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第140話:決裂の使者。比叡山への最後の交渉

 木々の緑が色濃く陰る近江の山道を、俺は明智光秀の護衛として、二十名ほどのわずかな手勢と共に歩いていた。


 目指すは、神仏の聖地・比叡山延暦寺。

 道中、背中にはびっしょりと冷や汗が張り付いていた。周囲の鬱蒼とした森からは、無数の僧兵たちが放つ敵意と殺気が、針のように肌を刺してくるのだ。


「……茂助殿、顔色が悪いぞ。少し休むか?」

 前を歩く光秀が、足を止めて振り返った。

「い、いえ、大丈夫です。ただ、この山の空気が……なんか、息苦しくて」

 俺が胸を押さえながら答えると、光秀は静かに頷き、険しい目で森の奥を睨んだ。


 無理もない。俺たちは今、完全に敵地のど真ん中にいる。

 浅井・朝倉との繋がりを絶ち、織田に味方せよという、信長からの最後の降伏勧告。

 それを伝えにきた使者だとはいえ、向こうからすれば、いつ首をはねてもいい仏敵の回し者なのだ。


 やがて、山の中腹にある開けた場所に、頑丈な門と高い防壁を備えた巨大な寺院――延暦寺の出城とも言える里坊が見えてきた。

 門の前には、薙刀や火縄銃で武装した僧兵が、壁のように立ち塞がっている。


「織田の使者、明智十兵衛光秀である。山門の代表者にお目通り願いたい」

 光秀が朗々とした声で名乗りを上げると、僧兵たちが渋々と道を空け、俺たちは重苦しい本堂の中へと通された。


 本堂の奥には、豪華な金襴の袈裟をまとった数人の高僧が、一段高い座にふんぞり返っていた。その周囲には、筋骨隆々とした荒法師たちが、今にも俺たちに飛びかからんばかりの殺気で目を血走らせている。


「……して、仏敵たる信長めは、ついに仏罰を恐れて泣きを入れてきたか?」

 中央に座る、でっぷりと肥え太った老僧が、見下すような声で言い放った。


 その言葉の端々に滲む、隠しきれない驕りと傲慢さ。

 俺は思わず奥歯を噛み締めた。こいつらは、信長がここまで交渉を重ねてきたことを、織田が神仏の権威に怯えているからだと完全に勘違いしている。


「泣きを入れたわけではない。お館様は、これ以上無用な血が流れることを望んでおられぬ」

 光秀は表情一つ変えず、懐から書状を取り出した。


「山門領をすべて還付する。ゆえに、浅井・朝倉への加担をやめ、織田の味方となれ。もしそれが叶わぬのなら、せめて中立を保たれたい。……これがお館様からの、最後のご提案である」

 光秀の通る声が、本堂に響き渡った。


 その条件は、戦国大名としてはあり得ないほどの破格の譲歩だった。領地を全部返すから、頼むから敵対しないでくれと言っているのだ。

 だが、老僧たちは顔を見合わせると、腹の底から湧き上がるような下品な笑い声を上げた。


「クハハハッ! 戯れ言を。我が山門は王城の鎮護、日ノ本の信仰の中心であるぞ。それを、たかが尾張の田舎侍が、己の都合で味方になれだの中立になれだのと、指図できるとでも思っておるのか!」


