第138話:宗教とは何か。茂助の独白
伊勢長島の惨劇――信長の実弟・信興が一向宗の門徒たちに殺されたという報せが飛び込んできた、その日の夜。
俺たちは近江の最前線へ戻る予定だったが、主君の身内が宗教組織に嬲り殺しにされたという大事件に、織田軍は即座に厳戒態勢となり、全軍に屋敷での待機命令が下された。
お館様のブチギレオーラで呼吸も苦しい岐阜城から逃げるように自邸へ戻った俺は、居間の囲炉裏の前で、泥のように疲れているはずなのに全く眠れずにいた。
目を閉じると、広間で泥だらけの伝令が叫んでいた言葉が、耳の奥で何度もリフレインするのだ。
『こちらの鉄砲で腹を撃ち抜かれても、念仏を唱えながら……笑って……っ! 喜んで死地に突っ込んでくるのです!!』
「……狂ってる」
囲炉裏のパチパチとはぜる火を見つめながら、俺は乾いた唇から呟いた。
「若、顔色が悪りぃですぜ。白湯でも飲みやすか?」
向かいに座っていた三太夫が、鉄瓶から器に湯を注いで差し出してくれた。
その隣では但馬が火箸で炭をいじり、部屋の隅には気配を消して控える捨吉の姿もある。
いつもならバカ話で盛り上がる俺の部下たちも、今日ばかりは重苦しい空気に口数を減らしていた。
「おう、すまん……」
俺は白湯をすするが、胃の奥にへばりついた不快感は消えない。
「なあ、お前ら。大坂の本願寺って、そんなに凄いのか? いくらトップの坊主の命令だからって、農民たちが笑って鉄砲の前に自爆特攻しに行くなんて、どう考えてもカルト集団の洗脳だろ」
俺がたまらず問いかけると、三太夫と但馬が顔を見合わせた。
そして、三太夫が顔の大きな刀傷をボリボリと掻きながら、心底不思議そうな顔で口を開いた。
「なんでって言われ…も…若。実は俺も、岩倉にいた頃からの『一向宗』の門徒なんだぜ」
「……は?」
「だから、あの長島の連中が笑って死にに行く気持ち、俺には痛いほどよく分かるぜ」
ブフォッ!!
俺は口に含んでいた白湯を、囲炉裏の灰に向かって盛大に吹き出した。
「お、おまっ……三太夫! お前、俺に仕える前は落ち武者狩りで身ぐるみ剥いで食いつないでたって言ってただろ! ガッツリ悪人だろうが!」
「いやいや、俺らみたいな泥水すすって生きてる底辺の人間からすりゃあ、この世は最初から『地獄』そのものなんでさぁ。生きるためには、落ち武者の身ぐるみだって剥ぎますぜ」
三太夫は悪びれもせず、ひどくあっけらかんと言った。
「だからこそ、本願寺のお坊様が教えてくれる『南無阿弥陀仏と唱えれば、これまでの罪も消えて死んだ後は絶対に極楽浄土へ行ける』って教えが、唯一の救いなんだぜ。お坊様から『織田の兵を殺せば極楽行きだ』って言われたら、そりゃ喜んで行く奴もいる」
俺は背筋に氷をねじ込まれたような悪寒を覚え、絶句した。
この戦国時代を生きる農民たちにとって、生きることはただの罰ゲームでしかない。だからこそ、「死ねば天国に行ける」という教えが、狂信的な自爆テロの引き金になるのだ。
「し、信じられねえ……。本願寺のトップの坊主どもは、地獄のような畑仕事もせず安全な御殿で美味いものを食ってるんだぞ? そいつらの都合のいい『極楽への切符』を、本気で信じてるのか?」
「……吉晴殿。神仏の教えを疑うなど、恐ろしいことを仰る」
これまで黙っていた従兄弟の但馬が、嗜めるように眉をひそめた。
(あれ? こいつら二条城築城のときと言ってることが違ぇ……)
「仏の御心は絶対です。我ら武家とて、神仏の加護なくして戦場は生き残れません。それに、我ら堀尾家は代々禅宗の教えに帰依しておりますゆえ、当主となられた吉晴殿も、仏の教えは重々ご承知のはず……」
(やべっ、実家の宗派なんて知らねえよ!)
