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第135話:蓮心の言葉と、終わらぬ戦いの中で


『仏は山に非ず、人の苦しみに寄り添う心に在る』。


「……茂助様。長居は危険です。そろそろ」

 捨吉の切迫した小声に、俺はハッと我に返った。


 このまま長居すれば、境界線を越えてきた敵のパトロールに見つかる恐れがある。俺は背を向け、この場を立ち去ろうとした、まさにその時だった。


「――茂助様、伏せて!」

 捨吉が鋭く俺の腕を掴み、力任せに廃堂のさらに奥、崩れ落ちた巨大な仏像の台座の裏へと引きずり込んだ。


 直後、雪を踏みしめる荒々しい多数の足音と、金属の擦れ合う甲冑の音が焼け跡に響き渡った。煌々とした松明たいまつの赤い明かりが、闇に沈んでいた廃堂を無遠慮に照らし出す。


「おい蓮心! まだこんな小汚い場所で、役立たずの乞食どもに同情してんのか!」

 下品な怒声と共に現れたのは、五人の僧兵たちだった。


 彼らは清らかな僧衣ではなく、立派な胴丸どうまるを着込み、手には真新しい火縄銃や薙刀なぎなたを握りしめている。その顔は酒で赤く火照り、先ほどまで上坂本の里坊で宴会をしていた連中だと一目でわかった。


「……見回り御苦労様です。ここは怪我人ばかりゆえ、どうかお静かに」

 蓮心が静かに頭を下げるが、先頭の僧兵は鼻で笑い、病人が横たわるむしろを泥だらけの足で思い切り蹴りつけた。


「静かにだぁ? こいつらは仏への布施も出せねえ、ただの塵芥ちりあくただろうが。そんな奴らを助けて何になる。それよりお前も、木材運びの手伝いくらいしろ。京の阿呆どもが、信長の馬鹿を上手く丸め込んで時間を稼いでくれている間に、この坂本口を鉄壁の砦にするんだよ!」


「……仏の教えを説く山に、殺し合いのための要塞など必要ありません」

「馬鹿め! 力と銭がなきゃ、この乱世で山門の威光は保てねえんだよ!」

 僧兵は蓮心の胸倉を乱暴に掴み上げた。


「本願寺の門徒衆からも、越前の朝倉からも、俺たち延暦寺には山のように黄金や鉄砲が届いてるんだ。わかるか? 今や我らの武力は日ノ本一だ! 下界で震えてる織田の犬どもを雪の中で干し殺しにして、近江一帯の富をすべて我らが管理する。仏の慈悲にすがるなら、まずは銭を出せってことだ!」

 ゲラゲラと下劣な笑い声を上げながら、僧兵は蓮心の手から、病人のために沸かした薬湯の手桶を奪い取り、泥の中へ蹴り飛ばした。


 バシャッという音と共に、冷たい雪の上に、命を繋ぐはずだった温かい湯が虚しく吸い込まれていく。

 俺は台座の陰で、思わず腰の刀の柄に手を掛けた。


 だが、捨吉が俺の手にそっと自分の手を重ね、無言で、しかし強い力で首を振った。

 ここで斬り合えば確実に見つかり、病人たちも巻き添えになる。哨戒任務を帯びた斥候である俺たちが、絶対にやってはならないことだ。


「……チッ、説教臭い奴だ。行くぞお前ら、次は下の境界線の見回りだ。織田の鼠が紛れ込んでねえか探すぞ」

 やがて僧兵たちは、悪態をつきながら再び焼け跡の闇へと消えていった。


 足音が完全に遠ざかったのを確認し、俺は台座の陰からゆっくりと立ち上がった。

 蓮心は蹴り倒されたまま、泥にまみれた空の手桶を拾い上げ、静かに雪を払っていた。その背中は、あまりにも小さく、痛々しかった。


「……蓮心。あんた、いつもあんな連中に耐えてるのか」

 俺の声に、蓮心は驚くことなく、悲しげな微笑を浮かべて振り返った。


「彼らもまた、乱世の毒に当てられ、道を見失っているだけなのです。銭と力がなければ生き残れないという恐怖が、彼らの心を鬼にしてしまった」


「道を見失ってる次元じゃねえよ」

 俺は吐き捨てるように言った。


「あいつらはもう、仏に仕える僧侶なんかじゃない。仏の教えを隠れ蓑にして、他所から銭と武器を溜め込み、自分たちの贅沢を守るためだけに殺し合いをしてる……武装した山賊の群れだ。あの山は、もう救いの場所なんかじゃない」


