第143話:灰まみれの終焉。光秀との無言の契り
比叡山が燃え落ちてから数日後。麓の陣にはまだ焦げ臭い風が吹き荒れていた。
俺はどんよりとした目で、黒く焼け焦げた山のシルエットを見上げていた。
「若、本陣での報告が終わって引き揚げてきやしたぜ」
三太夫と但馬が荷物を担ぎながら、ひどく疲れた顔で声をかけてきた。
「おう、三太夫。それで、上の反応はどうだった。俺たちの持ち場、首が一つも上がらなかっただろ。怪しまれなかったか」
「それがですね、怪しまれるどころか、完璧な封鎖であったと大層な褒められようでさぁ」
「は。褒められた」
俺の素っ頓狂な声に、但馬が荷車を引きながら真面目な顔で頷いた。
「はい。吉晴殿、我らの持ち場からは一人の反撃者も出ず、突破口をこじ開けようとする動きすら完封したと見なされたのです。一切の隙を与えなかった鉄壁の守りである、と軍監の連中がひどく感心しておりました」
「マジかよ。ただ煙のせいにして見逃しただけなのに」
「戦国なんてそんなもんでさぁ。結果として俺らは誰も死なず、若の首も繋がった。それで上等じゃねえですか」
三太夫が顔の傷をポリポリと掻きながらニヤリと笑う。
「それにしても、他の陣はひどい有様でしたよ。女だろうが子どもだろうが、手当たり次第に斬り捨てて、誰が一番多く首を獲ったかで自慢し合ってる始末で。落ち武者狩りをしてたあっしでも、あんなもん見せられたら吐き気がするぜ」
「吉晴殿、武士たるもの、命じられた役目を果たしてこその忠義。ですが、今回ばかりは我らも刀を抜かずに済んで、心の底から安堵しております」
但馬がホッと息をつきながら本音を漏らした。
「京の河原で泥水をすすってきた私から見ても、あの山で起きたことはただの狂気です。本願寺の坊主どももタチが悪いですが、織田の軍勢も今や悪鬼羅刹と変わりません」
隅で気配を消していた捨吉が、冷たい声で吐き捨てた。
「悪鬼羅刹、か。否定できねえな」
俺が重いため息をついた時だった。
「おーい、茂助。息災にしてるかあ」
のんびりとした、だがどこか底知れぬ凄みを感じさせる声が響いた。
振り返ると、木下組の頭である藤吉郎が、数人の馬廻りを引き連れてこちらへ歩いてくるところだった。
「藤吉郎様。な、何か用ですか!?」
俺が慌てて頭を下げると、藤吉郎は人懐っこい笑みを浮かべ、ポンポンと俺の肩を叩いた。
「いやいや、大したことじゃねえ。おめえの持ち場は一番外れの獣道だったからな、怪我でもしてねえか見に来ただけよ」
そう言いながら、藤吉郎の丸い目が、俺の背後にある細い獣道へと向けられた。
「それにしても、不思議なこった」
藤吉郎は顎を撫でながら、わざとらしく首を傾げた。
「他の陣の連中はよ、鼻息荒くして女や子どもの首まで山のように積んで、誰が一番手柄を立てたかで喧嘩してやがる。だが、おめえのところからはただの一つの首も上がってこねえ。おまけに、刀の血糊一つ拭き取った形跡がねえじゃねえか。よっぽど、煙が酷かったみてえだな」
背中を冷たい汗が流れ落ちるのが分かった。
完全にバレている。この猿の並外れた嗅覚と洞察力を前にして、俺の浅知恵など子どもの言い訳にも等しい。
「はい。あまりの煙に目が潰れそうで、何も見えませんでした。誰一人としてこの道を通る者はいなかったと、神仏に誓って申し上げます」
俺が冷や汗を流しながら必死に取り繕うと、藤吉郎はフッと息を吐き出した。
「神仏ねえ。この山を全部燃やしちまった俺たちに、すがる神仏なんざもう残っちゃいねえよ」
藤吉郎の目が、一瞬だけ獲物を狙う鷹のように鋭く光った。
「気にするな。おめえの手柄は、これまでで十分に足りてる。おめえの部隊が誰も怪我しなかったなら、それで上等だ。だがな、茂助」
藤吉郎の声が、急に一段低くなった。
