第134話 真の僧と、それぞれの邂逅
比叡山を包囲する陣は、泥沼の長期戦と化し、すでに三ヶ月が経過して十二月を迎えようとしていた。
だが、包囲網を敷く麓の陣地は相変わらず泥と雪にまみれ、兵たちの疲労は完全に限界に達しつつある。
織田軍は敵を干し上げるつもりが、逆に琵琶湖から吹き付ける容赦のない寒風と飢えによって、じわじわと体力を削られている状態だった。
毎日、粥を啜るだけで凍える夜を幾晩も超える。霜焼けで黒ずんだ手を擦り合わせる足軽たちの目は、どれも生気を失っていた。
元の世界で実家の部屋に引きこもり、ぬくぬくとぬるま湯のような日常を送っていた元ニートの俺にとって、この終わりの見えない極限の野営は、心身ともに磨り減る過酷な日々だった。
そんな中、凍りついた陣中において、にわかには信じがたいひとつの噂が広まり始めていた。
「将軍・義昭様と朝廷の仲介により、お館様と浅井・朝倉、ならびに比叡山との間で、まもなく和睦が結ばれるらしい」
この噂を聞いた末端の兵たちは、ようやくこの地獄のような寒さから解放されるのだと、一様に安堵の息を漏らした。
だが、前線で泥を啜り、戦国の理不尽をこの目で見てきた俺には、それが手放しで喜べる知らせだとはどうしても思えなかった。
可成様を殺され、これだけの兵と時間をすり減らしたお館様が、何の見返りもなくすんなりと和睦を受け入れるだろうか。
それに、織田を仏敵と呼んで徹底的に呪詛している比叡山の僧衆たちが、素直に矛を収めるとは到底思えなかった。
「茂助様、明智様よりお呼び出しにございます」
静かに俺の防寒用の合羽を整えながら、捨吉が小声で告げた。
木下組の本隊は、浅井の南下を牽制するため、依然として横山城の守備に残っている。
だが、俺たち堀尾組は、なし崩し的にこの包囲陣に駆り出されていたのだ。
急ぎ明智陣の天幕を潜ると、そこには無数の書状に囲まれ、酷く疲弊した顔の光秀が待っていた。
「……茂助殿。夜分にすまぬ。貴殿に一つ、頼みたい儀がある」
光秀は、周囲に聞こえぬよう声を極限まで潜めて言った。
「表向きは和睦の使者が行き交っておるが、上の坊主どもが本気で矛を収める気があるのか、私は疑っておる。織田の陣と敵の境界線である『上坂本』の焼け跡を密かに哨戒し、奴らの陣立てに緩みがあるか、きっちりとこの目で確かめてきてもらいたい」
坂本の町は、琵琶湖沿いの港町である下坂本と、比叡山の東麓に広がる上坂本に分かれているらしい。
去る九月、森可成様が命と引き換えに浅井・朝倉軍の足止めを行った際、坂本の町は悉く放火され、火の海と化した。
現在、織田軍が完全に掌握して陣を置いているのは平地である下坂本までであり、山裾である上坂本の奥からは、比叡山側の不可侵領域として強固な防衛線が敷かれている。
俺の任務は、そのどちらの陣地でもない緩衝地帯――黒焦げになった上坂本の廃墟を巡回し、敵の様子を探ることだった。
月明かりすらない新月の夜。俺は捨吉を連れ、甲冑の音を布で殺し、雪と灰に覆われた坂本の廃墟地帯を密かに進んでいた。
かつて栄えた巨大な門前町の面影はどこにもない。黒焦げになった太い柱や、崩れ落ちた土壁が、白い雪の中から墓標のようにいくつも突き出している。
可成様が死んだこの焼け跡を歩くたび、足元から冷たい怒りが渦巻くのを感じた。
「茂助様、足元にお気をつけください。この先の上坂本の里坊跡から先は、敵の防衛線になります」
捨吉の先導に従い、俺たちは焼け残った大木の陰に身を潜めた。
そこから見上げた山の登り口、敵が境界線として構築している陣地には、信じ難い光景が広がっていた。
「……なんだよ、これ」
俺は思わず息を呑んだ。
神聖なる仏の山の入り口であるはずの里坊周辺に、巨大な木材がうず高く積まれ、強固な矢狭間を備えた防壁が構築されつつあったのだ。
和睦の噂などどこ吹く風とばかりに、武装した僧兵たちと浅井・朝倉の兵が入り乱れ、たいまつを煌々と焚いて突貫工事を行っている。
さらに、境界線のすぐ向こう側にある大きな陣幕の奥からは、酒樽を囲んで下品な笑い声を上げる僧兵たちの姿が見え、肉を焼く獣臭い匂いと共に、女のけたたましい笑い声すら漏れ聞こえてきた。
間違いない。比叡山は、和睦の素振りを見せながら、その裏で上坂本の山裾を巨大な要塞に改造していた。
彼らは初めから、和睦など守る気はなかったのだ。朝廷や将軍を間に立てて時間を稼ぎ、その間に防衛設備を完成させ、織田軍をいつでも麓へ叩き落とせる態勢を整えているのだ。
祈りの場を砦に変え、女を抱き、肉を喰らい酒を飲む。麓で飢えと寒さに耐え、生きるか死ぬかの極限状態に置かれている俺たち末端の兵からすれば、腸が煮えくり返るような光景だった。織田の兵に見せつけるように酒宴を開くその態度は、明らかな侮蔑だった。
