第136話:岐阜の再会。勝蔵を抱きしめて
長きにわたり織田軍を凍えさせ、幾多の命を削り取った比叡山包囲網の陣は、唐突な終わりを迎えた。
将軍・足利義昭と朝廷の仲介により、正親町天皇からの勅命という絶対の命令が下り、信長と浅井・朝倉、そして比叡山との間に和睦が結ばれたのである。
表向きは両者痛み分けの停戦。だが、その実態は、限界に達していた織田軍が朝廷の権威という体裁を借りて一時的に戦線を離脱したに過ぎない。
敵が和睦を守る気など毛頭なく、上坂本で要塞を築いている事実を、俺たちは知っていた。
それでも、凍てつく雪中での飢えと恐怖から解放され、岐阜へと帰還できる事実に、俺たち末端の兵は深い安堵の息を漏らさずにはいられなかった。
***
年が明ける。
雪解け水が小川を流れる岐阜の城下町は、久々に帰還した兵たちの熱気と、戦勝ならぬ生還を喜ぶ家族たちの涙で、どこか浮き足立った空気に包まれていた。
だが、俺の足取りは重かった。
俺が向かっていたのは、活気付く大通りから少し離れた、静寂に包まれた武家屋敷の立ち並ぶ一角。森可成の屋敷である。
門をくぐると、屋敷の中は水を打ったような静けさだった。
主君の帰還を喜ぶ声はない。すれ違う家臣たちの顔は一様に暗く、屋敷の奥には深い喪の空気が立ち込めている。無理もない。この森家は、わずか数ヶ月の間に、二つの巨大な柱を失ったのだ。
六月に越前の戦線で、将来を嘱望されていた長男・可隆が十九歳で討ち死に。そして九月、大黒柱である可成が、宇佐山城の防衛戦で壮絶な討ち死にを遂げた。
残されたのは、まだ元服を迎えるかどうかの次男と、その下の幼い弟たちだけである。
「……木下組、堀尾茂助。森殿へのご焼香に上がりました」
案内された広間の奥には、真新しい白木の位牌が二つ、並んで置かれていた。
俺は泥だらけの陣羽織を脱ぎ、静かに手を合わせた。目を閉じると、宇佐山の泥の中で己の身を盾にして戦い抜いた、不器用で真っ直ぐな可成の背中が脳裏に蘇り、奥歯がギリッと鳴った。
「……茂助殿。よくぞ、ご無事で帰還なされた」
背後から、まだ声変わりしきっていない、少し甲高い声が聞こえた。
振り返ると、そこには立派な裃を身につけ、背筋をピンと伸ばして座る少年の姿があった。可成の次男・勝蔵である。
年はまだ十三かそこらのはずだ。南伊勢の戦いの前、可成様と共に俺の家を訪ねてきて、縁側で鮎を骨まで食い尽くしていった、あのギラギラとした三白眼の少年だった。
そして――彼の背後には、小さな子供たちが三人、身を寄せ合うようにして座っていた。
六歳くらいの利発そうな顔つきの幼児と、さらに小さな四、五歳くらいの幼児が二人。
どの子も、まだ親に甘えたい盛りのはずなのに、怯えたような目で俺と、目の前に座る兄の背中を交互に見つめている。
「こら、蘭丸、坊丸、力丸。客人のお前だ、姿勢を正さぬか」
勝蔵が厳しい声で叱りつけると、小さな弟たちはビクッと肩を震わせ、泣き出しそうな顔を必死に堪えて、小さな手をついて頭を下げた。
「……勝蔵くん。親父殿と兄君のこと、本当にお悔やみを。俺が宇佐山にもう少し早く着いていれば、今でも……」
「おやめください」
勝蔵は、俺の謝罪を鋭い声で遮った。
その小さな顔は、能面のように感情を殺し、必死に大人びた表情を作っていた。
「父上も兄上も、お館様のために命を捧げ、立派に武士の本懐を遂げました。森家の者として、これ以上の名誉はありませぬ。茂助殿が悔やむようなことは、何一つない」
「勝蔵くん……」
「この勝蔵が森の家督を継ぎ、後ろの幼い弟たちを立派な武士として育て上げねばなりませぬ。私が泣いていては、家臣に示しがつきませぬゆえ……涙など、とうの昔に枯れ果てました」
真っ直ぐに俺を見据えるその瞳には、狂気にも似た強い決意が宿っていた。
だが、俺にはそれがどんなに痛々しい虚勢であるか、痛いほどよくわかった。
十三歳。現代なら、まだ中学校に入ったばかりの子供だ。
その小さな肩に、「織田家筆頭の猛将であった父の代わりになれ」「家臣たちをまとめ上げろ」、そして「まだ幼い弟たちの父親代わりになれ」という、重圧がのしかかっているのだ。
