第144話:魔王の孤独。平和への願い
比叡山を包んでいた凄惨な焼き討ちの熱が、ようやく冷たい秋風にさらわれようとしていた頃。
撤収を進める俺たちの陣に、周囲の偵察に出ていた捨吉が静かに戻ってきた。
「茂助様。少し、よろしいですか」
「どうした、捨吉。忘れ物か」
「いえ。見逃した、あの僧のことですが……」
捨吉の言葉に、俺は手を止めた。三太夫と但馬もこちらを振り向く。
「蓮心か。無事に谷を抜けたんだよな?」
「はい。連れていた女や子どもたちを、西の安全な村まで送り届けたそうです。村の者たちが証言しておりました」
「そうか。よかった。これで俺のクソみたいな自己満足も、少しは報われたってもんだ」
俺が胸を撫で下ろすと、三太夫も顔の傷をポリポリと掻きながら安堵の息を吐いた。
「若も甘いですねえ。まあ、後味が悪くならなくて済みやしたよ。あっしらもこれで少しは胸を張って」
「ですが」
捨吉の冷たい声が、三太夫の言葉を遮った。
「ん?」
「村の者の話によれば、あの僧は女たちを送り届けた後、すぐにまた燃え盛る山へ引き返していったそうです」
「は? 引き返した?」
俺は自分の耳を疑い、間抜けな声を出した。
「まだ逃げ遅れている民が必ずいるはずだ。助けに行かねばと、そう言って、炎と煙が立ち込める山道へ、単身で飛び込んでいったそうです」
「おい、嘘だろ。あんな炎の中に飛び込んだら、死ぬに決まってるだろ」
「先ほど、西の斜面の焼け跡を検分してきました」
捨吉は無表情のまま、淡々と事実だけを口にした。
「そこで、折り重なるようにして焼け焦げた死体の山を見つけました。その中心に、逃げ遅れた子どもを庇うようにして丸くなった、炭のような遺体がありました。継ぎ接ぎだらけの袈裟の燃え残りが……」
俺は息を呑んだ。
三太夫と但馬も言葉を失い、凍りついたように立ち尽くしている。
「死んだのか。あいつ」
「分かりませぬ」
捨吉は静かに首を振った。
「完全に焼け焦げており、判別はつきませんでした。あれが、引き返した蓮心殿だったのか。それとも……あの山には他にも、彼と同じように真の仏心を持った名もなき僧がいたのか。今となっては、誰にも分かりません」
俺は足の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
それが蓮心だったのなら、俺が首が飛ぶ覚悟で見逃した意味は何だったのか。
もし別の僧だったのなら、俺たちは蓮心のような本物の善人を、他にも生きたまま焼き殺したということになる。
どちらにせよ、救いなどどこにもない。
狂っている。
笑いながら自爆特攻を仕掛けてくる一向宗も、自分の命を捨てて炎の中へ飛び込んでいく名もなき僧も、この戦国時代という狂った天秤の上では、等しくただの灰になるのだ。
善意も悪意も、ここでは何の意味もない。
俺の中で、何かがミシリと音を立てて割れた。
もう、この世界にはまともな人間なんて一人もいない。
本物の善人から先に焼け死んでいく。戦国という時代に対する決定的な絶望が、俺の胸の中をどす黒く塗り潰していくのが分かった。俺が必死に守ろうとした現代の倫理観など、この灰まみれの地獄では何の価値もないゴミ屑だった。
「堀尾茂助殿。おられるか」
不意に、陣の入り口から声がした。
振り返ると、お館様の馬廻り衆の一人が立っていた。
「お館様が至急、お前を呼んでおられる。本陣へ参れ」
「承知いたしました。すぐに向かいます」
俺は空虚な目のまま立ち上がった。三太夫が心配そうに俺の袖を掴む。
「若、顔色が尋常じゃねえですよ。大丈夫ですかい」
「平気だ。ちょっと、お館様と話してくる」
俺は三太夫の手をそっと外し、足取りも重く本陣へと向かった。
本陣の裏手にある少し小高い丘の上に、お館様こと織田信長は一人、床几に座って黒く焦げた山を見上げていた。周囲には小姓も護衛もいない。意図的に人を遠ざけているようだった。
「お館様。堀尾茂助、参上いたしました」
「茂助。来たか」
信長は振り返らなかった。
その背中には、日ノ本中の怨念を一人で背負い込んだような、恐ろしいほどの孤独が張り付いている。何百年の歴史を破壊し、魔王として君臨する男の、決して誰にも触れることのできない絶対的な暗闇。
「茂助。お前は、地獄を見たか」
静かな、だが腹の底に重く響く声だった。
俺は足元に転がる黒い灰を見つめた。風に舞うこの灰のどこかに、あの子どもを庇って死んだ名もなき僧の命の燃えカスも混じっているのだろうか。
「見ました。善人も悪人も、狂った坊主も本物の仏も、全部ただの灰になる。何の救いもない、最低の地獄でした」
俺の口から、無機質な声がこぼれ落ちた。
信長がゆっくりと振り返る。
漆黒の瞳が、俺の心の底にぽっかりと空いた空洞を見透かすように、真っ直ぐに突き刺さってきた。
「そうか。ならばお前も、その地獄の釜の底を這いずる同罪じゃ。余と共に、永劫の罰を受ける覚悟はあるか」
「ええ。分かっています。俺も間違いなく地獄に落ちます」
俺の口元が、自然と歪んだ。
それは乾いた、感情のない笑いだった。
「だから、早くこんな世を終わらせたいんです」
十年。この狂った時代で泥水をすすり、這いつくばって生き抜いてきた男の顔だった。
希望も善意も完全に焼き尽くされ、ただ乱世を終わらせるためだけの、冷たくて虚無な覚悟が俺の目を支配していた。
信長は俺の顔をじっと見つめた後、静かに、ひどく穏やかな声で呟いた。
「……そうだな。信勝も三左衛門も見守ってくれているだろう。よい、下がれ」
信勝と、三左衛門。
自らの手で殺めた血の繋がった弟と、この比叡山の者どもに討たれた無二の忠臣。
彼らの名を口にした信長の目は、魔王のそれではなく、一人の血の通った孤独な男のものに戻っているように見えた。
「はっ」
俺は深く頭を下げ、踵を返した。
心の中は、あの焼け落ちた比叡山と同じように、真っ白な灰だけが降り積もっている。だが、俺の足取りは不思議と軽かった。もう、余計な善意や甘えで迷うことはない。
俺は地獄の住人として、この戦国を最後まで生き抜いてやる。
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