまで私の独り言です。織田家の未来は、信重様の才によって存外明るいかもしれませんよ」
小一郎はいつもの穏やかな笑顔に戻り、盃を口に運んだ。
「……そうだと、良いんですけどね」
俺は背筋の冷たさを誤魔化すように笑い、目の前の酒を煽った。
祝宴がお開きになり、外へ出ると、冷たい冬の夜風が火照った顔に心地よかった。大役を終えた安堵感と、関わってはいけないものを見た疲労感で、俺は大きく伸びをした。
「さて、茂助殿。兄上には数日の滞在の許しを得てあります。明日の昼までは自由の身ですよ」
「マジですか! 小一郎様、一生ついていきます!」
「ははは、そういう現金なところは相変わらずですね。さあ、早く桔梗殿の待つお屋敷へ帰ってあげなさい」
「ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えて!」
俺は足取りも軽く、小一郎に手を振って自分の屋敷へと走り出した。
厄介な政治の火種から解放され、大好きな嫁が待つ温かい家へ。この時の俺は、完全に浮かれていた。
この後、自分の屋敷で、戦場よりも気疲れする最悪の『邪魔者』が待っていることなど、微塵も想像していなかったのだ。