 元の世界で引きこもっていた頃、ネットやニュースで見た新興宗教の腐敗や、利権に群がる連中の姿が脳裏をよぎる。だが、ここは戦国だ。彼らは圧倒的な武力と暴力を持っている。


 延暦寺という巨大な宗教組織は、もはや信仰などとうの昔に捨て去った、戦国最大最悪の武装した集団へと完全に成り下がっていた。


 和睦などという言葉は、彼らにとってただの政治的な方便ほうべんに過ぎない。さっきの坊主の言葉が、その何よりの証拠だった。


 俺の言葉に、蓮心は反論しなかった。ただ、泥に汚れた自分の数珠を、血が滲むほど強く握りしめていた。


「……おっしゃる通りかもしれません。この山は、権力という病に冒され、修復できぬほどに腐りきってしまった。私がここで薬湯を沸かし続けたところで、この大きな時代の濁流を止めることはできないのでしょう」

 その声には、深い絶望と、諦念ていねんが滲んでいた。


 だが、俺は彼から目を逸らさなかった。俺は腰に下げていた、陣の非常食である糒の袋と、竹の皮に包まれた味噌を取り出し、彼の手元に押し付けた。


「……これは?」

「麓の敵からの、ささやかな布施だ。殺生に関わるもんは入ってねえ。あんたが食うか、この病人たちに雪を溶かしてかゆでも作ってやってくれ」


「しかし……」

「いいから受け取れ!」

 俺は、戸惑う蓮心の痩せた肩を両手でガシリと掴んだ。


「俺はな、蓮心。ずっと、戦なんか大嫌いで、働くことも嫌いで、ただぬくぬくと適当に逃げ回って生きることしか考えてないような、ろくでなしの臆病者だったんだ」

 極寒の風が吹き抜ける廃堂で、俺は静かに口を開いた。


 この狂った時代に放り出されてから、もう十年以上の歳月が流れていた。


「生き延びるために震えながら槍を振り回し、泥水を啜って、大事な仲間が死ぬのを見て、どうにかこの地獄みたいな戦国を十年這いずり回ってきた。その中で、ずっと考えてた。どうして人は殺し合うのか、どうしてこんな理不尽な世の中になっちまったのかってな」

 俺は、蓮心の澄んだ瞳を真っ直ぐに見据えた。


「上の連中が腐りきってるのは事実だ。あの山はいずれ、お館様……織田信長という本物の魔王の手によって、根こそぎやられる日が来るかもしれない。……いや、そうならなきゃ、この狂った乱世は絶対に終わらないんだ」

 蓮心の目が、微かに見開かれた。


「でもな。腐った利権が吹き飛んだとしても、あんたみたいな人間がいなきゃ、ダメなんだよ。……あんたのように、こんな焼け跡の泥にまみれて、他人のために湯を沸かせる人間がいなきゃ、この国は、本当にただの救いのない地獄になっちまうんだ」

 それは、ただ命を長らえさせるためだけに逃げ回りながら戦ってきた元ニートの俺が、この十年で初めて見つけた、確かな光への祈りだった。


「だから……生きてくれ、蓮心。何があっても死ぬな。あんたが信じてる本物の仏を、絶対に絶やすな」

 俺の言葉に、蓮心は大きく目を見開き、やがてその澄んだ瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。


 彼は渡された糒と味噌の包みを胸に強く抱きしめ、何も言わず、ただ深く、深く、俺に向かって頭を下げた。


「……行こう、捨吉」

 俺は背を向け、今度こそ廃堂を後にした。


 空には厚い雪雲が立ち込め、夜明けはまだ遠い。だが、俺の胸の中には、燃えるようなひとつの決意が宿っていた。


 いずれ来るであろう比叡山の終焉の時。その地獄の中から、あの蓮心という男だけは、絶対に生かして逃がしてやらなければならない、と。


「……茂助様。良い夜でしたね」

 隣を歩く捨吉が、雪を踏みながらポツリと呟いた。


「ああ。少しだけ、気分がマシになった」

 俺たちは、再び死と隣り合わせの泥だらけの陣へと帰還する。



 本日もお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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重箱の隅をつつく指摘を 信長公は「屋形号」を持ってないので、歴史に詳しくない茂助が「お館様」呼びするのは変
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