第139話:煕子と十五郎。光秀の守るべきもの
伊勢長島の惨劇によって織田軍に待機命令が下されてから、数日が経った。
岐阜城から漏れ出す信長のブチギレオーラは日を追うごとに濃くなり、城下の空気はピリピリと張り詰めている。いつ皆殺しの号令がかかるか分からず、俺は胃薬の代わりになるような苦い野草を齧りながら、ビクビクと自邸に引きこもっていた。
そんなある日の昼下がり。
突然、明智光秀から俺宛てに、屋敷へ来るようにという使いがやってきた。
なんで明智様から呼び出しが来たのか。比叡山がらみの軍議だろうか。
疑問に思いながらも、俺は慌てて身支度を整え、重い足取りで明智の屋敷へと向かった。
光秀といえば、今や織田家の重臣であり、将軍の足利義昭とのパイプ役も担う織田家の超重要人物だ。さぞ立派な豪邸に住んでいるのだろうと思って門をくぐったのだが、案内された屋敷は、拍子抜けするほど質素でこぢんまりとしたものだった。
「おお、茂助殿。急に呼び立ててすまなかったな」
通された客間で待っていた光秀は、ゆったりとした普段着の小袖姿だった。
庭の緑が見えるよう開け放たれた縁側の近くに座り、戦場で見せる氷のように冷たい顔つきは消え、どこかホッとするような穏やかな表情を浮かべている。
「いえ、お気になさらず。……あの、今日は軍議か何かで?」
「いや、軍議ではない。ただ、少しそなたと茶でも飲みながら、息抜きがしたくてな」
「はあ……息抜き、ですか」
あのクソ真面目な光秀が、俺なんかを話し相手に息抜きなんて珍しいこともあるものだ。
俺が戸惑っていると、不意に庭の方からコロン、と小さな木の鞠が縁側の下へ転がってきた。
そして、タタタッと覚束ない足音が近づき、庭の隅から、小さな男の子がひょっこりと姿を現したのだ。
「あ、こら、十五郎! いけませぬ、そちらは旦那様がお客様と……!」
血相を変えて小走りで後を追ってきたのは、質素だが品のある着物を身にまとった、美しい女性だった。
大輪の牡丹というよりは、野に咲く百合のような清楚さがある。
彼女は客間にいる俺の姿に気づくと、ハッと息を呑み、縁側の外で深く手をついて平伏した。
「も、申し訳ございませぬ、旦那様! 目を離した隙に庭へ逃げ出してしまい、ご歓談の邪魔を……っ」
顔を青ざめさせて謝罪する女性に対し、光秀は咎めるどころか、ふっと相好を崩した。
「よいのだ、煕子。今日は堅苦しい場ではない。友との語らいの場だ」
友、か。
光秀が縁側から手を伸ばすと、幼名の十五郎と呼ばれた男の子は、嬉しそうに光秀の腕の中に抱き取られた。
光秀はあの戦場での顔からは想像もつかないほどデレデレになり、小さな背中を優しく撫でている。
「茂助殿、紹介しよう。私の妻の煕子と、長男の十五郎だ。まだようやく歩き始めたばかりでな」
「あ……お、お初にお目にかかります! 木下組の堀尾茂助です!」
俺が慌てて平伏すると、煕子は顔を上げ、申し訳なさそうに控えめなお辞儀を返してくれた。
「茂助様。夫から、いつもお噂は伺っております。あの金ヶ崎の退き口では、夫と共に過酷な死線を潜り抜けてくださったとか。本当に、ありがとうございます」
「い、いえ! 俺なんてただ山の中を逃げ回ってただけで、光秀様にはむしろ助けられてばっかりで……!」
俺が恐縮してブンブンと手と首を振っていると、光秀の膝の上にいる十五郎が、俺の熊のような巨体を見て驚くどころか、好奇心いっぱいの丸い目でじーっと見つめて、キャッキャと無邪気に笑った。
「まだ言葉もまともに話せぬ幼子だが、いずれはこの明智の家を継ぐ大切な跡取りでな」
「へえ……可愛いですねぇ」
俺は出されたお茶をすすりながら、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
礼儀正しく心優しい妻と、言葉も話せない小さな子供。そして、家族を慈しむように見つめる父親。
なんだこれ、マジで理想のマイホームじゃないか。
