第141話:魔王の決断。それぞれの葛藤
比叡山からの帰途は、行きよりもさらに重く、息が詰まるような道のりだった。
岐阜城へ戻った俺たちは、すぐにお館様の御前へと通された。広間には重臣たちがずらりと並び、張り詰めた空気が肌を刺す。
一段高い上座に座る信長は、底知れぬ漆黒の瞳で、平伏する明智光秀を見下ろしていた。
「交渉は、決裂いたしました」
光秀の静かな報告が、水を打ったような広間に響き渡る。
「山門の者どもは己の権威を妄信し、言葉が通じる相手ではありませぬ。山門領の還付という破格の条件も我らの恐れと受け取り、浅井や朝倉を後ろ盾に徹底抗戦の構えを崩しませんでした」
光秀の言葉が終わっても、信長は微動だにしなかった。
怒鳴り散らすわけでもなく、扇子を叩きつけるわけでもない。ただ、能面のように感情の抜け落ちた顔で、じっと虚空を見つめている。
それが、逆に恐ろしかった。
沸点を超えた怒りは、もはや熱を持たない。絶対的な零度となって、周囲のすべてを凍りつかせているのだ。
「で、あるか」
やがて、信長の口から短く乾いた声がこぼれた。
「ならば、もはや神仏の聖地にあらず。あれはただの、我らに仇なす魔の巣窟よ。全軍に触れを出せ。比叡山を、根こそぎ焼き払う」
広間の空気が、ビリッと震えた。
「僧兵はもちろん、坊主、女、子どもに至るまで、山にいる者は一人残らず撫で斬りにしろ。堂塔、仏像、経典、すべてを灰に帰せ。余に逆らう偽りの仏どもに、本物の地獄を見せてやる」
その言葉は、ただの戦の命令ではなかった。
何百年もこの日ノ本に君臨し、誰もが恐れてきた宗教的権威を、物理的にこの世から完全に消し去るという大虐殺の宣言だ。
「ははっ!」
重臣たちが一斉に頭を下げる中、俺は冷や汗で全身をびっしょりと濡らしていた。
俺たちは今から、女や子どもまで殺す皆殺しの軍団になる。現代人の倫理観が胃の奥で激しい吐き気となって暴れ回っている。だが、ここで少しでも異を唱えれば、間違いなく俺の首が飛ぶ。
横を見ると、光秀は顔色一つ変えず、ただ深く頭を下げていた。
軍議が終わり、廊下へ出たところで、俺はたまらず光秀に声をかけた。
「光秀様……本当に、やるんですか。女も子どもも、すべて殺すなんて……」
声が震えているのが自分でも分かった。
光秀は立ち止まり、静かに俺を振り返った。
そして、張り詰めたその顔に、ふっと穏やかな笑顔を浮かべたのだ。
「茂助殿。比叡山は女人禁制ですよ。女がいるわけないじゃないですか、子どもも同じです」
俺は一瞬、何を言われたのか分からず呆然とした。
だが、すぐにその言葉の裏にある恐ろしい意味に気づき、背筋が凍りついた。
神仏の聖地である比叡山には、女や子どもは立ち入れない。それが絶対の掟であり、建前だ。
だが現実は違う。あの生臭坊主どもは里坊に女を連れ込み、妻子を囲って贅沢な暮らしをしている。だからこそお館様は、あえて女子どもも皆殺しにしろと命じたのだ。
光秀は笑顔のまま、冷酷な事実を突きつけている。
掟を破り、仏の名を騙って欲に塗れた俗物たち。だからこそ、あそこにいる者たちはすべて斬り捨てて構わない。本来いるはずのない者たちなのだから、と。
「……狂った教えは、根から焼き尽くさねばなりませぬ。永劫の地獄に落ちるのは、お館様と我らだけでよいのです」
光秀の笑顔がスッと消え、すべての業を一人で背負い込むような壮絶な覚悟が横顔に刻まれた。
俺は何も言えなくなり、ただその背中を見送ることしかできなかった。
自分の屋敷に戻った俺は、すぐに三太夫、但馬、氏光、勘兵衛、捨吉の五人を居間に集めた。
「お前ら、よく聞け。近々、比叡山への総攻撃が始まる。いや、攻撃じゃない。山にいる者すべてを皆殺しにする、一方的な大虐殺だ」
俺が絞り出すように言うと、五人は息を呑んで黙り込んだ。
「俺は、お館様に逆らう気はない。俺の手にはお前らや部下たちの命がかかっておるし、何より自分の首と家族が大事だ。だから、命令通り山を包囲する陣に加わる」
言いながら、自分の弱さと身勝手さにヘドが出そうだった。結局のところ、俺は保身のために大量虐殺の共犯者になるのだ。
「だけど、どうしても、あの山で一人だけ、救いたい奴がいるんだ」
俺の言葉に、三太夫が顔の傷を撫でながら首を傾げた。
「救いたい奴? そりゃあ誰ですかい。山の偉いお坊様で?」
「いや、ただの若い坊主だ。蓮心という名前で、去年の冬、凍える難民たちに粥や薬湯を配っていた。あいつだけは、権力にまみれた他の生臭坊主とは違う。本物の信仰を持った、救われるべき人間だ」
俺が断言すると、但馬が顔を曇らせた。
「しかし吉晴殿。お館様は一人残らず撫で斬りにせよと命じられたのでしょう? そのような真似が露見すれば、吉晴殿はおろか、我ら堀尾組も一族郎党皆殺しにされますぞ」
「分かってる! だから、お館様や光秀様に絶対にバレないようにやるんだ」
俺は部屋の隅にいる捨吉に向き直った。
「捨吉。お前、裏社会の繋がりや知恵で、比叡山の獣道や裏道を調べられないか? 僧兵たちが使うような表の道じゃなく、万が一の時に逃げ込むような細い山道だ」
捨吉は無表情のまま少しだけ考え込み、こくりと頷いた。
「京の河原者たちの情報網を使えば見当はつきます。昔から、山の荒法師たちから逃げる女や借金持ちが使う、険しい抜け道があるはずです」
「よし。藤吉郎様に頼み込んで、その抜け道の一つを俺たちの受け持ちの陣にしてもらう。どんな手を使ってでもだ」
俺は拳を強く握りしめた。
山全体を救うことなんてできない。そんな力も権力も、俺にはない。
だけど、目の前に迫る理不尽な死から、せめて自分が本物だと思った人間だけでも逃がしたい。現代の平和な世界で育った俺の、これが最後に残された意地だった。
「その抜け道から逃げてきた奴がいたら、いいか、俺たちは気付かなかったことにする」
俺の言葉に、三太夫がニヤリと笑った。
「なるほど。あっしらは必死で山を警護してたが、煙が目にしみて前が見えず、たまたま、うっかり、運悪く逃がしちまったってわけですな」
「そうだ。これは戦国で生き残るためじゃなく、俺が俺自身の人間を辞めないための、クソみたいな自己満足だ。お前らを巻き込んで悪いが、手伝ってくれ」
俺が頭を下げると、但馬が慌てて俺の肩を掴んだ。
「頭をお上げくだされ! 吉晴殿の決断であれば、我らはどこまでも従います。それに、真の仏弟子をお救いすることは、武士の誉れでございます」
「若の自己満足、大いに結構じゃねえですか。地獄の底で、少しは息がしやすくなりそうだ」
三太夫も鼻で笑いながら同意してくれた。
魔王の決断によって、日ノ本を揺るがす未曾有の血の雨が降ろうとしている。
その巨大な暴力の嵐の中で、俺は己のちっぽけな信念を通すため、密かに泥まみれの準備を始めた。




