第137話:伊勢長島の惨劇。宗教の狂気
とりあえず比叡山との和睦が成立し、あの地獄のような雪中キャンプから解放された俺は、岐阜の自邸で畳の温もりを満喫していた。
だが、それも今日で終わり。また浅井と睨み合っている最前線の横山城に戻らなきゃいけない。
出立の挨拶をするために岐阜城へ登城した俺は、お偉いさん方が軍議をしている広間の隅っこで、早く取次が終わらないかなぁとボーッと待っていた。
「おう、茂助じゃねえか。お前もそろそろ近江に戻るんか?」
不意に背後から声をかけられ、振り返ると前田犬千代が立っていた。
あのド派手な傾奇者だった頃の面影はすっかり薄れ、落ち着いた武将の顔つきになっているが、比叡山の包囲陣で一緒に泥水を啜った、俺の数少ない愚痴仲間だ。
「あ、犬千代様! そうなんですよ、やっとあの極寒合宿が終わったと思ったら、間髪入れずに次の修羅場へ出張です。俺、このブラックすぎるシフト、そろそろお館様に訴え出てもいいですかね……」
「ガハハ! ぶらっくって何だか知らねえが、お前が訴え出た瞬間に首が飛ぶぜ。……まあ、最前線に戻りたくねえって気持ちはよく分かる。俺だって、できればずっと岐阜で美味いもん食って寝ててえよ」
犬千代は豪快に笑いながら、俺の隣にドカッと腰を下ろした。
「でも、比叡山とは和睦したんですよね? 少しは前線も落ち着いてるんじゃないですか?」
「甘いな、茂助。表向きは和睦だが、あいつら上坂本にめちゃくちゃ強固な砦を築きやがった。いつでも俺たちを後ろから刺せるように準備してやがるんだ。お館様だって、あんな坊主どもの舐めた態度、絶対に許しちゃおかねえはずだ」
「うわぁ……やっぱり戦国時代の和睦なんて、ただの時間稼ぎですか。生存難易度が高すぎですよ……」
俺が本気で頭を抱えていると、不意に表から「伝令ェッ!」というけたたましい絶叫が響き渡った。
バタバタと激しい足音が廊下を駆け抜け、襖が乱暴に押し開けられる。そこに転がり込んできたのは、全身を泥と血で真っ赤に染め、今にも気絶しそうな若い兵だった。
「い、伊勢の長島にて、一向宗の門徒どもが一揆を起こし……小木江城が陥落! 城主であらせられる織田信興様が、ご自害なされましたッ!!」
その報告を聞いた瞬間、俺の隣で犬千代が「何だとッ!?」と凄まじい声を上げて立ち上がった。広間にいた武将たちも一斉にガタガタと騒ぎ出す。
俺は持っていた荷物を思わず床に落とした。
「あ、あの、犬千代様……今の、信興様って……」
「お館様の実の弟だぞ! よりによって、たかが農民の一揆ごときに城を落とされたっていうのか!?」
犬千代の顔が、一瞬で見たこともないほど引きつった。
いくら鈍感な俺でも、身内が殺されたとなれば、あの信長がどれほどブチギレるか想像がついて胃が痛くなる。
広間の中心では、取次役の武将が伝令の胸倉を怒鳴りながら掴み上げていた。
「伊勢には滝川の軍勢もいたはずだ! なぜ見殺しにした!」
「長島は川と沼だらけで近づけず……それに、あれは一揆などではありませぬ……っ」
伝令の兵は涙目を浮かべ、ガタガタと震えながら叫んだ。
「奴ら、武器らしい武器も持たぬただの農民のくせに、大坂・本願寺の坊主どもに唆され、『織田の兵を殺せば極楽へ行ける』と信じ込んでおるのです! こちらの鉄砲で腹を撃ち抜かれても、念仏を唱えながら……笑って! 笑いながら喜んで死地に突っ込んでくるのです!!」
広間の中が、一瞬にして水を打ったような静けさに包まれた。
俺の背筋を、氷の刃で撫でられたような悪寒が走り抜ける。
(……はぁ!? 嘘だろ!?)
俺は心の中で絶叫した。
何万という農民が、極楽に行けると信じ込んで笑顔で自爆テロみたいに突撃してくる!?
それ、完全にパニック映画の『ゾンビの大群』じゃねえか!!
俺たち武士や足軽は、不利になれば逃げるし、死ぬのは怖い。だが、あいつらは違う。「死ねば天国に行ける」と本気で信じているから、生存本能というブレーキがぶっ壊れているんだ。
俺は震える声で、隣に立つ犬千代を見上げた。
「な、なぁ、犬千代様……腹を撃たれて、笑って突撃してくるって……正気ですかね」
「知るかよ……。そんな気味の悪りぃ奴ら、聞いたこともねえぞ……」
「大坂の本願寺だか何だか知りませんけど、自分たちは安全なところで贅沢してるくせに、何も知らない農民を洗脳して自爆特攻させてるってことですか。……延暦寺と言い、この時代の仏教ってマジでどうなってるんですか……」
俺の呟きに、犬千代は拳を血が滲むほど強く握りしめ、奥歯をギリリと鳴らした。
「茂助、声がデカい。……だが、お前の言う通りだ。武士の戦なら、負けそうになれば降伏するか逃げるのが当たり前だ。だが、死ぬのが極楽への道だと思い込んでる狂人どもが相手じゃ、そんな当たり前もクソもねえ。信興様は、そんな終わらねえ悪夢に飲み込まれたんだ……」
犬千代の言う通りだ。広間にいる他の武将たちの顔を見ても、いつもの陣取りゲームとは違う、完全に「ガチギレモード」のスイッチが入っていた。
相手は武士の理屈なんか一切通じない。主君の実の弟が、笑う群衆に嬲り殺しにされたのだ。広間には、呼吸をするだけで胸が痛くなるような、凄まじい殺気が満ちていた。
***
その日の夜。
挨拶どころではなくなった城内から逃げるように退出し、城下の屋敷へ向けて歩き出した俺の隣には、松明を持った捨吉たちが並んでいた。
今日はもう駄目だ。あんな殺気だった広間に長居したら、勢いでとんでもない最前線にぶち込まれかねない。とりあえず一旦家に帰って様子を見るべきだ。
ふと背後の天守を見上げると、信長がいる最上階は不気味なほど真っ暗だった。だが、押し潰されそうなほどのドス黒い殺気が、冷たい夜風に乗って、城全体からドバドバと漏れ出している。
「……茂助様。なんだか、空気が恐ろしいですね。お城が怒っているようです」
捨吉が、ブルッと身を震わせてぽつりと呟いた。
「ああ。血を分けた弟をあんな形で奪われたんだ。あの魔王が、これで済ますはずがない。もう、絶対に後戻りはできねえな」
俺は重いため息を吐き出した。
(ただでさえ槍を持った武士と戦うだけで毎晩胃に穴が空きそうなのに、これからは宗教で洗脳されたゾンビ兵団と、血で血を洗う泥沼の殲滅戦になるのかよ……)
「行くぞ、捨吉。とりあえず今日は屋敷に帰ろう。……明日の朝には、どうせまたあの胃の痛くなるような呼び出しが来るんだろうけどな」
どこまでも続く黒い夜道が、これから始まる血みどろの未来を暗示しているようだった。俺は半泣きになりながら、重い足取りで屋敷への帰路を急いだ。を急いだ。
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