第133話:延暦寺の闇と、黄金に塗れた祈り
草鞋を通して伝わる地面の冷たさが、足の指先の感覚をとうの昔に奪い去っていた。
比叡山を包囲する陣は、泥沼の長期戦と化し、すでに三ヶ月が経過している。宇佐山城の激戦から逃げ延びた浅井・朝倉の三万の軍勢は、不可侵の聖域であるこの仏の山を盾にして、山頂の延暦寺に立て籠もっていた。
織田軍は麓をぐるりと包囲し、敵を干し上げようとしている。だが、近江の初冬の底冷えは、元の世界で暖房の効いた部屋に引きこもっていた俺にとって、ただの地獄だった。
琵琶湖から吹き付ける身を切るような寒風。毎日啜るだけの薄い粥。凍傷で倒れる兵が続出する中、終わりの見えない野営は、確実に俺たち末端の兵の気力と体力を削り取っていた。
「茂助様。前方より、何やら下りてまいります」
傍らで景色と同化するように身を潜めていた捨吉が、息を殺して小声を上げた。
この日の見回り任務には、俺を筆頭に、氏光、但馬、三太夫、勘兵衛、そして捨吉という、堀尾組の主要メンバーが全員揃っていた。
いくら変人揃いのうちの家臣団とはいえ、この終わりの見えない野営には辟易しており、皆一様に無口になっている。
「……身を隠せ。様子を見るぞ」
俺たちは垂れ下がった松の枝の陰に這いつくばり、山道を下ってくる一団を注視した。
先頭を歩くのは、上質な絹で織られた豪奢な袈裟を纏った僧侶だ。だが、その足元は分厚い革の脛当てで覆われ、腰には鈍く光る太刀が下げられている。そして何より異様なのは、その後ろに続く十数人の人足たちだった。
彼らは薄着で寒さに震えながら、背骨が曲がるほど巨大な荷袋を背負わされ、僧兵の怒声に鞭打たれるようにして道を下っていた。
(あの荷物のデカさ……どう見ても怪しいな)
俺は仲間たちと目配せをし、一団が松の木の下を通りかかった瞬間、地面を蹴って飛び出した。
「止まれ! ここは織田の封鎖線だ。何者か名乗れ!」
俺が槍をドスンと地面に突き立てると、背後から三太夫や但馬たちが一斉に殺気を放って立ち塞がった。だが、先頭の僧兵は驚くどころか、露骨に不快げな顔で眉を吊り上げた。
「無礼な。織田の犬畜生どもが、我らの前で図高らかに吠えおって。我らは比叡山延暦寺、根本中堂に仕える高貴なる僧であるぞ。仏の山へ供物を運び込む我らの道を阻むとは、貴様らは神仏の罰を恐れぬ不信心者か!」
僧兵の口調は、あまりに尊大で傲慢だった。
凍える兵を前にしても微塵の慈悲も見せない、権力にふんぞり返る悪徳役人の顔だ。
だが、俺の気を引いたのは、その御大層な説教よりも、人足たちが背負っている荷物から漂う、生々しい臭いの方だった。
「仏への供物、ねぇ……。捨吉、その荷を調べろ」
「承知いたしました」
捨吉が無言で人足たちに近づき、抵抗を許さぬ手付きで荷袋の紐を強引に解いた。
地面の上に転がり出たのは、清らかな経文や香ではなかった。
「……茂助様、これは」
捨吉の静かな声が、微かに低くなった。
そこには、京の銘酒がたっぷりと詰まった立派な酒瓶が何本も転がり、さらに血生臭い匂いを放つ塩漬けにされた大量の猪肉、そして鮮やかな色彩を放つ高価な絹織物があった。
極めつけは、袋の底からこぼれ落ちた漆塗りの小箱だ。蓋が外れ、びっしりと詰まった黄金の小判が下品な輝きを放っていた。
「ひゃはっ! 猪肉に極上の酒じゃねえか! 生臭坊主ども、俺たちよりずっといいもん食ってやがるぜ!」
三太夫が舌舐めずりをして笑う。
「許せませんな! 仏に仕える身でありながら、なんという強欲!」
氏光が怒りに顔を赤くして刀の柄を握りしめ、勘兵衛も冷ややかな目でため息をついた。