俺は内心で冷や汗をかきながら、三太夫と但馬、そして隅にいる捨吉からの視線を一身に浴びて、思わず目を瞬かせた。
「え? 俺? 俺は……強いて言うなら『無宗教』だけど」
「……むしゅうきょう?」
「神様も仏様も、あんまり信じてないっていうか……。初詣の時か、お葬式の時くらいしか神社仏閣には行かないし……」
俺が正直に答えた瞬間。
部屋の空気が、ピタリと凍りついた。
三太夫の目が、ソフトボールくらいに丸く見開かれている。
但馬は、信じられないものを見るように口をパクパクさせている。
京の河原で裏社会を這いつくばって生きてきたあの捨吉でさえ、引くほどドン引きした顔で俺を見ていた。
「わ、若……正気ですか?」
三太夫が、まるでサイコパスの殺人鬼にでも話しかけるような、震える声で言った。
「神仏を……信じてねえ? 俺らのような落ち武者狩りをしてきた底辺の人間でさえ、神仏の祟りは恐ろしくて毎晩手を合わせているというのに……」
「吉晴殿、冗談はおやめください! 己の命を超える絶対的な神仏を畏れぬなど……それでは、ただ本能のままに生きる『獣』と同じではありませぬか!」
但馬が顔を真っ青にして叫んだ。
(……ええええええ!?)
俺は心の中で絶叫した。現代日本では「無宗教です」なんてごく当たり前のことなのに、この時代では「俺は神も仏も恐れない狂人です」と自己紹介したに等しいらしいのだ。
俺はハッと気づいた。
この戦国時代の人々にとって、宗教とは生活の一部や個人の趣味なんかじゃない。この世界の根幹を成すものなのだ。
現代の俺からすれば、本願寺の一向一揆は「カルト宗教に洗脳されたテロリスト」に見える。だが、この時代からすれば、神仏を信じない俺の方が、よっぽど常識の通じない狂った悪魔なのだ。
「……そ、そうだよな! 冗談だよ冗談! 俺も毎日お祈りしてるって! 南無南無!」
俺は慌てて手を合わせ、誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
三太夫たちは「なんだ、驚かせねえでくだせえよ」とホッと胸を撫で下ろしている。
だが、俺の背中にはびっしょりと冷や汗が張り付いていた。
(……マジかよ。あの魔王・信長は、この『神仏が絶対の時代』に、その神仏の権威そのものを完全に敵に回そうとしてるってことか?)
ふと、あの極寒の焼け跡で出会った、若い僧・蓮心の横顔が脳裏をよぎる。
泥だらけの素手で凍える病人の体をさすり、なけなしの薬湯を分け与えていた彼こそが、俺が思い描いていた「本物の仏の教え」だった。
だが、そんな本物の信仰者はごく一部で、巨大な宗派は信長を仏敵と呼び、何万という門徒を死地に送り込んでいる。
あの魔王・信長が、可愛い弟を理不尽に殺されて、黙っているはずがない。
これから起こる戦いは、ただの領地争いじゃない。戦国の常識である宗教というものを、武力で完全に破壊し尽くすための、価値観そのものの殲滅戦になるのだ。
「……お前ら。これから先、とんでもない血の雨が降るぞ。俺たちは、死んでも生き残るぞ。何が神仏だ、極楽だ。最後に笑うのは、生き残った奴だけだ」
俺が低い声で言うと、三太夫も但馬も、そして捨吉も、少しだけ顔を強張らせながら深く頷いた。
武将同士の戦いとは次元の違う、容赦のない殲滅戦が始まることだけは分かっていた。
だが、この時の俺はまだ、自分の想像力がどれほど甘かったかを理解していなかった。




