第142話:地獄の業火と、見えない背中
ついに、その日がやってきた。
お館様が率いる三万の大軍が、比叡山の麓をぐるりと包囲した。
浅井と対峙する最前線である横山城の守備に当たっていた俺たちの上司・木下藤吉郎も、この総攻撃のために急遽駆り出され、木下組の本隊が近江へと到着した。
陣割りの直前、俺は木下組の本陣を訪れた。義昭様に呼び出されて以来の、久しぶりの直属の上司との再会だった。
「おう茂助。随分と長えことほっつき歩いてたみてえだが……久しぶりに俺の隊に戻ってきたと思ったら、いきなり変な配置をせがみやがって」
俺が這いつくばって頼み込んだのは、山裾の北側に位置する、鬱蒼とした森に隠された細い獣道の守備だった。捨吉が京の河原者の情報網を駆使して見つけ出した、山の裏道である。
藤吉郎はため息をつきつつも、嫌な顔一つせず俺の願いを聞き入れてくれた。だが、最後にぽつりと、鋭い目を細めて言った。
「茂助。おめえが何を企んでるかは聞かねえ。だが、お館様の目付には絶対に見つかるなよ。首が飛ぶのはおめえだけじゃ済まねえからな」
あの猿の目には、俺の浅はかな考えなどすべてお見通しだったのだろう。
それでも配置を任せてくれた藤吉郎の恩に報いるためにも、絶対に尻尾を掴まれるわけにはいかなかった。
やがて、法螺貝の音が秋の空を引き裂くように鳴り響いた。
それを合図に、三万の織田軍が一斉に山へと攻め上っていく。
総攻撃の開始から半刻もすると、空の色が変わった。
比叡山の中腹から、黒々とした煙がもうもうと立ち上り、青空をどす黒く塗り潰していく。
延暦寺の根本中堂をはじめとする荘厳な堂塔が、次々と炎に包まれていくのが麓からでもはっきりと分かった。
風に乗って、木が爆ぜる音と、焦げた嫌な臭いが流れてくる。
そして、それらに混じって聞こえてくるのは、耳を塞ぎたくなるような無数の悲鳴だった。
僧兵たちの怒号。逃げ惑う女たちの絶叫。泣き叫ぶ子どもの声。
それらが一つに溶け合い、山全体が巨大な断末魔の声を上げているようだった。
現代の平和な日本で生まれ育った俺の胃袋が、限界を超えて激しく痙攣する。吐き気をこらえきれず、俺は茂みの陰に駆け込み、胃の中の黄色い胃液をすべて吐き出した。
「若、大丈夫ですかい」
背中をさすってくれたのは三太夫だった。その顔にはいつもの飄々とした笑みはなく、山を覆う紅蓮の炎を険しい目で見つめている。
「……ああ、平気だ。情けねえな、戦場には慣れたつもりだったのに」
「無理もねえです。あれは戦じゃねえ。ただの虐殺だ。落ち武者狩りをしてきた俺から見ても、あんなもん正気の沙汰じゃねえ」
俺は口元を乱暴に拭い、立ち上がった。
お館様の決断は、戦国という狂った時代を終わらせるための、ある種の劇薬なのだと頭では理解している。だが、目の前で焼かれていく何千という命の重さに、俺の心は完全に押しつぶされそうになっていた。
俺たちは配置に戻り、息を潜めて獣道を見張った。
だが、待てど暮らせど、誰も降りてこない。山の上は地獄の業火に包まれているというのに、この細い獣道だけが不気味なほど静まり返っていた。
「おかしいですね。捨吉の情報なら、間違いなくここへ逃げ込んでくるはずですが」
但馬が槍を握り締めながら呟く。
俺も焦りを感じ始めていた。もしかして、逃げる間もなく全員殺されてしまったのか。
その時だった。
ガサガサッ、と前方の草むらが揺れた。
俺たちは一斉に身を屈め、息を殺した。
やがて、濛々(もうもう)と立ち込める煙の向こうから、ボロボロになった人影がいくつも転がり出るように現れた。
先頭を歩いていたのは、煤と泥にまみれ、袈裟の半分が焼け焦げた若い僧だった。その手には武器はなく、代わりに赤子を抱きかかえている。
彼の後ろには、足を怪我した老人や、すすり泣く女たち、そして怯えきった子どもたちが十人ほど、数珠つなぎになって必死にしがみついていた。
その若い僧の顔を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