気丈に振る舞わなければ、家臣たちに舐められ、森家そのものが瓦解してしまう。
だから彼は、「涙など枯れた」と己に呪いをかけ、武士としての鎧を必死に纏い、無理やり大人になろうとしているのだ。
(『もし俺に万が一のことがあれば。あの勝蔵たちのこと、少しでいい、気にかけてやってくれ』)
かつて、俺の家の縁側で可成がこぼした、あの不器用な父親としての切実な願いが、耳の奥に蘇る。
俺は無言のまま立ち上がり、ドスドスと重い足音を立てて勝蔵の前に歩み寄った。
「も、茂助殿? 如何なされた」
勝蔵が怪訝な顔をして身構えた、次の瞬間。
俺は膝をつき、裃姿でかしこまっている勝蔵の小さな体を、両腕で力一杯、乱暴に抱きしめた。
「なっ……!? 無礼な! 離せ、茂助殿! 森家の当主である私に、何という振る舞いを!」
勝蔵は顔を真っ赤にして暴れ、俺の分厚い胸板を小さな拳で何度も叩いた。
その後ろで、驚いた蘭丸たち三人の弟が「あにうえ!」と悲鳴のような声を上げる。
だが、十三歳の少年の力など、戦場で極太槍を振り回してきた俺の巨体に敵うはずもない。俺は暴れる勝蔵の背中を、ただ不器用に、けれどしっかりと包み込んだ。
「離せと言っておる! 私は森の男だ! 武士だぞ!」
「武士だろうが当主だろうが、今は関係ねえ」
俺は、勝蔵の耳元で、絞り出すように低い声で言った。
「お前はただの、父親と兄貴を亡くした子供だろ。……あんな美味そうに鮎を食ってた、ただの生意気なガキだ」
「なっ……」
「誰も見てねえ。ここには俺と、お前の弟たちしかいねえよ。……親父殿と兄君の分まで、今は泣いていいんだ。泣いて、全部吐き出せ……勝蔵くん」
勝蔵の抗う声が、ピタリと止まった。
俺の胸を叩いていた小さな拳の力が弱まり、代わりに俺の着物をギュッと強く握りしめる。
「父上は……兄上は……どうして、私を置いて逝ってしまったのだ……っ。私にはまだ、何もできぬのに……っ!」
勝蔵の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
それは、大人びた当主の顔から、年相応の少年の顔へと戻った瞬間の、悲痛な叫びだった。
枯れ果てたと言っていた涙が、俺の着物を次々と濡らしていく。
「うわあああああっ……! 父上ぇっ! 兄上ぇぇっ!」
広間に、幼い獣のような、慟哭が響き渡った。
勝蔵が声を上げて泣き崩れるのを見た途端、後ろで我慢していた蘭丸、坊丸、力丸の三人も「ちちうええええ!」「あにうええええ!」と大声を上げて泣き出し、勝蔵と俺にすがりついてきた。
勝蔵は俺の胸に顔を押し当て、己を縛り付けていた当主としての鎖が千切れたように、しゃくり上げ、鼻水を垂らし、これまでの数ヶ月間、必死に腹の底に押し込めてきた悲しみと不安と絶望を、すべて吐き出すように泣き続けた。
俺は何も言わず、泣きじゃくる四人の子供たちを、まとめて太い腕で抱き込み、何度も何度もゆっくりと背中を撫で続けた。
可成は、あの縁側でこの子の危うさを案じ、そして宇佐山城の泥の中で、この子たちの未来を守るために命を投げ出したのだ。
俺たちのような名もなき者が這いつくばってでも、この子たちがこれ以上こんな思いをしなくて済む世の中を作らなければならない。
「……泣け、勝蔵。今は全部吐き出せ。お前の親父殿は、誰よりも立派だった。誰よりも格好良かった……」
俺の言葉に、勝蔵と幼い弟たちは、ただ声を上げて泣き続けた。
やがて、泣き疲れた勝蔵と小さな弟たちが、俺の腕の中で小さく息を整え始めるまで、俺はずっとその場を動かなかった。
これから先、この少年が森家の当主として、どれだけの血と泥にまみれて生きていくことになるのか、歴史を知らない俺にはわからない。だが、今のこの瞬間だけは、ただの家族を愛する弱い兄弟たちのままでいてほしかった。
岐阜の冷たい春の風が、開け放たれた障子の隙間から広間に吹き込む。
俺は、並んだ可成と可隆の位牌に向かって心の中で深く頭を下げながら、彼らから託された命の重さを、己の胸の奥深くに刻み込んでいた。
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