「我らが味方するのは、神仏の教えに従う者のみ。仏敵信長に与するなど、天地がひっくり返ろうとあり得ぬわ!」

 僧兵たちも一斉に嘲笑し、本堂は異様な熱狂に包まれた。


 光秀の目が、スッと細められた。

「……貴殿らでは、話にならぬな」

 冷気を孕んだその一言に、本堂の笑い声がピタリと止んだ。


「山門を預かる天台座主てんだいざす様にお目通り願いたい。お館様からのこの重い条件、貴殿らのような窓口の取り次ぎ役で判断できるものではなかろう」

 光秀は、目の前の高僧たちを、ただの下っ端として明確に切り捨てた。

 その冷徹な眼差しに、老僧たちの顔が屈辱で真っ赤に染まる。


「黙れ、下賤の者が! 我らを差し置いて座主様に拝謁など、仏敵の回し者に許されるはずがなかろう!」

「そもそも、貴様らのような俗物に、我が山門を護るための備えを非難される筋合いはないのだ!」

「備え、とな?」

 光秀がわずかに眉を動かすと、老僧は失言に気づいたように口をつぐんだ。


 光秀は俺の方をちらりと見た。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、一歩前に出た。


「俺は、上坂本の山裾で、あんたたちのその備えの工事をこの目で見た。和睦の使者をやり取りしながら、裏では武装した僧兵を集め、戦の準備を進めていた。朝廷や公家を巻き込んで、時間を稼ぐためにな」

 俺の言葉に、高僧たちの顔色が変わった。図星を突かれた人間の、醜い焦りの色が浮かぶ。


「我らには王城鎮護の誇りと、浅井・朝倉という強固な外護者げごしゃがおる! 加えて、大坂の本願寺の一向門徒どもが各地で暴れ回り、貴様らはもはや四面楚歌であろうが!」

 老僧が扇子を激しく打ち鳴らした。


 その言葉には、本願寺の農民たちを異端として見下しつつも、織田を苦しめる手駒として利用しているという、底知れぬ傲慢さが透けて見えた。


 同時に、周囲の僧兵たちが一斉に薙刀を構え、俺たちにじりじりと距離を詰めてくる。

 天台座主に会うことすら叶わず、言葉の端々で威嚇される。交渉の余地など、最初から一ミリもなかったのだ。


 こいつらは、神仏という絶対的なバリアに守られていると信じ切っている。自分たちが高みから命令を下せば、どんな大名もひれ伏すと思い上がっている。


 その権力にあぐらをかき、民の苦しみなど見向きもせず、ただ自分たちの既得権益を守るためだけに、仏の教えを都合よく利用しているのだ。


 本堂に漂う、高級な香木の匂い。

 だが俺の鼻には、それが権力と欲にまみれた、腐りきった泥のような悪臭にしか感じられなかった。


 ああ。こいつらにはもう、どんな言葉も届かない。

 俺は、深い絶望と共に悟った。


 あの雪の中で、凍える民の手をさすっていた蓮心のような本当の信仰は、もうこの山には残っていない。あるのは、宗教という名を被った巨大な暴力装置だけだ。


「……よく分かった。山門の返答、しかとお館様にお伝えしよう」

 光秀は静かに立ち上がり、書状を懐に収め直した。


 その目には、もはや交渉相手への怒りも期待もなく、ただ無機質な冷たさだけが宿っていた。


「ならば我らも、これより先は貴殿らを仏弟子とは見なさず。ただの立ち塞がる敵として……相応の対応をさせていただく」

 その静かで重い宣告に、僧兵たちが一瞬ひるんだ。


 光秀は踵を返し、俺たちを連れて本堂を後にした。

 背後からは、逃げ帰るか仏敵め! 仏罰が下るぞ! という汚い罵声が浴びせられ続けていた。


 だが、俺はもう振り返らなかった。

 光秀の背中が、恐ろしいほどの殺気を纏っているのが分かったからだ。

 山を下る道すがら、光秀がぽつりと呟いた。


「……茂助殿」

「はい」

「これで、未練は断ち切れた。私は、あの魔窟を焼き払う」

 光秀の言葉は、静かだが、鋼のように固い決意に満ちていた。


 家族の平穏を脅かし、民の命を使い捨てる狂った宗教の価値観。それを根底から破壊するために、光秀は自ら地獄の業火を放つ覚悟を決めたのだ。


 俺は、西に傾き始めた太陽に照らされる比叡山を見上げた。

 神仏の聖地として何百年も君臨してきたこの巨大な山が、やがて業火に包まれる。


 その壮絶な未来を想像し、俺はただ無力感に包まれながら、長く重い息を吐き出すことしかできなかった。

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