第132話:光秀への贈り物と、南蛮のマント
宇佐山城での凄惨な防衛戦を辛くも生き延びた俺たちだったが、安息の時は訪れなかった。
本来なら、俺たちの守るべき拠点である横山城へ戻るはずだったが、事態はそれを許さなかった。
浅井・朝倉の三万の軍勢が、あろうことか仏の山・比叡山延暦寺に立て籠もったのだ。
その結果、俺たち堀尾組も横山城に帰還することなく、なし崩し的にこの比叡山包囲網に駆り出されるハメになってしまったのである。
季節は巡り、近江の地には容赦のない冬が到来していた。
仏の山を盾にする敵に対し、織田軍は麓に幾重もの陣を張り、凍てつく雪の中で終わりなき睨み合いを続けていた。
この数日間、陣中の見回りに駆り出されるたびに、俺はある男の姿が気になって仕方がなかった。
明智光秀だ。
この陣において、彼ほど不憫な立ち位置の男はいない。
比叡山への封鎖線を維持しながら、一方で京の治安を守り、さらに信長と将軍・義昭という、今や決裂寸前の二人の巨大な上司の間を走り回って調整を続けている。
昨日、遠目に見た光秀は、馬上で幽鬼のようにふらついていた。頬は削げ、目は血走り、それでもなお次々と届く書状に目を通している。
元の世界では実家の部屋に引きこもるニートだった俺は、身を粉にして働くということをひたすら避けて生きてきた。社会の理不尽に押し潰されて、ブラック企業で死んだような目で働き続ける大人になるのが怖かったからだ。
だが、今の光秀の姿は、まさに元の世界で俺が恐れ、逃げ続けた過労死の体現だった。彼ほど優秀で、この狂った戦国において数少ない良識を持った人間が、狂った上司たちの板挟みになって命をすり減らしている。
(……このままだと、あの人、戦う前に過労で死ぬぞ)
「捨吉、いるか。少し付き合え」
俺が陣幕の外へ声をかけると、「はい、ここに」と、雪を払う音と共に捨吉が姿を現した。
最近の俺は、何かと捨吉を側に置くことが多くなっていた。以前なら三太夫を連れ歩いていたが、あいつは隙あらば酒を飲みたがるし、何より声がデカすぎて目立つ。
その点、捨吉は物静かで気が利き、俺の意図を汲んで機敏に動いてくれる。最前線の殺伐とした空気の中では、この丁寧で落ち着いた若者の存在が、俺にとって何よりの救いになっていた。
「茂助様、こんな雪の中、どちらへお出かけですか。冷え込みが一段と厳しくなっていますから、お供いたします」
捨吉は手際よく俺の草鞋の紐を締め直し、防寒用の合羽を用意してくれた。
「ああ、京から物資を売りに来ている商人のところだ。ちょっと欲しいものがあってな」
「承知いたしました。足元が滑りますので、こちらへ」
捨吉の先導で、俺たちは陣の端にある商人の一角へと向かった。
そこには京や堺から戦の匂いを嗅ぎつけて集まってきた商人たちが、寒さに震えながらもギラついた目で獲物を探していた。俺は、その中でも一際立派な品を並べている商人の天幕を覗き込んだ。
「……そこの外套を見せてくれ」
「おお、これはこれは。お目が高い! 南蛮渡来のビロードを贅沢に使った逸品でございます。本来なら公家の方々や、一国の主にお召しいただくような品。お値段は……三十貫文でいかがでしょう」
商人は俺の泥だらけの甲冑を見て、足元を見てきた。
三十貫文。立派な屋敷が建つかどうかという法外な値段だ。
だが、俺もこの戦国を十年以上生き抜いてきた男だ。裏方として兵站を管理し、商人の裏の顔も嫌というほど見てきた。
「三十貫文だと? ……笑わせるな」
俺は商人を鋭い眼光で射抜き、外套の裏地を指先で弾いた。
「ビロードとは名ばかり。裏地の毛皮は獣の臭いが抜けきっておらず、縫い目も雑だ。それに、この吹雪だ。こんな高価な品、ここで売れ残れば雪で台無しになる。持って帰るにも荷物になり、敵に襲われる危険もある。……十貫文。今すぐ、払ってやる」
