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第145話:義昭の誘惑。揺れる心と決別


 比叡山を背にして近江を北上し、横山城へ帰還する道すがら。

 俺は三太夫たちに部隊の指揮を任せ、数人の供だけを連れて京の都へと馬を走らせていた。


「茂助様、いくら公方様からの呼び出しとはいえ、真っ直ぐ横山城へ帰らなくて大丈夫なんですか?」

 馬を並べる捨吉が、珍しく心配そうな声を出す。


「藤吉郎様には文を出してあるし。それに、宇佐山の戦いの時、俺は公方様を放ったらかして二条城を飛び出しちまったからな。あの時の落とし前は、一度しっかりつけなきゃいけねえんだよ」


半日後、京の二条城。


 通された奥の間に足を踏み入れると、将軍である足利義昭は顔面を蒼白にして震えていた。


「茂助! よくぞ無事でおったな! 坂本と比叡山での惨劇、余の耳にも届いておるぞ!」

 義昭は俺の顔を見るなり、すがりつくように袖を掴んできた。


「く、公方様。宇佐山のときは、お止めする声も聞かずに勝手に飛び出してしまって、すみませんでした……!」


「よい、あの時のことはもうよいのだ。それよりも茂助、信長は狂っておる! 神仏の聖地を根こそぎ焼き払うなど、もはや人間の所業ではないわ!」

 義昭の目には、明らかな恐怖と、信長に対する抜き差しならない嫌悪が浮かんでいた。


「あやつは魔王だ。仏を恐れぬ振る舞いは、いずれこの日ノ本すべてを地獄へと変える。茂助、お前もあんな男の下にいれば、いずれ狂気に飲まれて犬死にするぞ!」

「……公方様」


「茂助。信長を見捨て、余の側に参れ! やはりお前は余の家臣であるべきだ」

 義昭が、俺の袖を握る手にぐっと力を込めた。


「将軍家の直臣として、この二条城で余の側近となるのだ。余の権威があれば、浅井も朝倉も手出しはできぬ。もう死に怯えながら戦う必要などないのだぞ。そしてまた……あの金色の武将や、青き狸の物語の続きを、心ゆくまで余に聞かせてくれ!」

 それは、この乱世における最高の特等席の誘いだった。


 前線で泥水をすすることもなく、京の都で安全に暮らすことができる。何より、俺の適当なアニメやゲームの話に誰よりも目を輝かせ、無邪気に大笑いしてくれたこの将軍は、俺にとって前世のネット掲示板で出会った気の合うオタク友達のような、不思議な親愛の情を抱ける相手だったのだ。


 公方様と一緒に、安全な部屋で笑い合いながら、ただのホラ話をして生きていく。

 戦う必要も、怯える必要もない。間違いなく俺がずっと夢見ていた最高に平和なスローライフだ。本気でその蜘蛛の糸にすがりつきたい衝動が、頭の中を駆け巡る。


 だが、俺の鼻の奥には、まだ比叡山の焦げ臭い灰の匂いがべっとりとこびりついていた。

 子どもを庇って炭になった名もなき僧の残像が、俺の心を冷たく締め付ける。


「……もったいないお言葉です。あの、本当に……すげえ嬉しいです」

 俺は視線を落とし、ぽつりと呟いた。


「なれば、受けてくれるな!?」

「でも……ごめんなさい、公方様。俺、もうあの綺麗な部屋には戻れないんです」

 俺が静かに首を振ると、義昭は弾かれたように身を引いた。


「なぜだ! なぜ今更、狂った信長に義理立てをする!」

「お館様のためじゃないんです。ただ……俺、あの灰まみれの地獄の山で、逃げ遅れた人を見殺しにしちまったかもしれなくて」


 俺は自分の泥だらけの籠手を見つめた。あの山からずっと、洗っても洗っても取れない血と灰の汚れがこびりついているような気がするのだ。


「そんな泥まみれの汚い手のまま、公方様のふかふかの畳の上に座って、あの物語の話をして笑うなんて……今の俺には、もう無理なんです」


「茂助……」


「公方様とあの……不思議な話をして笑い合っていた時間は、本当に楽しかった。俺にとっても最高の時間でした。でも……今の俺があの部屋に行っても、もう昔みたいに心から笑えないんです。俺の心が、あの山の灰ですっかり汚れちまったから」