(……腐りきってる。光秀様が睡眠を削って血を吐きそうになりながら交渉してる相手が、こんな生臭坊主どもなのかよ)
俺は吐き捨てるように呟き、証拠となるその惨状を脳裏に焼き付けた。
「捨吉、もう十分だ。これ以上あいつらの面を見たら、俺まで頭がおかしくなりそうだ。自陣へ引き返すぞ」
「承知いたしました。では、こちらの焼け跡を抜けて下坂本へ……」
俺たちが息を殺し、緩衝地帯にある黒焦げになった廃寺の裏手を通って帰還しようとした、その時だった。
「……うう……痛い……水、水を……」
暗がりの中から、微かなうめき声が聞こえた。
足を止めて目を凝らすと、雪の吹き込むボロボロの廃堂の床下に、筵を被った数人の男女が横たわっていた。
皆、ひどく痩せ細り、病や怪我に苦しんでいる。戦火で家を焼かれ、山へ逃げ込もうとしたものの、境界線で追い返された坂本の民たちだろう。
あの奥の里坊で酒宴を開いている要塞の僧兵たちからすれば、布施の金を持たないただの民など、見捨てる対象でしかないらしい。彼らはどちらの陣地にも入れず、冷たい雪の上に放り出され、ただ死を待つばかりの状態だった。
(見捨てるしかない。俺は哨戒中の身だ。ここで関われば厄介事に巻き込まれる)
頭ではそうわかっていた。だが、元の世界でぬくぬくと生きていた元ニートの俺には、目の前で凍え死のうとしている者たちを完全に無視できるほど、まだ心が擦り切れてはいなかった。武士の面目や軍律よりも先に、現代人としての良心が頭をもたげる。
「捨吉、少しだけ待て」
俺は腰の竹筒を外し、そっと廃堂の床下に近づいた。
だが、俺が水を差し出そうとした瞬間、堂の奥から静かな、しかし確固たる足音が近づいてきた。
「……どなたですか。ここは、行き場を失った者たちが身を寄せる場所です。乱暴はご遠慮いただきたい」
現れたのは、酷く粗末で継ぎ接ぎだらけの墨染の衣を纏った、まだ若い僧侶だった。
年は二十代半ばだろうか。その顔は寒さと飢えで削げ落ちているが、不思議と瞳だけは、この暗闇の中で澄んだ星のように静かな光を宿していた。
手には、雪を溶かして沸かしたであろう温かい薬湯が入った手桶を持っている。
「あんた……あの山の坊主か?」
俺が警戒して身構えると、若き僧は静かに頷き、俺たちの泥だらけの甲冑を見て、敵意を見せることなく微かに微笑んだ。
「はい。私は蓮心と申します。……貴方方は、下坂本から見回りに来られた織田の兵ですね」
相手が山の僧だと知るや否や、捨吉が即座に腰の小刀に手を掛けた。
「茂助様、斬りますか」
「待て、捨吉。……あんた、俺たちが敵だとわかってて、何故騒がない」
「騒いでどうなりますか」
蓮心は静かに手桶を下ろし、横たわる病人の口元に、自分の手でそっと温かい薬湯を含ませ始めた。
「山を包囲する織田の兵も、家を焼かれたこの民たちも、皆等しく飢えと寒さに苦しむ命です。私にとって、ここは仏の御前。敵も味方もありませぬ。……ただ、苦しむ者がいるだけです」
俺は、その言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。
すぐ目の前の境界線で肉を喰らい、酒を飲んで要塞を築いていたあの生臭坊主どもとは、あまりにも対極の姿だった。
山の強固な防衛線から弾き出されたこの寂しい焼け跡の底で、我が身を削り、殺生を禁じる戒律を固く守りながら、泥に塗れた民の傷を自分の素手で洗い、なけなしの薬湯を分け与えている。
「仏は、煌びやかな堂宇や、強固な要塞の中に居られるのではありません。……仏は山に非ず、人の苦しみに寄り添う心に在るのです。私はただ、己の心の内にある仏に従い、目の前の命を温めたいだけです」
『仏は山に非ず、人の苦しみに寄り添う心に在る』。
その言葉は、凍てつく焼け跡の空気を静かに切り裂き、俺の胸の奥底に真っ直ぐに突き刺さった。
理不尽な戦国時代。殺し合いが日常となり、宗教すらも巨大な利権と化す狂った世界。
だが、この継ぎ接ぎだらけの衣を着た名もなき若い僧侶の中にだけは、確実に、俺が元の世界で思い描いていた本物の仏がいた。
「……茂助様。長居は危険です。そろそろ」
捨吉の切迫した小声に、俺はハッと我に返った。
俺は蓮心のその澄んだ瞳をじっと見つめ、言葉を失ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。腐敗しきった聖域の境界線で出会った、本物の僧。
この出会いが、俺たちの運命を大きく揺るがしていくことになるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。