「民から搾取した金と、仏の威を借りた贅沢……。もはや信仰など欠片もありませんな」
「おい、坊主。……お前ら、仏の山で肉を食って、酒を飲むのか? 殺生を禁じて欲を捨てるのが修行なんじゃないのか?」
俺の呆れたような問いに、僧兵は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「黙れ、無知なる俗物が! これらはすべて、国の安寧を祈る加持祈祷に用いる薬であり、神仏を慰めるために必要な供物である! 愚かな下民が、高貴なる天台の法に口を挟むことではないわ!」
「薬だぁ? 民から巻き上げたこの小判も修行に使うのか? 随分と金のかかる祈りだな」
俺は槍に寄りかかり、散らばった金と酒を冷めた目で見下ろした。
元の世界での寺といえば、静かで穏やかな場所だった。だが、目の前の現実はどうだ。
彼らは仏罰という最強の盾をちらつかせ、莫大な特権で富を蓄え、武器を持ち、山の上で贅の限りを尽くしている。
比叡山三千坊。それは信仰の山などではなく、武力と権力で武装した、ただの腐敗しきった巨大利権団体だった。
(光秀様が、睡眠を削って血を吐きそうになりながら交渉してる相手が、こんな生臭坊主どもなのかよ……)
信長があれほど苛烈にこの山を排除しようとする理由が、肌で理解できた。
宇佐山城で、己の身を盾にして死んでいった可成様。俺たち末端の兵は、この凍える中で、飢えと死の恐怖に耐えながら毎日を生き抜いている。
それなのに、この山の上では「仏」を売り物にして、下界から吸い上げた黄金で肉を喰らい、酒宴を開いて俺たちを嘲笑っているのだ。
俺のような、働くことから逃げ続けて適当に生きてきた男ですら、腹の底からドス黒い、強烈な嫌悪感と怒りが込み上げてきた。
「この荷はすべて没収だ。山へ戻って、上の方でぬくぬくしてるお偉いさん方に伝えろ。仏の慈悲を説く前に、まずその腹の中に溜め込んだ肉と酒を全部下界へ吐き出せ、ってな」
「貴様……! 後悔させてくれるぞ! 我ら三千の精強なる僧兵が、貴様らを無間地獄の底へ叩き落としてくれるわ!」
僧兵は悔しそうに顔を歪めたが、俺槍の威圧感と、背後に控える氏光たちの尋常ならざる殺気に気圧されたのか、太刀を抜くこともできずに捨て台詞を吐いた。
そして、空の手ぶらのまま急な坂道を逃げ登っていった。荷を奪われた人足たちも、弾かれたようにそれに続いて逃げていく。
「吉晴殿。……追って斬り捨てましょうか」
但馬が、すっと刀の鯉口を切りながら恐ろしいことを真顔で尋ねてきた。
「やめとけ但馬。構わないさ。どのみち、この睨み合いの結末は一つしかないんだ。あんな連中と、言葉でわかり合える日なんか永遠に来ない」
俺は転がっていた酒瓶と肉の塊、そして黄金の詰まった小箱を拾い上げた。
山全体から立ち上る、腐敗しきった聖域の臭い。
経を唱える声の裏で、小判の擦れ合う音と酒の匂いが混じり合うこの暗い山に、人々を救う仏など、もうどこにもいなかった。
「お前ら、この肉と酒、俺たちの陣に持ち帰って皆に振る舞おう。こんな寒い中じゃ、仏の祈りなんかより、一杯の酒と焼いた肉の方がよっぽど俺たちの命を救う」
「へへっ! 若、そうこなくっちゃな!」
「皆、凍える夜に震えておりましたから、泣いて喜ぶかと存じます」
三太夫が嬉々として酒瓶を担ぎ上げ、捨吉も微笑みながら手際よく荷をまとめ始めた。
俺は重い極太槍を担ぎ直し、鉛色の空を仰いだ。この理不尽な乱世で、過労で命を削る光秀や、命を賭して戦った可成のような男たちが報われる世の中になることを、俺はただ強く願うしかなかった。