 義昭は、扇子を持つ手を小刻みに震わせていた。


 怒りではないように見えた。それは、気の合うただ一人の悪友が、自分の手の届かない狂った戦火の泥の中に、自ら沈んでいくのを見届けるしかないという、深い悲しみと喪失感なのかもしれない。


「……馬鹿な男よ。お前も、信長という魔王の毒にすっかり当てられてしまったか」

「そうかもしれません。どうやら俺には、雅な都の空気より、泥の臭いの方がお似合いみたいです」

 俺は一歩下がり、深く、心の底からの感謝を込めて頭を下げた。


「公方様。今まで俺の適当なホラ話を楽しそうに聞いてくださって……本当にありがとうございました。どうか、お元気で」

 義昭は何も言わず、ただギュッと唇を噛み締めると、背を向けた。


「ゆけ。……もう二度と、余の前に顔を見せるな」

 それは、将軍としての冷たい拒絶ではなく、友を突き放すための震える声だった。


 俺は顔を上げることなく、そのまま静かに部屋を退出した。

 パタン、と静かに襖が閉まる。

 その瞬間、義昭は弾かれたように振り返り、誰もいなくなった襖を見つめた。


「茂助……」

 掠れた声が、豪華で広い奥の間に寂しく響く。


 義昭はゆっくりと縁側へ歩み寄り、御簾の隙間から庭の先へと視線を走らせた。

 やがて、二条城の広い敷地を、大柄な体を少し丸めながら歩いていく茂助の背中が見えた。


 周囲のきらびやかな殿中にはおよそ似つかわしくない、泥と灰に汚れた無骨な武士の背中。だが、その背中こそが、陰謀と虚飾にまみれたこの京都の中で、唯一、義昭に打算のない無邪気な笑顔をくれた男のものだった。


 連日の政務や信長との暗闘で冷え切った義昭の心に、茂助が語る荒唐無稽な英雄譚だけが、確かな温もりを与えてくれていたのだ。


 あの金色の髪の武将は、今頃どうなっているのだろうか。百五十匹の化け物を集める少年は、旅の果てに何を見たのだろうか。

 もう、その続きを教えてくれる男はいない。


 義昭は、茂助の背中が小さくなり、やがて門の向こうへと完全に消えていくのを、後ろ髪を引かれるような深い切なさを瞳に宿したまま、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。




 廊下を歩きながら、胸の奥にポッカリと穴が空いたような寂しさがあった。これで、本当に将軍との繋がりは完全に断たれた。次に顔を合わせる時があるとすれば、それは間違いなく敵同士として戦場に立つ時だろう。


「茂助様、終わりましたか?」

 城門の外で待っていた捨吉が、俺の顔を見るなり静かに尋ねた。


「ああ。終わったよ。これで心置きなく、元の泥まみれの生活に戻れるぜ」

「結構なことで。やはり茂助様には、京の雅な空気は似合いませんね」

 捨吉が差し出した手綱を受け取り、俺は軽トラの背に飛び乗った。


 都の空は抜けるように青いが、俺の目指す先には、終わりの見えない血と泥の最前線が待っている。


「行くぞ。目指すは横山城だ」

 馬の腹を蹴り、俺は将軍のいる二条城に二度と振り返ることなく、北近江へ向けて駆け出した。


 魔王の孤独を知り、ただ一人心を許せたオタク友達と切ない決別を遂げた俺の歩む道は、もはや後戻りのできない地獄へと真っ直ぐに繋がっていた。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
良くいる歴史に詳しい主人公じゃないから、先にある長島の地獄に対する心積もり無いまま 更に地獄の長島に突入ですね しかも3回も戦い3万人以上殺す、今度は確実に手を血に染める
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