間違いない。去年の冬、上坂本の焼け跡で凍える民に寄り添っていたあの僧、蓮心だ。
蓮心たちは、目の前に立ち塞がる俺たち織田の兵士に気づき、絶望に顔を歪ませてその場にへたり込んだ。
「……ここまで、か」
蓮心は抱いていた赤子を背後の女に託すと、泥だらけの地面に両膝をつき、俺たちに向かって深々と頭を下げた。
「どうか、どうかお願い申し上げます。私の首は差し出します。煮るなり焼くなり、好きになさって構いません。ですが、この者たちは山門の戦とは何ら関わりのない、ただの麓の民なのです。どうか、命ばかりはお助けください……!」
地面に額を擦りつけ、血を吐くような声で懇願する蓮心。
その後ろで、女や子どもたちがガタガタと震えながら身を寄せ合っている。
本来の命令であれば、俺は今すぐこいつらを撫で斬りにしなければならない。俺の部下たちも、指示を待つように俺の背中を見つめている。
俺はゆっくりと刀を抜き、蓮心の前へと歩み寄った。
「……吉晴殿」
但馬が緊張した声で俺を呼ぶ。
俺は蓮心の目の前で立ち止まり、白刃を天に向けて振り上げた。蓮心がギュッと目を閉じ、死の覚悟を決める。
その瞬間、俺は大声で怒鳴り散らした。
「おい三太夫! 但馬! 煙が酷すぎて何も見えねえぞ! こんなんじゃ、仮に敵が目の前を通っても気付けやしねえな!」
俺の唐突な大芝居に、蓮心がハッと目を開ける。
「……へ?」
呆気にとられる蓮心に、俺は片目をパチリと瞬きして見せた。
数秒の沈黙の後、三太夫がわざとらしく咳き込みながら大声を上げた。
「ゲホッ、ゴホッ! 本当でさぁ若! こりゃあいけねえ、煙で前が全く見えやしねえ! こんな状況じゃ、逃げ切る奴がいても手出しできやせんぜ!」
「くっ、私の目にも煙が! 吉晴殿、これでは我らはただ突っ立っているだけの案山子も同然ですな!」
但馬と氏光までが、真面目くさった顔のまま目を擦るフリをして同調する。
捨吉に至っては、さっさと草むらの陰に身を隠し、完全に気配を消してしまった。
俺は刀を鞘に納めると、呆然としている蓮心の胸ぐらを掴み、力任せに引っ張り上げた。そして、耳元で低く囁いた。
「この道をまっすぐ下りて、西へ抜けろ。俺たちは今、煙で目が潰れてる。……五つ数える間に、俺の前から消えろ」
蓮心の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
彼は何も言わず、ただ一度だけ俺に向かって深く、本当に深く頭を下げた。
「さあ行け! 早くしろ!」
俺が怒鳴ると、蓮心は後ろの女や子どもたちを急き立て、逃げるように細い獣道を下っていった。
やがて草むらが揺れ、彼らの姿が完全に見えなくなる。
「……一つ、二つ、三つ、四つ、五つ」
誰もいなくなった獣道に向かって、俺は小さく数を数え終えた。
「行っちまいましたね」
三太夫が、顔の傷をボリボリと掻きながら隣に並んだ。
「ああ。これで俺たちも、立派な命令違反の反逆者だ」
「構いやしませんよ。あんな女や子どもを斬らされるくらいなら、反逆者の方がなんぼかマシでさぁ」
但馬も無言で頷いている。
俺は大きく息を吐き出し、空を見上げた。
相変わらず比叡山は炎に包まれ、地獄のような断末魔が響き渡っている。俺のこのささやかな見逃しなど、巨大な暴力の嵐の中では何の価値もない、ただの自己満足に過ぎない。
歴史の教科書には、織田信長が比叡山を焼き討ちにし、数千人が死んだという事実だけが残る。
だが、それでも。
俺は自分が助けたあの数人の命が、この狂った戦国時代に咲いた小さな希望の種になることを、祈らずにはいられなかった。
「よし、お前ら。警護に戻るぞ。煙がひどいから、しっかり目を凝らして見張れよ」
「へいへい。了解しやしたよ、目の悪い大将」
俺たちは再び武器を構え、燃え盛る地獄を背にして、誰も来ないはずの獣道を見据えた。
煙にむせびながら過ごしたこの日の記憶は、俺の心に決して消えることのない深い傷と、ほんの少しの誇りを刻み込んでいた。
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