戦国時代という血みどろの世界のど真ん中にいるはずなのに、この屋敷の中だけは、現代の休日のような、信じられないほど穏やかで温かい空気が流れている。
これが、あの明智光秀の日常なのだ。
狂信的な一向宗の門徒でもなければ、権力にまみれた生臭坊主でもない。天下布武という血の道のりを歩かされている武将も、家に帰ればただの一人の父親であり夫なのだ。
「茂助殿」
煕子が十五郎を抱きかかえ、何度も頭を下げながら奥の部屋へ下がった後、光秀がぽつりと口を開いた。
「この時代、誰もがただ、あのように家族と平穏に笑い合える日々を願っているだけなのだ。……私も、そなたも、死んでいった敵の兵たちも、きっと同じようにな」
「……ええ。本当に、そう思います」
俺は深く頷いた。
誰もが、ただ温かいご飯を食べて、家族と一緒に笑って眠りたいだけだ。現代でも戦国でも、人間の根本的な願いなんて変わらない。
なのに、どうして俺たちは泥水をすすり、他人の命を奪い合わなければならないのか。どうして死ねば極楽に行けるなんて狂った教えで、命を投げ出さなければならないのか。
「あの穏やかな笑顔を守るためならば、私は己の手をどれほど血で染めようと構わぬ。地獄へ落ちる覚悟は、とうの昔にできている」
光秀は、湯呑みを見つめたまま、絞り出すように低い声で言った。
その言葉には、家族への深い愛情と同時に、これから自分が犯そうとしている何かに対する、壮絶な決意が込められていた。
「……光秀様?」
「お館様が、動かれる」
光秀が顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳は、さっきまでの優しい父親のそれではなく、冷徹な織田家の武将の目に切り替わっていた。
「近々、比叡山へ最後の使者を送る。山門領を返還するゆえ、浅井・朝倉との繋がりを絶ち、織田に味方せよ、とな」
「最後の……使者」
「もしこれに応じねば、お館様は延暦寺を仏の聖地とは見なさず、ただの敵の要塞として……根こそぎ焼き払うおつもりだ」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
根こそぎ、焼き払う。それはつまり、何百年も続く日ノ本最大の宗教的権威を、武力で完全にこの世から消し去るという意味だ。
「その使者として、私が山へ赴くことになった。……そして茂助殿、お館様からのご指名だ。かつて上坂本を偵察したそなたにも、私の護衛として同行してもらいたい」
「……は、はい?」
俺は間の抜けた声を出した。
「え、俺がですか!? いやいや、俺みたいな木端武者が、比叡山のトップとの交渉に同行するなんて、場違いすぎませんか!?」
「ただの護衛ではない。そなたは以前、山の境界線で僧たちの防壁工事の様子を見てきたな。その生臭坊主どもの実態を、交渉の場で突きつけるための証人でもある」
光秀は静かに立ち上がり、窓の外の空を見上げた。
その方角は、近江にある比叡山の方向だった。
「もはや言葉が通じる相手ではないかもしれぬ。だが、これが血を流さずに済む最後の機会だ。……共に来てくれるか、茂助殿」
俺は、奥の部屋へと消えていった煕子と十五郎の残した温かい空気を思い出した。
光秀は、この家族の平和を守るために、あの魔王の命令に従って地獄の使者になろうとしている。あの狂った宗教の価値観を破壊しなければ、家族を理不尽に奪われる悲劇は終わらないからだ。
「……分かりました。お供します」
俺は、重い腹を括って深く頭を下げた。
誰もが願う、ささやかな家族の幸せ。それを守るために、俺たちはどれほどの罪を背負わなければならないのか。
目前に迫る比叡山という巨大な闇を前に、俺の背中には、決して拭い去ることのできない重苦しいプレッシャーがのしかかっていた。
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