「煙で前が見えねえのは仕方ねえ。だが、お館様の目は、日ノ本の隅々まで見通しておられる。次に煙が目に染みた時は、おめえの首だけじゃ済まねえこと、肝に銘じておけよ」
「はい。肝に銘じます」
俺の返事を聞くと、藤吉郎は再びいつもの陽気な顔に戻った。
「よし。片付けが終わったら、とっとと横山城へ帰るぞ。浅井の坊ちゃんがいつちょっかいを出してくるか分からねえからな」
「承知いたしました」
藤吉郎が去っていくのを見送りながら、俺はへたり込みそうになる膝を必死に堪えていた。三太夫も但馬も、顔面を蒼白にして無言のまま立ち尽くしている。
「肝が冷えやしたね、若」
三太夫が額の汗を拭いながら呟いた時、また別の足音が近づいてきた。
「茂助殿」
振り返ると、明智光秀が一人でこちらへ歩いてくるところだった。
その小袖には返り血ひとつ飛んでいないが、顔はゲッソリとやつれ、亡霊のような虚無感を漂わせている。
「光秀様。お怪我がなくて何よりです。あの、比叡山は、本当に終わったんですね」
俺が尋ねると、光秀は再び黒く焼け焦げた比叡山へと視線を向けた。
「ああ。堂塔も経典も、女も子どもも、すべて灰に帰した。この手で、何百年と続いた仏の歴史を完全に断ち切ったのだ。茂助殿、そなたは後悔しておるか」
「俺は、分かりません。ただ、あまりにも多くの血が流れすぎた。これが本当に正しいことだったのか、俺には答えが出せません」
俺が正直に吐露すると、光秀はゆっくりと首を振った。
「正しいか正しくないかなど、今の我らには語る資格もない。狂った教えを根絶やしにするため、私は自ら進んで地獄へ落ちる覚悟を決めたのだ。罪なき者の命を奪った業は、この命が尽きるまで背負い続ける」
光秀の言葉は、まるで己への呪いのように重く、暗かった。
「そして先ほど、お館様より、この度の恩賞として志賀郡の地を賜ることになった。近々、あの山の麓にある坂本の地に、城を築くことになる」
「坂本、ですか。あの大虐殺があった場所のすぐ下に、城を」
俺が驚いて聞き返すと、光秀は自嘲気味に笑った。
「そうだ。あの魔窟を焼き払い、無数の命を奪った血塗られた地に、我が家を構える。それが、業火を放った私に課せられた、一生の罰なのだ」
「罰だなんて。光秀様は、誰よりもご家族の平穏を願って」
「茂助殿」
光秀が静かに俺の言葉を遮った。
「これ以上はよい。弁明など、死んでいった者たちには届かぬ。私はただ、あの焼け焦げた山を一生見上げながら、二度とこのような狂気が世に蔓延らぬよう、坂本の地から見張り続けるだけだ」
光秀が静かに俺の肩に手を置いた。
その冷徹な瞳の奥に、ほんのわずかながら、同じ地獄の空気を吸った者に対する確かな労いの色が浮かんでいた。
「そなたの陣は、ひどく静かであったそうだな。誰も血を流さずに済んだのなら、それが一番よい」
光秀はすべてを悟っているようだった。
俺が煙のせいにして逃亡者を見逃したことも、藤吉郎と同じように気づいているのだ。それでも、光秀は俺を責めなかった。
俺は何も言わず、ただ深く、一度だけ頷いた。
光秀もまた、無言のまま、ゆっくりと頷き返してくれた。
言葉は必要なかった。
乱世を終わらせるために手を汚し、魂を削りながら進むしかない。その拭い去れない虚無感を共有した者同士の、静かで重い契りがそこに結ばれていた。
「ゆけ、茂助殿。ここはもはや、長居してよい場所ではない。すぐに立ち去るがよい」
「はい。光秀様も、どうかお気をつけて」
光秀は背を向け、歩き去っていった。その背中は、すべての罪を一人で背負うように、ひどく小さく見えた。
「若、あっしらも早くずらかりやしょう。この山の臭いは、どうにも鼻が曲がりそうだ」
三太夫が促す。
「ああ、帰るぞお前ら。横山城へ戻って、腹一杯飯を食うぞ」
「へいへい。地獄の釜の底みたいなここよりは、いくらかマシな飯が食えそうでさぁ」
但馬も無言で力強く頷き、捨吉は素早く周囲の警戒を解いて列に加わった。