「なっ!? 無茶をおっしゃる! せめて二五……!」
「だめだ。十だ。断るなら他を当たる。……だが、今日これを買える銭を持っている奴が、この極寒の陣の中に他にいると思うか?」
俺が腰の刀を少しだけ鳴らすと、商人は顔を青ざめさせ、天を仰いだ。
「……わかりましたよ。旦那の勝ちだ。持って行きなさい!」
俺はなけなしの金子を叩きつけ、分厚い漆黒のマントを抱えて、捨吉と共に織田軍の陣所の奥深くにある一つの陣幕を訪ねた。
「光秀様。茂助です。夜にすみません」
外から声をかけると、陣幕の中から「……入れ」と、低く鋭い声が返ってきた。
「茂助様、私はここでお待ちしております。何かあればすぐにお呼びください」
捨吉の静かな配慮に頷き、俺は一人で天幕を潜った。
そこには火の気もわずかな小さな炭火のそばで、山のように積まれた書状の束と格闘している明智光秀の姿があった。
光秀の顔には、隠しきれない疲労の色と、無精髭がうっすらと伸びていた。
「……茂助殿か。こんな夜更けに如何なされた」
光秀は筆を置き、鋭い目で俺を見上げた。京都周辺の政務を一身に担う彼らしい、張り詰めた問いだった。
「いえ、これといった用がある訳ではないんですけど」
俺は無言のまま光秀の前に歩み寄り、抱えていた南蛮のマントを広げると、呆然としている光秀の肩に強引に掛けた。
「な、これは……南蛮の外套ではないか。どうして?」
「京の商人から買い叩いてきました。俺からの贈り物です。光秀様、あんたが倒れたら誰がこの国を調整するんです。まずは温まってください」
光秀は肩に掛けられたマントの重みと温もりに、思わず息を呑んだ。
「……かたじけない、茂助殿」
光秀は深く溜息をつき、炭火の僅かな光を見つめてポツリと漏らした。
「……お館様は、本当に厳しい御方だ」
「え……?」
「比叡山を徹底的に封鎖し、敵を干し上げろと命じながら、一方で義昭様からは一刻も早く和睦をまとめろと突き上げられる。お館様は決して妥協を許さず、義昭様は私を疑う。私は……一体どこまでこの重圧に耐えればよいのか」
氷のように冷徹な光秀が、俺というただの武将の前でふと漏らした、生々しい弱音だった。俺は炭火の前にどっかりと胡座をかき、しばらく沈黙した後で口を開いた。
「……お館様が厳しいのは、確かです。でも、あの人は冷血なだけの魔王じゃありませんよ」
「茂助殿?」
「宇佐山城で、可成様が討ち死にされた時のことです。お館様が一人で城に入ってきて、可成様の骸に取りすがって、声を殺して泣いてるのを見ちまったんです。あの冷酷に見えるお館様が、友を失って泣いてたんですよ」
光秀の手が、微かに震えた。
「あの人は、俺たち全員の命を背負って、地獄の道を先頭で歩いてるんです。厳しくなきゃ、誰も守れないから。……だから光秀様、あんたのその苦労も、お館様は全部わかってるはずです」
俺の言葉に、光秀は僅かに目を見開き、そして深く頭を下げた。
「……茂助殿。貴殿と話していると、絡まっていた糸が、少しだけ解けるような気がする。この温もり……生涯忘れぬ」
「大袈裟ですよ。ただの布切れです」
俺は照れ隠しで笑い、立ち上がった。
「それじゃあ、俺は自分の陣に戻ります。しっかり休んでくださいね」
天幕の外へ出ると、雪の中で微動だにせず待っていた捨吉が、そっと俺に温かい言葉をかけた。
「茂助様、お疲れ様でした。さあ、陣に戻りましょう。温かい粥を用意させてあります」
捨吉の落ち着いた声に導かれ、俺は再び雪道を歩き出した。
相変わらずの吹雪だったが、不思議と寒さは感じなかった。俺は降り積もる雪を踏みしめながら、光秀のような男を、絶対に死なせてはならないと、己の胸に強く刻み込んでいた。
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