第146話:横山城の閉塞と、空への逃避行
京の都から北近江の最前線、横山城へと戻ってきた俺を待っていたのは、終わりの見えない泥沼の小競り合いだった。
目と鼻の先にある小谷城には、浅井長政が依然として固く籠城している。比叡山が焼き討ちされ、朝倉への牽制が強まったとはいえ、浅井軍の士気は全く衰えていなかった。
むしろ背水の陣となったことで、ゲリラ的な夜襲や補給路への妨害が激化し、横山城の空気は常にピリピリと張り詰めている。
「おせえぞ茂助! 公方様へのご機嫌取りなんざサッサと済ませて、さっさと土砂運びに戻りやがれ!」
帰還の報告をするなり、上司の木下藤吉郎は怒声と共に分厚い帳簿を俺の胸に叩きつけてきた。
相変わらずブラック企業の鬼軍曹である。だが、その目の下には濃い隈が刻まれ、陣羽織は泥と血で黒ずんでいた。俺が京で安全な畳の上にいた数日の間も、この最前線では命のやり取りが続いていたのだ。
「すんません、すぐに持ち場に戻ります。……藤吉郎様も、少しは休んでくださいよ。過労で倒れますぜ」
「馬鹿野郎、俺が休んだら誰がこの城を持たせるんだ。お前こそ、京の綺麗な水でふやけたツラしてんじゃねえ。ここは地獄だ、気ぃ引き締めろ!」
藤吉郎の言う通りだった。
横山城のぬかるんだ地面を歩くたび、泥と鉄の臭いが鼻を突く。それは間違いなく俺のいるべき現実の臭いだったが、比叡山の灰と京での喪失感を引きずった俺の心は、どうしようもなくすり減っていた。
それから数日。俺は空いた時間を見つけては、陣屋の隅でひたすらある作業に没頭し始めていた。
「若……本当に頭がおかしくなっちまったんですかい」
三太夫が顔の傷をヒクつかせながら、ドン引きした顔で俺を見下ろしている。
「うるせえ。これは大事な任務なんだよ」
「いくらなんでも無理がありやすぜ。いい歳した大男が、布をチクチク縫い合わせるのが任務なわけねえでしょうが」
俺がやっていたのは、町で買い占めてきた大量の丈夫な麻布や絹布を、ひたすら針と糸で縫い合わせるという地味極まりない作業だった。
戦国武将が陣屋の隅で体育座りをして裁縫をしているのだから、部下から不気味がられるのも無理はない。だが、俺は現実から目を背けるように、無心で針を動かし続けていた。
泥まみれの地面も見たくない。血の臭いも嗅ぎたくない。ただ、何か別のことに狂ったように集中していなければ、心がパンクしてしまいそうだったのだ。
「――おや。茂助殿、もしかしてそれは……」
不意に、背後から穏やかな声がした。
振り返ると、軍師の竹中半兵衛が、布の山を見つめて微笑んでいた。時折ゴホゴホと乾いた咳をしているが、その瞳は相変わらず底知れぬ知性を光らせている。
「半兵衛か。いや、こいつはその……」
「もしや、かつて資金不足から『棚上げ』にしたあの計画……人が乗るための巨大気球の制作を、一人で再開しておられたのですか?」
「はは……まあ、チマチマと端切れを集めれば、いつかは形になるかなって」
俺が苦笑いして頭を掻くと、半兵衛はスッと目を細めた。そして、ゴクリと喉を鳴らす。
「なるほど……! さすがは茂助殿です。あの『天高く浮かび上がり、城を丸裸にする』という秘密兵器、私とて忘れたことなど一日たりともありませんでしたぞ!」
「え?」
「あの時の雪辱、今こそ共に晴らしましょう。私も手伝います!」
半兵衛は優雅な所作で床に座り込むと、俺の隣から針と糸を奪い取り、嬉々として布を縫い合わせ始めた。
そこから先は、横山城の兵士たちにとって異様な光景が続くことになった。
外では大砲の音や鉄砲の破裂音が鳴り響き、血みどろの小競り合いが続いているというのに。陣屋の裏手では、熊のような巨漢の武将と、病弱な美青年の天才軍師が、二人並んで黙々と巨大な布をチクチクと縫い合わせているのだ。
「茂助殿、この縫い目では空気が漏れます。もっと細かく、重ねて縫うべきです。それに、風の抵抗を減らすには形状も……」
「半兵衛、お前相変わらず裁縫うめえな。てか、軍議に出なくていいのかよ」
「構いませんよ。小谷城の包囲はすでに盤石です。それよりも、この人が乗れる孔明灯の方が百倍重要ですからね」
半兵衛は楽しそうに笑いながら、手際よく布を繋ぎ合わせていく。
その横顔を見ながら、俺はふと手を止めた。
「なあ、半兵衛。俺……本当に空を飛びたいわけじゃないんだ」
俺の唐突な言葉に、半兵衛も針を動かす手を止めた。
「ただ、見下ろしたかったんだ。こんな血まみれの泥水も、死体を焼く煙も届かない、ずっと高いところから。あそこから見下ろせば……国境の線も、坊主と武士の違いも、全部ただのちっぽけな箱庭みたいに見えるんじゃないかって。そう思ったら、無性に空が見たくなっちまって」
ぽつりぽつりとこぼれ落ちた俺の本音。
坂本、そして比叡山で失った命。京で置いてきた友。戦国の現実に押しつぶされそうになった俺の、みっともない現実逃避だった。
半兵衛は何も言わず、ただ静かに空を見上げた。
晩秋の高く澄んだ青空には、雲ひとつない。
「……ええ。私たちが見ている世界は、あまりにも狭くて、泥に汚れすぎています」
半兵衛が、優しい声で呟いた。
「私も、見てみたいものです。茂助殿の言う、境目のない箱庭を。そこからなら、この狂った乱世を終わらせる本当の答えが、見つかるかもしれませんからね」
半兵衛は再び微笑むと、チクチクと布を縫う作業に戻った。
俺も小さく頷き、針を手に取った。
「ゴホッ、ゴホッ!」
不意に、古い布の埃を吸い込んだのか、半兵衛がまた激しく咳き込んだ。抜けるように白い頬が微かに朱に染まる。
「おい、大丈夫かよ半兵衛。無理すんなって。お前、ただでさえ体が弱えんだから。埃っぽいし、今日はもう休めよ」
「お気遣いなく。……ですが、もし本当に空を飛べたなら、この胸の痛みも少しは楽になるかもしれませんね」
半兵衛は懐紙で口元を抑えながら、どこか夢見るような目で空を見上げた。
「上空を流れる風には、硝煙も血の臭いも、土埃も混じっていません。きっと、どこまでも透き通った清らかな空気でしょうから」
「ああ、間違いないぜ。あそこなら、絶対にお前の体にもいいはずだ。……だから、絶対に完成させようぜ、俺たちの『気球』を」
「ええ。この途方もない布の山が丸く膨らむ頃には……浅井との泥沼の戦いも、少しは先が見えていると良いのですが」
気球なんて作っても、上空の風に煽られて墜落するのがオチかもしれない。
それでも、終わらない殺し合いの最前線で、俺たちはただ上を向いて布を縫い続けた。
少しでも、この泥まみれの現実から遠く離れたくて。そしていつか、誰も血を流さずに済む広い景色にたどり着けることを、心のどこかで信じたくて。




